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Prologー1ー
フローリングは、堆積した生活ゴミによって足の踏み場も無いほどに汚れ切っている。狭く、隅々まで冷え切った室内の片隅で、菓子パンやスナック菓子の山の中に埋もれるように眠っていた幼児が目を覚ました。可愛らしい小さな手で寝起きの目元を擦り、細い足でよろよろと立ち上がる三歳程の男児が身に付けているジーンズはリビングの外のトイレに行くことが叶わなかった形跡がありありと残り、中に包まれた皮膚を被れさせていた。明るいグリーンのトレーナーは首周りが伸び切っているが、他に着替える物はない。首周りと同じようにずるずると伸びてしまった衣服の袖で目ヤニに霞む目元を拭い、隣を見遣る。弟である拓未はもう何日も眠ったまま目を覚まさない。アンタはお兄ちゃんなんだから弟の面倒をちゃんと見るのよ。そう言って出ていった母親に、弟は眠ったままであることを教えなければいけないと思うも、母親は今日も帰って来ないのだろうか。数は数えられないから、男児は母親がもう二週間以上はこの部屋に帰っていないことを知る由もない。
窓の外には二月の雪がしんしんと降り積もっているが、カーテンはガムテープで無造作に、だがぴっちりと1分の隙も許すことなく閉められている為に外の景色はわからない。ある日を境にもうずっと電源が入らないテレビは、昼夜暗い部屋を照らす唯一の明かりであり、ほとんど出た記憶が無い外の世界の事や、時間や季節の移り変わりを教えてくれる媒体だった。
何もせず、ただそこに立っているだけで、底冷えするような寒さが身を包む。幼児は身震いし、再びごそごそとゴミの山の中に体を埋めた。寒さはこうしてしのげることに気が付いた。だが、空腹はどうにもならない。かつてはクレヨンと共に買い与えられたお絵かき帳だった大判の画用紙の上に横たわると、目の前に煎餅の屑が落ちていることに気が付いた。小さな指を伸ばして拾い上げ、口に入れる。埃っぽいが、しゃぶると微かに染み出てくる塩気にひと息付き、吐き出した小さな呼吸が床の上の埃を揺らした。
遠くでドアが開く音がした。幼児ははっとして起き上がり、力を振り絞って立ち上がる。よたよたと玄関へと続くドアへと歩み寄るも、人影があるだけでドアはなかなか開かない。この部屋に帰ってくる唯一の人間が面倒くさそうな動作で扉に貼り付けたガムテープを剥がしている。
「おかあさん!」
ドアが開き、現れた女性の足に幼児が飛び付いた。お母さんが帰ってきた。それも今日は知らないお兄ちゃんはいない。あのお兄ちゃんはいつも大きな声を出して何度も自分を叩くから少しだけ怖かった。でも今日はお母さんだけが帰ってきた。
痩せた頬に笑顔を浮かべて足元にまとわりつく子供を見下ろすことなく、女性は怠惰そうに部屋を見渡した。派手な化粧を施した相貌、その中でも殊更念入りにマスカラを入れた目を瞬かせ、女はようやく少年を見下ろす。
「将未。拓未は?」
強い香水と化粧の臭いを漂わせた女は足元にしがみつく実子に触れもしない。問われた幼児ーー将未は困ったように眉を下げ、拓未が眠る場所に視線を送った。
「あのね、たっくんずっとねてるの」
「ーーこの、」
女は一度ひゅっと息を詰めた後、すぐに事態を理解した。室内には汚物と食べ物の臭いが充満し、、前回帰ってきた時と比べて顕著な変化はない。他に臭いが混ざらないのは低いままの外気温と、このろくに防寒も施していない古いアパートの低い室温のおかげだろう。横たわったままの拓未を見付け、ちらりと視線を向けた女の平手が、将未の頬を強かに打ちつけた。
「ちゃんと面倒見ろって言ったじゃない!どうすんのよ!将未!」
「…っ、ごめ、ごめんなさい、ごめんなさいおかあさん、ごめんなさい、」
ヒステリックに叫び、女は将未を二度、三度と打ち続ける。飛んできた平手と怒声に将未が驚いたのは初めの一度だけで、後は女の足元に蹲り、されるがままになっている。
「この役立たず!どうして言った事も出来ないの!?だから要らなかったのよ!アンタ達なんて!アンタも拓未も要らない!!いらない!!」
