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ミラノ・コンチェルト①
その数分前、隼人は無事に交渉を終えると、ホッと一息つきながら、リベルティ様式の華麗な建物の外へ出た。
今日の商談相手は、隼人が勤務する自動車メーカーサガノにとって、とても重要な相手だった。イタリアでも名の知れたカーデザイナーであるイラーリオ・ザネッティは、イタリアを代表する自動車メーカーブランヴェッリに所属し、世界でも屈指の高級スポーツカーのデザインを担当してきた。だが五年前に独立し、自分が生まれ育ったミラノで個人事務所を起ち上げると、自動車はもとより様々な商品のデザインも手掛けるようになった。
サガノは一年前にイラーリオへ車のデザインを依頼。その車はサガノが新たに挑戦する二十一世紀のスポーツカーで、以前からイラーリオの斬新でいて優雅な車のボディラインに注目していたサガノの経営陣たちは、東京でプロジェクトを発足させた。イラーリオとの交渉は、ミラノにあるサガノのイタリア本社が受け持ち、隼人とジュリアーノ・アッカルドが担当することになった。二人はメールや電話でやり取りし、または事務所を訪れ、イラーリオとカーデザインの話し合いを重ねた。
――いい感じだな。
事務所でイラーリオから提示されたデザイン画は、本当に素晴らしかった。それまで何枚も見せられたが、隼人たちはOKを出さなかった。イラーリオなら、まだまだ魅力的なカーデザインができると確信していたからだ。イラーリオもそのつもりで、デッサンを見せては、細かい部分を描き直していった。
つい先程まで会っていたイラーリオの姿が、鮮烈に頭の中に残っている。四十代のイタリア人デザイナーは、非常に押しが強く、貪欲で、なによりも溢れんばかりの自信が全身から漲っていた。だからといって、好戦的ではなく、鼻も散らない人間ではない。ふんだんに色気のあるミラノの男で、積極的に売り込む力と情熱満載の会話は、才能溢れる人間をさらに眩しく魅力的にさせるものだ。イラーリオに会う度、隼人は愉しく交渉をしていた。相手を愉快にさせるのも、人間の持つ才能の一つだ。
「ハヤト、コーヒーを飲まないか」
少し遅れて建物から出てきたジュリアーノは、近くのバールを指す。バールはイタリア中にある軽食も兼ねた喫茶店だ。
「いいね」
隼人も気分よく返事をした。ジュリアーノもとても機嫌がいい。今にも鼻歌を歌いそうな雰囲気だ。カーデザインが最終段階に入ったのは勿論悦ばしいことだが、それよりもイラーリオの事務所で働いている女性に会えたのが、すこぶる嬉しいのだろう。隼人は心の中で苦笑いした。いつも事務所に行くと、必ずその女性、モニカ・ジョルダーナにウィンクをする。先日、仕事の件でモニカから電話を受けたジュリアーノは、電話口で熱く語っていた。
「モニカ、君だと思ったよ。どうしてかわかる? 数分前に、なんと僕の心の鏡に君が映ったんだ! 信じられないよ! 僕の心臓が激しく踊り始めて、あやうく倒れそうになったんだけれど、君の声を聞いて、天国の門から帰ってきたんだ。君は僕を助けてくれた天使だよ!」
云々を隣で聞いていた隼人は、パソコンのキーボードを叩く手を止めて、ポカーンと口を開けて同僚を見返した。相手の女性は仕事で電話をしてきているのに、いきなり口説き始めるのは何のイタリアンホルモンが爆発したのだろう。数年のイタリア生活を経て、アモーレなイタリア人に馴れた隼人ですらびっくりしたのだが、もっとびっくりしたのは、周囲の同僚たちは誰一人、ジュリアーノの電話応対など気にもとめていなかったのだ。
――そういえば、この間は花束をあげていたな。
