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第58話

「は? 隣に家?」 「そうです。隣に家を建てて、渡り廊下で繋ぎましょう。白帆もそれならいいだろう」  長兄が白帆の方へ振り返ると、白帆はべえっと舌を出した。 「渡り廊下は嫌っ! 塀はうんと高くしますっ! それから隣の土地は私が買うし、家を建てるお金も私が払います。兄様たちには頼りませんっ!」  黒髪を振って横を向く。 「白帆、どこにそんな金が……?」 「私だって、躍進座の看板を背負って立つ役者です、見くびらないでくださいまし!」 「そ、それは失礼」  自分の財布を丸ごと預けこそすれ、白帆の通帳など見たことがなかったので、首をすくめた。 「ということで、今までお世話になりました」  白帆は門人たちに囲まれ、絶対安静を守らされていて、舟而は一人で荷造りをし、近所の人に挨拶をして、白帆の世話を続けるために、引越屋のトラックに荷物と共に乗り込んだ。 「白帆ちゃんによろしくね。元気になったら、遊びに来るように言ってね」 「甘い物ばっかり食べてないで、ご飯もしっかり食べるように伝えてよ」 「この新聞の切り抜き、伽羅蕗(きゃらぶき)の作り方なの。白帆ちゃんに渡してちょうだい。渡せば分かるから!」 「これ、白帆ちゃんの好きな黒豆を煮たのよ。持って行って頂戴」  白帆が近所の人たちから、いかに可愛がられていたかを今さらに思い知りながら、舟而はその一々に会釈をした。 「先生、白帆ちゃんのこと、くれぐれもお願いね。頼んだわよ」 「先生、白帆ちゃんと仲良くね。男が家の中で頭を低くしておけば、家庭は上手く行くんだからね。白帆ちゃんに天下を取らせてあげんのよ」 「先生、白帆ちゃんのこと、泣かせるんじゃないわよ」  舟而はしっかり頷き、トラックに揺られて上野松木町へ向かった。  上野松木町、寛永寺近くの銀杏家の隣に白帆が新築した家は、流行の「文化住宅」と呼ばれる和洋折衷の住宅だ。  六角形を縦半分に割ったような形の張り出しを持つ洋館を、玄関脇に組み込んだような造りになっている。  間取りも流行の中廊下で、玄関と台所をつなぐ東西の廊下を中心に、北側と南側の両方へ部屋を置く。  白帆は南側へ居間と次の間、洋間の応接室を置き、北側に水道管節約のため、台所や洗面、内風呂の水回りをまとめた。そして、台所の向こうに女中部屋、水回りの手前に茶の間と内玄関、そのさらに手前に季節や時間に影響されない安定した光量を望む舟而の書斎を配した。寝間は書斎脇の階段を上がった先の二階に設けている。 「それにしても、たったのひと月で家を建てるかね」  廊下との段差がない板の間の新しい台所で、舟而は新しく置いた丸椅子に腰掛けて、組んだ脚の膝を両手で抱えながら苦笑する。  土地は舟而が購入し、建物は白帆が采配したのだが、白帆は子供の頃から地道に積み上げてきた貯金を惜しみなく使い、職人を多く雇って工期を大幅に短縮させた。 「だって、一刻も早く銀杏の家を出て、先生と二人きりになりたかったんですもの」  力強い夏の光が、大きく取った天窓の磨り硝子を通って柔らかく降り注ぐ中、白帆は西瓜を切り分けながら、いたずらっぽく肩を竦めて笑う。 「嬉しいことを言ってくれるね」  切った西瓜を縁側に持ち出すと、梅雨明けを待ち望んでいた蝉たちが力強く羽を震わせる音に包まれる。  二人は(たらい)に張った水に足を浸け、身を乗り出して西瓜を食べた。  法律で許される目一杯まで高く築いた塀の内側で、甘い汁に濡れた唇を触れ合わせ、白帆は切れ長な目を細める。 「先生、この家は気に入っていただけましたか」 「もちろん。遠慮なく住みつかせてもらうよ」  二人が目を細め、もう一度西瓜の味がする唇を重ねようとしたとき、勝手口から声がした。 「お嬢様ぁ、コロッケをたんと作ったんでお裾分けですぅ!」  宣言通り、塀を高く築いたとはいえ、家には出入口が必要で、新居にも玄関、内玄関、勝手口の三つの出入口がある。 「白帆。到来物の生卵だよ! 身体にいいから飲みなさい!」 「白帆ちゃーん、バニシングクリーム買って来たから、お風呂上りに使いなさい!」 「お嬢様、白瓜の印籠漬です。いえいえ、いいんです、いいんですよ、たんと漬けましたから。先生と召し上がってください」 「お掃除を手伝わせていただきます。お嬢はどうぞそのままで。また倒れるといけませんからね。お勝手させていただきますよ」 「今日は洗濯日和ですね。はい、ちょいと盥を拝借」  銀杏家の人々が白昼堂々、正当な用事を持って入って来るのを防ぐことはできなかった。

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