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本城滄が運転する大型車はほとんど日が落ちかけた留萌市内の国道を猛然と走っている。今この車を警察官に発見されたらどうなるのだろうという嫌な想像が一瞬頭を掠めたものの、前方を走る軽トラはどう見ても滄が運転する車よりも飛ばしている。闇の中に巻き上げる白い雪煙と、気を抜くと見失ってしまいそうな車体を凝視してしまうと、左右の道路に気を配る余裕は無くなった。 助手席の男が大振りの握り飯を食べ終え、包んでいたアルミホイルを折りたたむ様子が視界の端に映った。男は神原龍俊という名で、握り飯はあの食堂の女将が持たせてくれたものだった。店の前に停めた滄の車を見た坊主頭の男が、自分達の先軽トラは二人乗りだから、お前はそっちに乗れ、と一方的に差配した。言われた龍俊も、曲がりなりにも愛車である───甲野の車椅子の為に機械を取り付けた車に龍俊を載せることになった滄も、どちらも憮然とした顔を隠し切れていなかっただろう。 互いに口をきかない時間だけが過ぎていく。 どうしてこうなったのだろうと思う間もなかったように思う。滄のを先導する軽トラはどうやら海───漁港に向かっているようだった。とりあえず心当たりに向かう。途中で広瀬将未を見付けたらとりあえず保護し、なんならお前らはそのまま帰っても良い。軽トラに乗り込む前に男達は言った。 将未の姿はどこにも見当たらない。 滄が店に駆け付けたのは、普段であれば将未はもう店の開店準備の為にあの狭いバックヤードに姿を見せている時間だった。もしくは、何らかの理由で店の2階の自宅にいるはずの───ごく勤勉で、怠けることを知らない将未はどこにも居なかった。 雄誠会の矢立からの電話があったのは、滄が甲野がいる病院から引き上げ、在庫が欠けた酒のことを思い出して小さな酒屋に立ち寄り、店を出た直後だった。ディスプレイに表示された名前を見て瞬時に思わず足を止めたのは矢立からの電話が良い報せだったことが少ない為だろう。画面に指を滑らせてから冷たい耳に機械を当てると、案の定切羽詰まった矢立の声が耳に飛び込んできた。 神原を消そうとする豪能組の人間が留萌に入っている。 そっちにいる鳳勝会の人間と合流して広瀬と神原を守ってくれ。 「…神原、ですか」 口を付いて出た言葉は滄にとっては当然の事だった。脳裏に浮かんだのは店のカウンターに座って沈鬱な表情を浮かべる神原と、数日前に食堂の隅で対峙した時に見せた目だった。 矢立の言うことをそのまま飲み込む。それならば、豪能の人間を留萌に連れてきたのは神原だろう。そこまで考えて思い至る。狙われるのは神原一人ではないのか。 「…違う、…将未…広瀬が、どうして狙われるんです」 「豪能は、…豪能の安樂という男は、自分にとって必要でなくなった人間は消す男だ。神原は直接、広瀬は神原を介して豪能と関わっていた。まとめて消される可能性は、十分にある、」 そうであるのなら、顔も知らない会ったこともない安樂という男はこの矢立という男と真逆だろう。 どちらがヤクザらしいかと問われれば答えは明白だ。 だが、そんなことは関係なしに自分は矢立の元にいた。しくじった部下を完全には放り出せないのが矢立という男だ。だから自分も甲野も、そして将未も神原も今この街で生き長らえている。 矢立に、自身が生殺与奪の権を持っているという自覚はないだろう。 そしてこの男は、かつて自分が売った恩を返せとは言わない。生まれ持っての───育ってきたその環境がもたらした自覚のない不遜さで、人を使う。無自覚に備えた人徳と、ヤクザらしからぬ気質に惹かれた稀有な人間を動かす。 追い打ちをかけるように将未の顔が頭に浮かぶ。自分は甲野と将未を守って生きている。 自責の念ひとつで僻地へと移り住んだ男が、たとえかつての敵であっても人を見殺しにするような人間であるはずはない。 見透かされているのか、信頼なのか。 いずれにせよ、滄には矢立の頼みを断るという選択肢はなかった。 わかりましたと頷く滄に矢立は受話器の向こうで深い呼吸を置いた後に落ち着き払ったような声に戻り、淡々と状況を説明した。