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第81話

「僕が危険思想の持ち主? 僕はノンポリ(nonpolitical)だぞ」  舟而はざら紙に刷られた文字へ目を走らせながら、口を尖らせる。 「わたくしがいくらそんな内容ではない、全部読んでみてくれと言っても、印刷屋の親仁(おやじ)たちは近寄るのも嫌だといったふうでして。その牛牛会(ぎゅうぎゅうかい)というのは、印刷所が多く集まる牛込(うしごめ)界隈を取り仕切る集団で、印刷屋の親仁たちが睨まれたくないという心理に陥るのは致し方ありません」 「ギューギュー会なんて、満員電車みたよなお名前は、私、初めて聞きます。そんな知り合いはいません」  白帆は黒髪を左右に振った。 「知り合いだったら、むしろこんなものを回したりしないだろう。僕がノンポリだってわかっているんだから」  舟而は白帆が淹れてくれたほうじ茶を飲みつつ、何度も回し状を読み返した。 「興行をやるものは、その土地を仕切る方々と、よらぬお付き合いはあるものですけど……、銀杏の兄に訊いてみます」  白帆は下駄をつっかけて勝手口から飛び出していき、舟而は左手を頭の中に突っ込んで髪を掴んだ。 「牛牛会が回し状を回したって?」  白帆の長兄が勝手口から上がってきた。 「これです」  舟而が差し出したざら紙を手にすると、黒目を上下に動かしてさらさらと全文を読む。 「ふむ」  その一言だけで、隣にいた次兄に渡す。次兄は白帆とそっくりな切れ長の目をすうっと細めた。 「ふーん」  その一言だけで、隣にいた門人に渡す。 「へーえ」 「ほーお」 「はーん」 「ひひーん」 「ふふーん」  いつの間にか客間一杯に門人たちがいて、ざら紙は次から次へと手渡されていった。  回し状には振り仮名はなかったが、誰もが当たり前に文字を読んでいる。 「ずいぶん文字が読めるんだな、お前たち」  長兄が部屋の中を見渡すと、一番しんがりの門人がざら紙を手に長兄の元へ歩いてきた。 「そりゃあ、毎日先生に本の読み方を教わってますんで。舟而先生は、お嬢様だけの先生じゃありません、あっしら全員の先生です。それだけに腹が立ちますねぇ」  首を振り振りそう言うと、長兄の手にざら紙を返した。 「その首を振ってるの、ひょっとして僕の真似?」  「ええ、似てますでしょう?」  門人は口元を拳で隠して肩を震わせて見せると、自分の持ち場へ帰って行った。  舟而は口の前に拳を運んでから自分の癖に気づき、少し迷ったが口元を拳で隠して肩を震わせた。 「おお兄様、何かわかったの? ギューギュー会がどんな人たちなのか、わかるの? 電車の人かしらん? 牧場の人かしらん? 私、先生のお力になりたいの。どうしたらいい?」  白帆は眉根を寄せて長兄の顔を覗き込んだ。 「うん、白帆は何も心配しなくていい。怖がることも何もない。全部、おお兄様がやってあげる。お前は何も心配せず、舞台を勤めることだけを考えていなさい」  長兄はニッコリ笑って、白帆の頭をぽんぽんと撫でた。 「じゃあ白帆、今日も頑張って。僕はいつもの場所から見てる」  チョッキのポケットから取り出したキャラメルを一粒、白帆の口の中へ入れてやると、白帆は切れ長の目を細めた。 「はい、行って参ります」  白帆が誰かに持ち上げてもらった暖簾の下をくぐって楽屋を出て行くと、舟而は客席へは行かず、駐車場へ走った。 「白帆にこんな嘘をつくのは初めてだ」 「いいんですよ、安心して舞台を勤めるためのおまじないなんですから」  乗り込んだ車の中には、長兄と次兄、そして日比が乗っていた。 「日比君まで、どうしてだい」 「面白そうじゃありませんか。わたくしは愚民どもが苦しんで地面に転がる姿を見るのが好きなんです」  銀縁眼鏡の奥の目を細める横顔に、舟而は嘆息した。 「僕はきみと対等な関係でいられることをありがたく思うよ」 「対等なんかじゃありません。尊敬致しております。原稿を約束通りにいただける、貴重な作家です」 「それはどうも。これからも約束だけは守るように心掛けるよ」  向かった先は牛込だ。内側を伺い知ることはできない高い外囲いに、銀杏家の粋な体裁とは違ったよく言えば重厚な、悪く言えば少々野暮ったい総門があり、門の両脇には牛牛会の法被を着た男が立っていた。  舟而たちが乗った車を見るだけで法被姿の男たちは門を開け、雪駄を履いた足を肩幅に開き、軽く拳に握った手を身体の側面につけて、頭を下げた。

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