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第59話
しかし、白帆が何の後遺症もなく、しかも早期に快復できたのは、何より銀杏家の人々の暑苦しい愛情と手厚い世話によるものだ。
さすがの白帆お嬢様も多少は飲み込むようになっていた。
「ありがとね、とても助かる」
「あああ、そんなお礼なんていいんですよ! お嬢様が舞台の上で、お客さん達を喜ばしてくれたら、それでいいんです!」
人の手を借りるようになって、白帆の負担は軽減し、演じる役についての勉強や稽古に割ける時間も、読書をしたり、舟而と語り合う時間も増やすことができた。
壁に本棚を作りつけた書斎の窓際で、白帆は膝の上に哲学書の定番『善の研究』を広げてい、舟而は執筆に励んでいたが、半時も過ぎると原稿用紙のマス目を埋めるのに飽きて、白帆へ話し掛けた。
「小説も、芝居も、腹が膨れるものではないのに、どうしてこんなにも僕たちは真面目に続けているんだろうな」
「さよですね。でも、この世だって地獄ですから、一刻の憂さ晴らしはございませんと」
「なるほど僕たちはその憂さ晴らしに、躍起になっているということだな」
白帆は深く頷いた。
「いい仕事だと思います。辛くて苦しいことの方が多い毎日を、少しでも楽しくするお手伝いができるんですから」
「そういうお前さんは、どうやって憂さ晴らしをしているんだい? 芝居を観たって、自分の芸が気になるだろう?」
「さよですね。芝居は、どうしてもお勉強として拝見する心持ちになっちまいますね。でも、先生がいらっしゃいますから大丈夫です」
「僕が憂さ晴らしなのかい?」
「ええ」
白帆は切れ長な目の端をほんのり赤く染め、その目の端で舟而見る。その意味は舟而に伝わって、舟而も悪い気はせず、目を弓形に細めた。
「はい、ちょいと失礼致しますよ」
襖は簡単に開けられて、稜而は意味もなく咳払いをし、白帆はおかっぱの黒髪を手櫛で整えた。
窓も全開され、夏の風が請じ入れられて、両襷をした門人は本棚へはたきを使い始める。
「お嬢様、難しい本を読んでいらっしゃいますね」
「先生に教わりながら読んでいるんだよ」
「へえ。先生に教わったら、読めるようになるものなんですか」
白帆の膝の上にある本へ顔を近づけ、臭い物でも嗅いだような顔をして首を左右に振った。
「そんな顔をしなくても、読みたいと思えば、誰だって少しの助けで読めるようになるよ」
舟而が笑いながら声を掛けた。門人はゆっくり首を左右に振る。
「まずは難しい本を読みたいって思うところから始めなけりゃなりませんね。もうそれが難しいや!」
舟而と白帆に背を向けて、鴨居をはたきでぶっ叩く。
「そうかい。あなたは読書に興味がありそうに見えるけど。僕にできることならいつでも助けるよ」
「あっしは小学校もろくに出てませんで、こんな漢字なんて読めませんや」
本棚に並ぶ背表紙に向かってはたきを動かす。
「結構じゃないか。平仮名と片仮名が読めるなら、本の半分以上は読める計算だ。僕が読み仮名を振ってあげるから、読んでごらんよ」
すると舟而の顔を見て、それから俯き、小さな声で言った。
「先生の『芍薬幻談』が読んでみたいんです。皆が、面白い、面白いって。たまに読んで聞かせてもらうんですけど、話が長いから、全部は読んでもらえなくって」
「それなら、喜んで読み仮名をつけるよ」
舟而は早速、本棚から『芍薬幻談』を取り出して、鉛筆を片手に読み仮名を書き込み始めた。
「本当に読み仮名を書いて下すってるんですか」
「まあね。僕の話を読みたいって言ってくれているんだもの。そのくらい造作もないさ」
門人は羽根箒で机の上を払いつつ、作業する舟而の手元を様々な角度から覗き込む。
「夕方までには持って行くよ」
「楽しみだなあ!」
門人は長唄を歌いながら掃除に精を出し、書斎の中を清めると、部屋を出て行きしなに振り返った。
「ところで話は変わるんですがね、先生。日本刀を扱うご趣味がおありなんですか。二階の寝間に置いてある香油、刀の手入れに使うものでございましょう?」
舟而は慌てることなく弓形の目を細めた。
「うん、まあ、大太刀なんてものじゃない、合口 くらいなものだけどね」
白帆は頬を赤くして目を逸らし、窓の外に咲く向日葵の花を見た。
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