鳳勝会の会長から直々に指示が出ている鳳勝会の留萌支部の連中がいる。その男たちを頼れと。 矢立からの電話の後、すぐに店へと車を駆った。ここに将未がいたのならなんら問題はない。すぐにどこな安全な場所に匿ってしまえば良いと思ったが、どこかで感じていた嫌な予感は当たった。。店にも、息を上げて駆け込んだ2階の自宅にも将未はいなかった。時間を確かめる。既に夕刻に差し掛かったこの時間帯に将未がこの建物にいないことはあり得ないことだった。 遅かった、直感して転がり落ちるように階下に戻り、その足で雪を蹴って向かいの食堂に飛び込んだ。───藁にも縋る思いとはこのことか、と後になってから思った。 窓の外に暗い海が見えて来た頃にトラックのギアがまた上がった。滄も負けじとアクセルを踏み込む。雪の塊か何かを踏んだか、車体が大きく跳ねたが隣に座る男は動揺する様を見せない。ただ一心に窓の外を見つめたまま何かを探している。     将未は今どこにいるのだろう。 隣にいる神原もまた、同じことを思っているのだろうと、ハンドルを握る滄はその時初めて神原の胸中に思いを馳せた。内心では自分と同じように動揺しているのかもしれない。そう思うと、ほんの微かに緊張が緩んだ。人は自分よりも動揺している人間を目にすると少しばかりの冷静さを取り戻す。 「…アイツら、本当に鳳勝会の人間なのかな、」 滄の胸中を察した訳ではないだろう。だが、そう思わせるようなタイミングで神原がぽつりと口を開いた。相変わらず目だけは車外の風景を追っている。市街地をぬけた町は、荒野のような雪景色が広がっていた。 「自分達で名乗っただけだ、」 「…今は信じるしかないだろう、」 目の端で滄の横顔を盗み見ながら続けた龍俊の言葉によって食堂でのやり取りを思い出す。ひたすらにどこかを目指して走る前方の古い軽トラを軽く睨み付けた。 ※※※ 将未の姿を探して食度に飛び込んだ滄が一番始めに目にしたのは神原の姿だった。鉢合わせた男の顔色がおかしい事にも、張り詰めた店内の空気に気が付く余裕はあるはずも無く、ほとんど条件反射のように滄は腕を伸ばし、神原のコートの胸倉を掴んでいた。 「──神原、…っ、お前か…!」 「っ、なに、」 「お前が将未をどこかに、」 滄の声は完全に冷静さを失っていた。普段の表情にも声にも抑揚がない、場末のスナックのカウンターに立つ無愛想な店主の面影は消え去っていた。ただ、矢立からの指令も脳内から吹き飛び、今将未に起きているかもしれない事態と、突如目の前に現れた神原の姿とを乱暴に結び付けて、憤怒の表情を浮かべて噛み付いた。 神原は一度きょとりと目を剥いた後に、奥歯を噛み締めてから無理やり滄の腕を振りどこうと身を捩ったものの、体格差が違う。胸倉を掴む滄の手首を掴み、引き離そうとするのが精一杯だった。 「離せ!俺じゃない!」 「だったら、」 「俺じゃねえよ!将未がどうか…、」 龍俊の方はその名前を口にして自分が向かおうとしていた先を思い出す。将未を探しに行かなければならない。同時に、背後にいる男達の存在が頭に戻る。あの男たちも将未を探しているのだ。豪能の手先かもしれないあの男たちも将未の名前を口にしていた。あの男たちよりも先に、将未を見付けなければならない───。 「……本城?」 自らの使命を思い出し、すっかり足に馴染んだ冬の靴を踏み出そうとした龍俊の背後で、確かめるような声がした。龍俊の首根っこを掴んだまま滄男が顔を上げる。虚をつかれた顔をした。 「お前が本城、」 振り返る。滄と龍俊の両方の視線を向けられた男はいかにもヤクザといった風情の二人組だった。そのうち背の低い坊主頭の男が無遠慮に滄を指差し、伺うように軽く首を傾けている。 「…ですね。向かいの店で飲んだことあります。サトルさんもありますよ」 「そうだっけか、」 牙を抜かれ、呆気に取られたままの滄に代わり、もう一人の長身の男がまじまじと顔を眺めてから答えた。坊主頭が満足そうに頷いてから今度はその指を龍俊へと移動させる。視線は、最後に龍俊の指が欠けた手に止まった。 