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第66話

「僕は銀杏座へ戻るのも方法だと思うけどね。躍進座は銀杏座から派生しているから、再び合同しようという話もまだ残っているんだろう?」  舟而が味噌汁の椀を三つ運んできて、夕餉の支度が整った。 「でも、銀杏座は旧歌舞伎ですから。私、子供の首を差し出して、いい話だなんて泣くのは、嫌なんです。江戸の頃は事情が違っていたというのはわかるんですけど、今は江戸じゃありませんし」 「子供の首を差し出すというのは、『菅原伝授手習鑑(すがわらでんじゅてならいかがみ)』の、松王(まつおう)首実検(くびじっけん)ですね」  日比は銀縁眼鏡の奥の目を細め、白帆はそっと頷いた。 「一応、新劇をなさるところからも、お話は頂いてるんです。芸術志向で、ご立派だとは思いますけど。……いろいろ考えるほどに、今の私はそういう難しいことではなくて、もっと純粋にお客様が泣き笑いできる情感豊かなお芝居がしたいんです」 「いっそのこと、白帆さんが一座を旗揚げをなさったらいかがですか」 「とんでもない。親方ですら再建を断念するようなご時世に、私が人を集めて一座を旗揚げするなんて、とてもとても。それに私に座元(ざもと)の才覚はありません」  白帆はふるふると首を横に振り、またしょんぼりした。 「私は選り好みをしすぎているんでしょうか」 「今はまだ、遮二無二(しゃにむに)イタ(舞台)に上がれるならどこでもいいなんて、そんな探し方をする時期は来ていない。それまでは二代目銀杏白帆の名にふさわしい場所をと、ゆっくり考えていいんじゃないかな」  舟而の言葉に白帆はこくんと頷いた。  特に名案も思い付かないまま、舟而が原稿を書く書斎の窓際で、白帆は雑誌『赤い鳥』を読み返していた。子供向けに書かれた童謡が心に優しく、震災の疲れが今頃になって出て来たかと思う。 「お嬢様、暖炉ってのは煮炊きするためのものなんですか?」  以前、舟而に香油の存在を訊ねていた門人が、小さな声で白帆に本を開いて見せた。 「舟而先生がおっしゃるには、ヨーロッパの暖炉ってのは、日本の囲炉裏(いろり)を壁に取り付けたよなものらしいよ。だから汁も温めるし、その周りには人が集まって暖まったりもするってさ」 「皆、壁に向かって座るんですかねえ。壁に向かって座るなんて、叱られた子供か、座禅組んでる坊さんみたよになりやせんかね」 「ふふ、そうだねぇ。あとで先生のお仕事にキリがついたら、詳しく教えていただきましょ」  舟而の書斎は、今や銀杏座の門人たちの図書館として機能して、いつも数名が入れ代わり立ち代わり本棚の前に立ったまま、あるいはどっかり座り込んで本を読んでいる。 「ニャアーン」  餡子(あんこ)と名付けられた、さらし餡のように白っぱけた羊羹(ようかん)色の猫までが、舟而の胡坐の中に丸くなって大人しくしている。  原稿を書く手を休めて書斎の中を見回し、何も一部屋に集まらなくても、と舟而は片頬を上げ、窓際に座る白帆の横顔を見て弓形に目を細め、再び原稿用紙へ視線を戻して万年筆を握ったとき、玄関から声がした。 「白帆ちゃーん、舟而せんせーい、お客様よお!」  次兄の言葉に二人が顔を上げるのと同時に、書斎の襖がザッと開けられた。 「やあ、渡辺舟而の癖に、随分とむさっ苦しい書斎だなァ」  そこには脚本家の森多孝弥が呵々と笑っていた。 「森多先生!」  白帆が座布団を降り、左右の袖を小指の先でさっと払って膝の前へ三つ指をつくのへ目を細める。 「やあ、おきゃんな仔猫チャン。貰いに来たよ」 「は、餡子をでございますか?」 「餡子? 小豆でも炊いたのかい? ぼくは辛党だから餡子は遠慮しとくよ。貰いに来たのはアンタ、二代目銀杏白帆さんサ」 「私、ですか?」  白帆は舟而と顔を見合わせた。

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