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第94話(最終話)
しかし、葬儀が済むと祭壇の前に座って、ぼんやりと遺影を眺める時間が多くなった。四十九日に近所の谷中 墓地へ新しく建てた墓へ納骨すると、墓碑へ日参してなかなか帰って来なかった。
舞台はすべて降板し、あれだけ楽しそうに作っていた食事も一切作らなくなり、掃除も洗濯も読書もすべて興味を失って、遂には床から起き上がらなくなった。
「旦那、テレビを観ましょうよ。オリンピックですよ。バレーボール、ソ連との決勝戦ですよ!」
弟子が誘っても気だるそうで、
「お前たちだけで観なさい」
と素っ気ない。
見かねた弟子たちが掃除や洗濯をして、食事を作り、家の中に泊まり込んで世話をしたが、床に臥せったまま、遺影を眺めているだけの生活は変わらなかった。
食もみるみるうちに細っていって、何を出しても二、三口で箸を置いてしまう。重い衣装を着て何時間も舞台に出ずっぱりで耐えていた身体だったのに、骨が浮き、肉が薄くなって、寝間着の裾を引きずった。
「白帆さん、せめて栄養の注射一筒だけでも」
日比の言葉も聞き入れてはもらえなかった。
「要りません。私よりもっと必要な方に打ってあげてください」
枕の上でさらさらと髪を横へ揺すった。
「白帆さん、眠くなって、気持ちが穏やかになる薬です」
「もう眠いし、穏やかだから要りません」
「舞台に立てなくなります。舟而先生が呼び掛けてくださって、観たいと思っているお客さんがたくさんいるんですよ」
「私は先生が観て下さらない舞台に立つつもりはありません。毎日、先生が観て下すったから立っていただけです」
「毎日?」
「ええ。先生は毎日私の舞台を観て下さいました。どんなに忙しくても、私が出る幕だけは見に来て下すったんです。ひと目だけでも、必ず。私はそれが楽しみで、舞台に立っていたんですよ」
「今も、これからも、ずっと空の上から見ていて下さると思いますよ」
白帆は首を横に振り、銀杏鶴紋の手拭いを胸に抱いた。
「私は自分から死ぬつもりはありません。でも生きるつもりもありません。気が済むまで寝込んだら、どうにかなるかも知れないし、ならないかも知れない。わからないけど、そっとしておいてください。先生が亡くなったという事実は、私には耐え難くて、思い出すことがたくさんありすぎて、その思い出は全部幸せなんです。後生ですから邪魔をしないで、ゆっくり思い出させてください。先生は、もう思い出の中にしかいらっしゃらないんですから、せめて思い出の中の先生に会わせてください」
半月後、白帆は肺炎を起こした。抗う体力はなく病に圧されっぱなしに圧されて、取り囲んで懸命に励ます人たちが、何の巡り合わせかほんの一瞬目を離した隙に、すっと一人で旅立って行った。
墓は舟而の隣に建てられた。
葬儀を手伝う者が引き上げて、誰もいなくなった台所へ日比が足を踏み入れたとき、蛇口から流しへ水滴が垂れて小さく音を立てた。
その瞬間、日比は天窓から差し込む光の中に、片襷と前掛け姿で流しの前に立つ白帆と、椅子に座って組んだ足の膝を抱えた舟而が笑顔で語らう幻を見た。
「キャラメル……」
日比は初めて顔を覆い、床に膝をついた。
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