26 / 213
③無防備 ─迅─6
手を洗いたいがあの便所には行きたくねぇ。
他人の骨や肉の感覚が残る拳が汚ねぇもんみたいに思えて、俺は渋々自分のタオルで手を拭いた。
雷の精液はベタベタ触れんのに、他の人間の体温を感じただけでキモッてなるのはどういう事なんだ。
「俺が飼い主って事でオッケー?」
「飼い主? なんの?」
ててて…と近付いてきた雷に、自覚を促す。
何も無かったような無邪気な顔が、すぐにムッとなって反抗的だ。
本人は睨んでるつもりなのかもしんねぇけど、小せえから俺を見上げる事になって、そのツラがなんていうか……まさに犬ってかネコなんだよな。
「雷にゃんの」
「はぁ!? なんだよそれ! 絶対イヤだね!」
「どの口が言ってんだ? あぁ? 毎回毎回都合よく助けてやれるわけじゃねぇんだぞ。 弱えくせにすぐ喧嘩ふっかけるお前が悪りぃんだろーが」
「うるせぇ般若顔! 俺だって夏のふうぶつしを楽しみたかっただけなんだ! 監視人が女とのデートみたいな遊びばっかするから!」
……あ? そこ?
つまり雷は、デートみたいな遊びがイヤで鬱憤が溜まってたって事か?
なんだよ。
てっきり、"ただのダチが行動を制限してきてウゼェんだけど" って理由で監視から逃げたのかと。
「…………不満?」
「べ、別に不満ではねぇよ!」
「ならいいじゃねぇか。 何をニャーニャー鳴いてんの」
「フンッ」
あんだけイライラしてたはずの俺の機嫌が、いつの間にか雷を揶揄えるまで直っていた。
鼻息荒く山道の方へ向かって行くチビのあとをついて行く。
明らかに街灯が無いそこは、明るいうちならまだしも今は絶対に入るべきじゃない登山用入口。
超身軽なナリして、こんな時間から山登りする気なのか。
「おい、どこ行くんだよ。 方向音痴」
「うるせぇなぁ! だってお前、今から女のところに行くんだろ。 電話の時より落ち着いてそうだからいい。 許してやる。 ヤリまくってこいよ」
どの立場でモノ言ってんだお前は。
俺が女とヤるのに雷の許可が要るとは知らなかったな。
振り向きもしねぇで怒ってる背中が、なんか拗ねてるように見えんだけど。
「……雷にゃんはどこ行くんだ」
「実家に帰れって言われたから俺は帰るんだ」
「帰り方分かんの?」
「ぐぬぅぅぅ……ッッ」
「分かんねぇんならついてくれば。 ヌきっこ大会の皆勤賞狙うんだろ」
「でも迅は女のとこに……ッ」
「もう行かねぇよ。 こんな汗だくで行きたくねぇ。 小汚ぇのはマナー違反だろ」
「……さすが。 ヤリチンなヤリ迅だな」
「そのあだ名クソ腹立つ」
俺が居てもまだ方向音痴を発揮していた雷を連れて、さっきのタクシーの運ちゃんを電話で呼び出した。
こんな事もあろうかと、降りる前にちゃっかり名刺を手に入れた俺ってデキる男だ。
「名刺よこせ」って言っただけなのになぜか運ちゃんは震え上がってたが、あれは俺のツラがイケメン過ぎてブルっただけだよな、うん。
後部座席の右隣に座っていた雷は、物珍しそうにタクシーの中をジロジロ見てから、初対面の運ちゃんと親しげに会話をしていた。
コイツのコミュ力ってか懐っこさは、生まれつきなんだろうな。
接客のバイトとか営業職とか向いてるタイプだ。
引っ越してくる前からバイトもした事がないっつってたけど、人を疑うって事を知らなそうな雷の人格見てたら、俺もさせたくねぇ。
思わぬとこで得体の知れない束バッキー先輩と意見が合った。
「……いいのかよ、ほんとに」
「は? 何が?」
玄関前で、雷がらしくなくグズっている。
抱きかかえようとしたら拒否られて、こう言われた。
さっきまで運ちゃんと和気あいあいでご機嫌だったのに、何が気に食わねぇのかなかなか靴を脱ごうとしない。
「俺、実家に帰った方がよくない? 元々は女と約束あったんだろ?」
「………………」
まるで喧嘩した夫婦みたいだと思った。
しょうもねぇ事で言い争いになってカッとした夫(俺な)が、売り言葉に買い言葉で嫁(もちろん雷)に「実家に帰れ」発言。
気性の荒い嫁も「分かったよ出て行きゃいいんだろ、出て行きゃ!」っつってマジで家を飛び出して、ほんとに帰るとは思わなかった夫が連れ戻した……。
って、なんだこれ。 一本ドラマ出来んじゃん。
「……とっとと風呂入ってアイス食お」
「えっ、アイス? なんの? ピーノ?」
「冷凍庫見てみれば? ばあちゃんがお前にって買い込んでんだろ」
「ばあちゃん……!」
釣れた釣れた。
気性は荒いが食い意地の張ったガキだからな、雷にゃんは。 おまけに情にも厚い。
よくここまで素直一徹で育ってるよ。
女との約束も無けりゃ行く気もさらさら無かった、なんて言いたくなかった俺は天の邪鬼ってやつなのかもしんねぇ。
クソ腹立つあだ名通りの男だって、思われたくなかった。
それはもう……今さらなんだが。
ともだちにシェアしよう!