女は散々将未を折檻した後、息を切らせてもう一度拓未を見やった。春までは大丈夫よね。怒鳴り散らす事で発散し、冷えた頭と冷えた眼差しで小さく呟き、コートの前を掻き合せながら将未に背を向ける。土足の、ブーツのヒールが鳴る音を聞き、身を縮めていた将未がようやく起き上がった。
「おかあさん、まあくんおなかすいた…、」
女は将未を一瞥もせずにリビングを出ると、すぐ様強くドアを閉める。寒い寒いと呟きながら訪れた時と同じようにガムテープで扉を封じてしまうと再びカツカツと廊下が鳴る。やがて玄関のドアが閉じ、鍵がかけられる音が将未の耳に届いてきた。
室内には静寂が戻る。また拓未と二人きりの、暗くて寒くてひもじい、長い時間が始まったと理解する。
「…おかあさん、ーー、」
また叱られてしまった。自分はいつも叱られてばかりだ。一生懸命に弟のお世話はしていたけど、拓未はたくさん泣きながら眠った後にもうずっと目を覚まさない。頬や背がヒリヒリと痛むが、自分が悪いのだから仕方がない。言いつけを守ることが出来なかったから叩かれた。それくらいは理解が出来る。
「おかあさん…つぎはいつかえってくるかな」
暖かそうなコートと、いい匂いのお母さん。
次に帰って来た時は何かご飯を持って来てくれるだろうか。いい子だったねと頭を撫でてくれるだろうか。その時には拓未も起きて喜ぶだろうか。
小さな胸の小さな期待は膨らんでいく。再びフローリングの隙間に身を横たえた将未は、菓子やパンの包装紙の中に埋もれ、心臓を抱き締めるように体を丸めて目を閉じる。眠っている間は空腹を感じない。次に起きた時には母親は帰って来ているかもしれない。瞼を落とした将未は、そのまま静かに眠りに落ちる。
その年の雪解けはひと息に進んだ。
春先に暴力団関係者の男と共に覚醒剤所持の罪で逮捕された女からの供述を受け、ある古アパートに捜索に入った警察官は一歳児の死体を発見する。その隣で昏昏と眠る広瀬将未が保護されたのは、札幌の長い冬が明ける三月の半ばの頃だった。
●○●
目を醒ました将未が見たのは、眩しい程に白く塗られた天井と壁の風景だった。
いつものように起き上がろうとするも、体が上手く動かない。痩せた体の上に乗っているのは紙くずや何かの包装紙などではなく、ぱりっと糊の効いた清潔で温かな布団だ。体が載せられている物も硬いフローリングやしわくちゃになった画用紙の上などではなく、皺一つなく丁寧にシーツを掛けられたベッドの上である。常に付き纏い、体を包み込んでいた寒さは微塵も感じない。低い枕の上で首だけを動かすと、自分の横には見たことの無い機械があり、長い棒が立っている。棒の先には何やら液体が入った透明なパックがぶら下がり、そこから伸びる細いチューブは布団の上に出された自分の細い腕へと繋がっていた。
「ーーあっ。将未くん!お目目が覚めたのね」
静かな足音が聞こえ、カーテンが開いたかと思うと、現れた若い女性が目を丸くしてさっと枕元に手を伸ばした。どこかから聞こえる誰かの声に、不思議な形をした帽子を被った女性が早口で応答し、そのすぐ後にまた別の男性がやって来る。皆、示し合わせたように白い服を着ていた。
何処か優しげな顔をした男性が横臥したままの将未の体を真剣な目をしてあちこち確かめ、一通りの確認が終わると目元を和らげて頷いた。何か指示を出されて部屋を出ていった先程の女性が、男性と入れ替わりにまた戻ってきた。
「将未くん。少しだけどご飯食べようか」
「…ごはん…?」
随分懐かしい言葉を聴いた気がした。どうしようも無い空腹感は収まっているようだが、飢餓感は抑えられない。飛び起きようとした将未を女性ーー看護師が慌てて支え、ベッドの背が起こされた。
「お腹、空いたよね。まずはお粥からね。お腹がびっくりしちゃうからね」
目の前に設えられたテーブルの上にトレイが乗っている。更にその上には小さな子供用の容器に入ったほとんど上澄みに近い粥と子供用の可愛らしいスプーンが乗っている。初めて見るそれをまじまじと見つめる将未の横顔をどこか切なげに見ていた看護師がふと気が付き、ポケットに入れていたゴムで将未の伸び切った髪を丁寧に括った。
本当に食べて良いのだろうか。伺う目をして見上げる将未は、看護師のどうぞ、という柔らかな一言に促され、不器用にスプーンを手に取り、適温に冷ました粥を不器用に掬う。1口啜ると、喉や胃に温かな物が流れ込む。その後はもう止まらなくなった。