「で、こっちが神原、」 「アンタらは…、」 「で、ヒロセマサミだけいねえ。ほら見ろハマ。ここで待ってて正解だったろ、」 滄と同様に答えないまま誰何しようとした龍俊を無視する形で坊主頭は長身の男を見やって口角を持ち上げる。ハマ、と呼ばれた長身の男がいささか呆れ気味に、だが至って慣れている様子で肩を竦めた。 「ほら見ろって程のことはまだしていません。…それに、ここにヒロセマサミがいないことが多分一番良くない」 だな、と坊主頭が頷く。視線が滄へと戻った。 「本城。雄誠会の若頭から連絡あったか、」 「…あった、…アンタら、」 自分たちのことはどうでも良いのだと言いたげだった男が軽く髪を掻いた。確かるような目付きで軽く首を傾けて強気に口元で笑う。 「鳳勝会の留萌支部」 「支部ってほどのもんですか」 「人員は二人。俺とコイツ。俺はサトル、」 長身の横槍はまた無視され、代わりに次はお前だとサトが相棒を見上げる。長身の男はいよいよ深い溜め息を吐いた後に、ハマ、と短く名乗った。 「…証拠は、」 「疑うか。良いね。今すぐここでウチのオヤジに電話しても良いけどな。とりあえず留萌に入ってる豪能のネズミを消せってのは雄誠会の方からじゃなくて死ぬ程豪能が嫌いなウチのオヤジからの命令だ」 「……」 「豪能の安樂はしくじった奴を躊躇なく消しにかかる。しくじった兵隊をせいぜいクソ田舎に飛ばしてシノギに密漁させるようなうウチのオヤジとは違う」 サトルのわざとらしく潜めた声と、勝ち気そのものの目はなんの根拠もなく言っていることの真実味を帯びさせた。これ以上疑っても意味がない上に話が進まないだろうか。恐らくは時間も無い。やや間を置き、滄と龍俊が矛を引っ込めた様子をじっと観察した後にサトルが続けた。 「安樂の野郎だって思いもしなかったんだろ。こんな所に鳳勝会の支部があるなんてよ、」 内地に本部があり、資本とシノギの大半がある豪能組には、真冬の海に出て違法な手段で魚や貝類を獲ってシノギにするなどという発想は無いのかもしれない。所詮都会のヤクザだとハマが小さく呟いて鼻を鳴らした。この男はサトルよりも幾分か若いのかもしれない。 「それじゃあ行くぞ、」 話は終わった、言いながらもそれに反してサトルがタバコを1本咥える。矛盾した動作よりも発した言葉に滄と龍俊が同時にえ、と声を漏らした。 「ヒロセマサミと豪能の連中を探しに行く。宛はある。…お前ら、絶対に手出すなよ」 「どうして、」 言いながら、サトルとハマが大股で出入り口に向かう。 ずっと会話の主導権を握られ続けた延長のように滄と龍俊が思わず道を開けるも、足された言葉に滄の方が小さく返す。 「カタギなんだろ。今は。俺もハマも、ウチのショバ荒らしに来た雑魚ぶっ叩きに行くだけだ」 滄であれ将未であれ、龍俊であれ、この街に住み続けるのなら、面倒事は起こさない方が良い。 始めにそう思ったのは誰だったか。矢立かもしれない。鳳勝会の幡野かもしれない。だが、サトルとハマにとってはそれはどうでも良いことだ。滄と龍俊を追い抜いて振り返り、指差した。 「お前らのすることはヒロセマサミを護ることだ。大体俺ぁヒロセマサミの顔も知らねえよ」 ハマが扉を開く。冷たい風が吹き込み、思わず空を見上げる。雪は降っていないが日は落ち始めるところだ。田舎町の夜は暗い。積もった雪の明るさを借りるとしても、早く将未を見付けなければ。ようやく思い至り、滄が小さくもいからせたサトルの肩を追って外へと出ようとした。 「アンタたち。待ちな、」 外へ出ようとする男たち4人の背中に声が掛かった。女の声は今の状況には異質なもののように思えたが、振り返った所に立つ幸世の姿に、ここは街の食堂だったのだと現に引き戻されるような感覚に陥った。 幸世は真面目な目をして手に抱えた銀色の塊を一つずつ男達に手渡した。見ると、塊はアルミホイルで、ほんのりと温度が宿っている。 「おにぎり握ったからね。食べながら行きな。腹減ってちゃあ勝てる喧嘩も勝てないよ」 一見のほほんとした小柄な女将は、ごく真剣な目をしてその場にいる全員の顔を見て、強気に笑って見せた。 ※※※ 気が付いた時には周囲に闇だけが満ちていた。