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駄目だ。隼人は自分の頭の妄想を追いやり、現実を直視した。仕事は終わっていない。
「だから、さっさと行けって。何のために、俺がここにいると思っているんだ」
ジュリアーノが自分自身へ指を向ける。そういえば何でいるんだろうと、書類を拾いながら隼人は今になって不思議に思った。同僚はみんな帰ったはずだが――
「俺がここにいるのは、新しい人生の幕開けを迎えるためだ。ザンギョウっていう人生をね」
日本語でザンギョウと言われ、はあっ? と隼人は首を傾げる。
「帰り支度をしていたら、カピターノに言われたんだ。ハヤトの代わりにやってくれって」
ジュリアーノも立ちあがると、同じく立派な黒い髭が印象的だったルチアーノ・パヴァロッティが今から壮大にオペラを歌いあげるかのように、両手を広げた。
「イタリア人の名誉と誇りにかけて、俺はザンギョウを成し遂げるんだ。いいか、俺たちだって、ザンギョウするんだ! 奇跡を起こすぞ!」
「……」
いきなり何がどうなっているのか、目の前の展開についていけないでいる隼人に歩み寄ると、その肩に腕をのせて、ニヤニヤと顔を近づけた。
「だから、日本人も奇跡を起こせ。仕事より恋だと叫んじまえ。ここはイタリアだ。バンザイアモーレ!」
頑張れよ! と言わんばかりに、思いっきり背中をドン!と叩いた。
部屋の鍵を開けて入ると、ロミオはランプ形状の明かりをつけて、鞄を椅子に放り投げた。そのまま寝室へ向かい、ベッドに倒れ込む。
何だか疲れたとロミオは唸った。パウロに手を貸したのはいいが、ジョークも通じなさそうな頭のかたい男が相手だとは思わなかった。
――あんな不味そうなジャガイモ野郎のどこがいいんだ。
格子状の窓から、外を見た。もう夜の女王がその衣を広げている。今頃、パウロはあの幼馴染みと想いを遂げているだろう。予定では。
ロミオはベッドから気だるそうに身を起こすと、窓のカーテンを引いて、寝室の明かりをつけた。どうもお腹が空いている。他人のセックスを撮影していたので、自分も興奮しているのかもしれないと感じた。
――あんな下手糞な奴が好きだなんて、パウロも物好きだ、ほんとに。
台所へ行こうとして、ベッドに無造作にあった携帯に目がとまった。パウロとの用事で忙しくて、放り出していたのだ。何気なく手に取って画面を開くと、何十件もの着信があった。自分の携帯番号は身近な人間にしか知らせていない。誰がかけてきたのか予想はついたが、着信履歴を確認すると、やはり一人の名前が永遠と続いていた。
「……ちぇ」
ロミオは赤い唇を尖らせた。
「通じなかったら、会いにくればいいのに……」
言い方はきついが、その横顔はどこか寂しそうに携帯の画面を眺めている。
「いつも、オレのことは後回しだ……」
ハヤトのばかやろうと、ロミオは呟いた。オレとやるより、仕事をしている方が興奮するのかよ。日本人は、本当にわけがわからねえ。無茶苦茶なポルノビデオを平気で作っているくせに。仕事がセックスよりも快感なら、いらねえじゃねえか。
――ばかやろう……
ロミオは携帯をベッドの真ん中に投げ落とすと、寝室を出た。台所でパスタでも茹でようとして、ドアのチャイム 時刻は夜の九時を過ぎている。
ロミオは怪訝そうに、玄関先の厳めしい老人のような扉を見た。鍵は二重にかけてある。周辺の治安は悪くはないが、泥棒に気に入られたくはないので、元々の鍵に加えて、知り合いに紹介してもらった錠前師に設置してもらったのだ。その錠前師はナポリの人間で、元は泥棒を生業にしていたらしい。
「前の仕事は腕が落ちたから辞めたんだ。で、その経験を活かして、錠前師になったんだ。元泥棒が作るんだから、自信はあるよ」
ロミオは全部聞き流した。地中海の太陽のように明るい彼らの泥棒術はまさに神業の域で、第二次世界大後にナポリ湾に停泊していたアメリカ軍の戦艦を盗んで解体してしまったという信じられないような記録もあるほどだ。どこまでナポリの錠前師の話が本当なのか興味もなかったが、鍵は上等だった。あの連中もたまには真面目に人を騙すんだと、ロミオは皮肉げに思ったが、その頑丈な鍵を前にして、腕を組んで仁王立ちする。
また、チャイムが鳴った。
歴史的に古いアパートメントだが、ロミオは何気に改造もしていた。玄関に小さな押しボタン式のベルを設置したのだ。これは、以前に部屋を訪れて玄関のドアを何度も叩いたにもかかわらず、ロミオが開けなかったと激怒した母親に厳命されて、仕方なく置いたのだ。ロミオがすぐに気がつくようにね! と母のヴァレンティーナは言ったが、息子はその時居留守を使っていたのである。もちろん、マンマはそれを承知で命令したようで、ロミオは罰が悪そうに肩をすくめたが、今はその小さく口ずさむようなチャイムが、ロミオの足をその場に縛りつけていた。
三度、チャイムが鳴る。
ロミオは低く唸った。大体の訪問者は、これで目の前の扉が開かなければ去ってゆく。部屋に灯りがついていようが関係ない。
ロミオは扉から目を離し、そっぽを向いた。まるで何かのプレッシャーから逃れたいかのように、表情が強張っている。
――行っちまえ。
ロミオは耐えられないように目を伏せた。
だが、四度目のチャイムが規則正しく鳴った。
玄関の扉がひらくまで押し続けそうな気配に、苛立たしげに舌打ちすると、中世絵画に描かれた人間を裁く神よりもよほど恐ろしい顔つきになって、二重にかけられた鍵を解除する。そして、ノックを掴んで乱暴に開けた。
「うるせえんだよ!」
怒鳴った先には、隼人がいた。ネクタイを締めた背広姿で、トレンチコートを着ている。鞄も抱えている。会社帰りの格好だ。
ロミオはその姿を見て、少しだけ怯んだように後退った。だが口は前進した。
「一回鳴らせば、部屋中に聞こえるんだ。こんな夜に何回も鳴らすな! 迷惑なんだ!」
「すまん……」
隼人は恐縮したように頭を軽く下げる。
「その……お前がいると思ったから……何回も押してすまん……」
正確なイタリア語で、素直に謝る。
ロミオは心のボタンを押されたように、攻撃的だった口元の温度をちょっとだけ下げた。
「――何の用だよ」
またまた、そっぽを向く。
「オレは疲れているんだよ。さっさと用件言って帰れよ」
弾かれたように隼人は頭をあげた。
「つ、疲れているって?」
「仕事で忙しかったんだよ、あんたと同じ」
「……そうか」
隼人は寂しそうに――だがちょっとだけ安心したように息を吐いた。
「疲れている時に訪ねて悪かった、ロミオ」
まだロミオは不貞腐れたように横を向いている。隼人からはわからないが、その唇はわずかに震えている。
「――早く言えよ」
低い声は、かすかに掠れている。に足を止めた。
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