湯のような粥を夢中で啜る将未を見つめる看護師の目が微かに潤む。後からそっと部屋へと入ってきた別の女性もまた、脇目も振らずに食事とも言えない食事を進める将未のその姿に絶句して立ち尽くした。
容器の中はあっという間に空になった。底にプリントされたレトロな象の絵柄を見つめる将未に看護師が穏やかに話しかける。
「美味しかった?今日はこれでおしまいだけど明日はもうちょっとご飯増えるかな。段々増えて、そのうち普通のご飯も食べられるよ。元気になれるよ。将未くん」
「…おかあさんはとたっくんは?」
器から目を上げた将未が真っ直ぐに看護師を見上げる。その時に初めて背後に違う女性が立っていることに気が付き、看護師とは別の紺の衣服に物珍しげな眼差しを向けた。胸には金色のマークが張り付いている。優しげ、というよりも凛々しい目をした女性は何かを決意したように将未へと歩み寄り、膝を掌で包みながら上体を折って幼児と目線を合わせた。
「お母さんはね、今遠くにいるの」
「……、」
将未は上手く理解が出来ない。何故、と問う目に女性が唇を噛む。何かを責めるような眼差しを覗かせるも、気に留めることの無い将未のころころとした声が続いた。
「たっくんは?たっくんおきた?」
「……」
「たっくんもごはんたべたかなあ、」
遠くを見遣る。大きな窓の向こうには春の空が薄青く広がり、まだ葉を着ける前の木が揺れる。お母さんがいつも家にいた頃はあのカーテンも開けられていて、昼はちゃんと明るかった。随分と久方ぶりに、窓の向こうを眺めている気がしていた。
「…たっくんは、将未くんの弟なのかな?」
それが事情聴取であることなど将未は知る由もない。背後に控えた看護師が息を積めるようにして将未の反応を伺っていた。
「うん。たっくんは1さいなの。まあくんのおとうとだよ。あのね、おかあさんがね、すぐかえってくるから、たっくんのおせわしててねっていったの」
「…うん、」
「だからまあくんね、たっくんのおせわしてたよ。でもね、たっくんはずっとねんねしてるの」
「……うん、」
幼い声が突っかかることなく説明する。誰とも会話をすることの無かった子供はテレビで拾った言葉を吹き出すように饒舌だ。布団から起きたことで顕になる細い首や胴体が痛々しい。痩せた頬を可愛らしく傾かせ、将未はぽつりと呟いた。
「まあくん、いつおうちにかえれるの?ここはどこなの?」
今自分がいる場所は、あの部屋ではない。ようやく異変に気が付いた幼子は無垢に首を傾ける。一瞬返答に詰まった女性もまた小首を傾げる仕草で将未の目を覗き込んだ。
「ーー…、将未くんは、お家に帰りたい?」
「うん。あのね、おかあさんがおうちにかえってくるから」
そこに希望が一つだけある。明るい声は如実に語る。何かを疑うことなど知らない瞳が弱々しく輝いている。
「だからまあくんね、おうちでたっくんとおかあさんのことまってるよ」
「…そっか、」
脳裏には、捜索に入った警察官から聞き及んだ凄惨な部屋の光景が浮かぶ。紺の制服を着た女性はぐっと何かを耐えるように表情を歪め、懸命に頷いてみせる。後ろにいた看護師が目を真っ赤にして将未へと歩み寄り、そっと頭に手を伸ばした。
「将未くんはお利口さんだね」
頭上に伸びる指に将未は一瞬びくりと怯えた目を見せた。それに気付き、看護師もまた指を引きかけるも文字通りに壊れ物に触れるように静かに髪に触れる。予想していたもの以外の他者の掌の動きに、将未はゆるりと瞬かせた目を心地よさそうに細めた。
温かい掌が将未の伸びた髪を撫でる。少し掠れた声が優しい色をして将未へと降り注ぐ。
「ずっとたっくんのお世話してたんだね。将未くんはえらいね。すごくえらいね。すごく頑張り屋さんだし、すごくすごくお利口さんだね…っ、」
とうとう言葉が詰まった。世の理不尽のようなものがひしひしと胸を締め付ける。零れる雫を留めることなく、何の罪もない幼子の髪を柔らかい手付きで撫でた。
「いい子だね。将未くん」
白い部屋、白い人達、嗅いだことの無い薬の匂い、繋がれた機械。何もかも知らない場所で、将未は生まれて初めて誰かに褒められる喜びを知った。
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