前方の車のテールランプを目にして滄が慌てて自車のライトを点灯させる。車はいよいよ港へと差し掛かっていて、辺りはほとんど灯りが無い。この分では暗い色のコートを着た将未を目視で探すのは無理だろうと思うも、そもそも将未は普段であれば港がある方には立ち入る理由が無い。鳳勝会の男達とは別に市街地で探すべきだったかと思うものの、その案が既に遅いことは明白だった。 吹雪いていないことだけが幸いだろう。暮れの港はあまり人が立ち入らないのか、ここ数日のうちに降り積もった雪が辺りを少しだけ明るくさせている。人気は全くなかった。 将未はもちろんだが、滄もまた港や海の方向への土地勘は無い。漁師の連中が店にやって来ることはあり、彼等の話を耳に入れることはあってもそれくらいなものだ。あの鳳勝会の留萌支部だと名乗る男達は恐らくそれらが備わっているのだろう。 男達は店にも訪れたことがあると言っていたが、滄は顔を覚えていなかった。客に深入りはしないという心情が邪魔をした。───あの妙に記憶力が良い将未であれば、覚えているかもしれないと、不意に思った。 暗がりばかりが続く窓の外を、それでも熱心に睨み付けていた龍俊が大きく息を吐き、初めてシートに深く体を預けた。滄と同様に、人影を探すことは無理だと判断したのだろう。狭いシートの上でポケットに手を入れたかと思うと、煙草を取り出して箱を揺らす。残りが少ないらしいその中から1本抜いたものを唇に寄せ、火を灯す。たちまち煙草の煙が車内に充満した。 「…アイツ、…大声出したり出来るのかな、」 ぽつ、と呟いた声は自分に聞かせるよりも、滄に語り掛けているような色がある。滄もまた煙草を吸いたくなったが、ライトで照らしているといえ、雪で覆われた知らない夜道を走りながら一連の作業をすることは避けた。 「大声出したり、泣いて助けを求めたり、出来るのかな、」 ───その粗野な部分や雑な部分が一切見当たらない、どこか幼い子供のような物言いに滄が目を瞬かせる。 横目で見ると、龍俊は相変わらず真面目な目をしたままでじっと前方を睨み付けている。 人を騙し、利用し、ススキノを生きてきたこの男の根本など知る由もない。知りたいと思ったこともない。この男は滄にとって敵に等しいのだ。───だが、自分は、きっと恐らくこの男も、この男の根本を知らないことと同じように、将未の根本も知らないのではないだろうか。 「アイツが大声出したり、泣いてるところとか、」 「…泣かないだろう。将未は、」 思わず、呟いた。今度は龍俊が瞠目する気配がある。 少なくとも、自分は将未が泣いているところを見たことが無い。 この街に来て、どんな局面に於いても将未は泣いていないだろう。 そしてそれは───この街に訪れる以前からずっと、続いているのではないだろうか。 何かが欠けている男だと思った。 その印象は今でも拭うことが出来ない。 言葉にすることが難しい「何か」は情緒の面における何かだろうか。 その正体を知る人間はいないのはないだろうか。 ともすれば───将未自身も、知らないのではないだろうか。 「…俺は見たことがない、」 横目で龍俊を睨み付けた。お前はあるだろう、詰め寄ってしまいそうになるが、それは性に合わない嫌味だと飲み込む。だが、龍俊はどこか自嘲するように口元を歪めた。 「……俺も無いよ、」 港に入ってからようやく徐行を始めていた軽トラが唐突に停車した。滄も速度を落としてた為、慌ててブレーキを踏んでも車体はそれ程揺れなかった。トラックから男達が降りてくるのを見て、滄はランプをつけたまま運転席から飛び降りる。龍俊も、声をかけるまでもなく助手席のドアを開けていた。 「鍵開いてる倉庫全部探せ。絶対にいる」 雪を蹴って駆け寄ってきたサトルが声を張らずに伝えてくる。頷き、辺りを見渡すと古びた倉庫が肩を寄せるように並んでいた。駆け出そうとする前の一瞬、何気なく見上げた空には都会では見ることの出来ない無数の星が乾いた冬の空に瞬いていた。

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