相手の女性のモニカは肩をすくめていたが、結局受け取った。ジュリアーノは仕事そっちのけで積極的にモニカに話しかけていたので、お前は何をしに来たんだとさすがの隼人も咳払いしたくなったが、モニカのボスであるイラーリオも全く気にしないで仕事の話を喋りまくっていたので、隼人一人でその日の交渉は頑張った。
そんなこともあったが、着実に車のデザインは完成しつつあったので、隼人の心は安心感からか、いつもより明るく弾んでいた。
「おっと、先に行っててくれ」
ジュリアーノは突然何かを思い出したように腕時計を見ると、身をひるがえす。
「どうした?」
「忘れ物をした。ちょっと戻ってくるよ」
サラセン人のような雄々しい黒い髭に覆われた口元で、にやっと笑うと、小走りに建物の中へ入っていく。
「ああ、わかった」
という返事が聞こえたかどうかはわからないが、隼人は気にしないで先にバールまで歩いていく。腕時計を見ていたので、シニョリーナとデートの約束かなと思いながら、道路沿いのパーキングに駐車した自分たちが運転してきた車の横を通り過ぎた。青いラインの駐車パーキングは有料で、時間制だ。外から見えるようにダッシュボードの上に置いた駐車券をフロントガラス越しに見た隼人は、まだ駐車時間に余裕があることを確認して、バールへ向かおうと再び前を向いた。
その時だった。
すぐ背後で、ドッカンという、激しい物音がしたのだ。
隼人の足が、規則正しく立ち止まる。その恐ろしげな物音に、何やら不吉なものを感じて、ゆっくり、ゆっくりと頭を振り返ってみる。途端に、ギョッとした。
車が、車にぶつかっていた。
正確に言えば、後ろから走行してきたと思われるワインレッド色の車が、駐車していたシルバーの車の後ろのテールランプ辺りにぶつかっていた。
もっと正確に言えば、ぶつけられた車は隼人たちが乗って来たサガノの社用車だった。
「……」
思考が一瞬止まりかけたが、慌てて駆けつける。ぶつかった車の運転席からも、女性がドアを乱暴に開けて出てきた。
「なんてことなの!」
ブルネットの髪を綺麗に垂れ流している女性は、両手を頬に添えて悲鳴をあげる。
「大丈夫ですか?」
隼人はその女性のそばに駆け寄った。大した事故ではないと、咄嗟に判断したが、ぶつかった車を運転していた女性がどこか怪我をしていないか心配になる。
「おお! 神よ!」
妙齢の女性は気が動転しているのか、ダイナミックに絶叫している。
「大丈夫ですか? 怪我はしていませんか?」
隼人は女性を落ち着かせようと、できるだけ労わるように声をかける。
「車が! 車が!」
「ええ、車にぶつかったようですが、そんなにひどくはないので大丈夫ですよ。自分が運転してきた車ですから、安心して下さい」
女性は車の事故を起こしてしまったことで、車の修理代やら保険やら保証やら、様々な心配事で頭がいっぱいになってしまったのだろう。あくまで女性を落ち着かせるために、ぶつけられた車の運転手が自分であることを話して、自分が事故に対して感情的になってはいないということを伝えようとした。
だが、その女性はそれを聞くなり、髪を振り乱す勢いで隼人に向くと、激しく喚き始めた。
「あなたの車なの!! どうしてくれるのよ!! 私の車がぶつかったじゃないの!! 責任取ってちょうだい!!」
文字通り、悪魔のような形相で詰め寄ってくる。
へ? と隼人は目を丸くした。言っている意味がわからない。
「あなたの車があんなところにあるからぶつかったじゃないの!! ぶつかったのは私の車なのよ!! どうしてくれるのよ!! ようやくローンも払い終わったのよ!! 弁償してちょうだい!!」
女性はひとさし指をビシッと立てると、嵐のようにまくしたてる。
「……」
隼人はあんぐりと口を開けた。あまりに仰天しすぎて、開いた口の顎が外れるんじゃないかと思った。
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