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20-3

駅前に近い、広い通りに面したスナックの前で立ち尽くした龍俊はひっそりとした溜め息を吐き出した。 すっかり磨くことも忘れた腕の時計で時間を確認する。昼下がりを少し過ぎた街中に佇む店は今は営業時間から外れているのだろう。正面の扉を幾度か叩き、控えめに声を掛けてみてもドアは開くことはなく、試しに耳を当ててみても物音1つすることなく、冷え切った耳が更に冷たくなっただけだった。 この店に確かに将未はいた。 あの、雄誠会に居たという男と共にこの店にいて、そして一瞬でドアの向こうに姿を隠された。 だから、またこの店に訪れようと思い立ったのは今朝のことだ。 思いはたった1つで、今の将未の意思を聞きたいということだけである。 龍俊と対峙したあの男も同じことを言っていた。 それはすなわち、あの男もまた、将未の意思を確かめていないということなのだろう。 将未に会わなければならない。 会って、将未の今の気持ちを聞きたい。 今幸せなのか。 ここにいて、幸せなのか。 自分とはもう、会いたくないだろう───。 前向きな思いは湧かない。いっそのこと、もう二度と顔も見たくないと言ってくれたのなら自分は潔く頷いて背を向けられると思っている。 拒否されたのなら、自分は今すぐにでもこの街を去る。 それだけの決意を抱えてやってきたものの、呆気ない肩透かしを食らった。 雪を踏んで移動し、嵌め込まれた窓から店内を覗いてみる。照明がつかなければ薄暗い店内に目を凝らすもやはり人影はない。 幾度かの夜、このスナックに自分は訪れたのだ。 連泊を続けているホテルに近いこの店のカウンターの止まり木に座り、あの男に酒を注文し、しばしの時を過ごした。 その時には他に───カウンターの中には人の気配は感じなかった。この店は、この男が1人で営んでいるものだと思い込んだ。 盲点も良いところだ。 始めの聞き込みの真似事に、顔色ひとつ変えることなく知らないと返されたものをそのまま飲み込んでいた。 将未を預かっていると言ったあの男の元に自分は数回も通っていたのだ。 将未はどんな形で過ごしているのか。 どこにどうして住んでいるんだろう、と思うと同時に否応なくあの男との関係に思いが巡る。 将未はここに住んでいるのだろうか。 空を仰いで店を見上げる。小さな建物の2階部分には窓がひとつ着いているだけで他の何かがある様子はここからでは伺えない。あの部屋は将未のものなのか、それともあの男のものなのか。 もし将未がかつての自分と同じようにあの男と同棲しているのなら───。 思う度に、こんなに冷たい街の中で熱い感情が燻りそうになる。嫉妬する資格など無いのに、と苦笑混じりに消そうとするも上手くはいかない。 それどころか、将未がもし自分よりもあの男を選ぶという意味で自分を拒絶したのなら───その時に自分のこの、将未の前を去ろうという決意は果たして揺らがずにいられるだろうかとすら思うのだ。 鼻から息を逃して1歩後退する。 スナックであれば営業時間はまだ遠いだろう。出直すべきか、それともここで将未がやってくるのを宛てどなく待つか。逡巡しつつ顔を上げ、振り返って通りを見渡した瞬間、どきりと鼓動が跳ね上がった。 「───…」 道の向こうから視線が向けられていた。通りを挟んだ正面にはいつぞや、訳のわからないままあの男とテーブルを挟むことになった小さな定食屋があり、その前で女が1人じっと自分を見ている。あれは自分をあの店に引き入れた女だ。 自分の姿を見られていた、と思った次に、ストーカー紛いの姿は通報されかねないと思い至る。しまった、と内心で慌てるも、ここで逃げるのは悪手だと踏み止まる。 冷静さを装って女を見返す。確かに食堂にいた年増の女だ。自分を強引に店に引き連れ、あの男と対峙をさせた。通報されたらなんと答えるべきか、言い訳を考え始めようとした龍俊に向かって、雪の上に立つ女がひらひらと手を振る様がはっきりと見えた。 「……へ?」 エプロン姿に厚手の上着を羽織った女は確かに自分に手を振って招いている。どうすべきか2度目の逡巡を挟みつつも、龍俊は誘われるままに通りに向かって足を踏み出した。 * * * 店内に息苦しい程に満ちている料理の匂いと暖房器具の放つ熱気に息を逃す間もなく席を勧められた。適当に座りな、と促されて窓側の席の隅を選ぶと、水が入ったグラスを運んできた女は軽く眉を持ち上げてからそのすぐ隣の席へと変わるように促した。そこは指定席だという。 席を移動しても先程まで前に立っていた店は見えた。この位置ならもし将未が来ても、店が開店してもその様子が確かめられるだろうと龍俊は思う。 「ちょっと前からあそこに立ってたしょ」 窓の向こうを眺める龍俊に向かって女は悪戯な目をして笑った。見られてたのか、驚くよりもバツの悪さに眉を寄せる龍俊に女はにんまりと笑う。 「気が付いてなんとなく見てたらいつまでもあそこにいるからね。寒いしお腹も空くべさ」 龍俊が知らない強い訛りがあると思った。食堂の雰囲気からして、長くこの街にいる人間なのだろう。ストーカーのような真似をしている姿を見られていた決まりの悪さを引き摺り、拗ねた眼差しを見せる龍俊の横顔に女は続ける。 「ご飯出すから食べな。今日は暮れだからね、あんまりお客さんも来なくて材料が余ってるのさ」 言い置いて背中を向けられてしまう。言われて空腹を思い出す。無下にすることも何故か気が引け、龍俊はそのまま席に深く腰を落ち着けた。 窓の外の景色は変わらない。女の言葉を思い出し、暮れか、と初めて思い至る。 季節の巡りを意識するのは久しぶりである気がした。 生家にいて、親元───母親がいる時には自身が子供だったこともあり、イベント事を欠かすことはなかった。 ススキノにいた時は、季節は自ずと意識していた。 その時に傍にいる───その時の自分の利益に基づいて利用できるターゲットと共にいる時は、相手がイベント事の類が好きなのかを嗅ぎ取り時にまめまめしく金を注ぎ込み、白々しい笑顔を作って相手をしていた。 最後にそれをしたのは他でもない将未を相手にしていた時だ。 将未はイベント事を好くも嫌うもなかった。何も知らず、ろくな経験も無いのだと知った龍俊は、なんて御しやすい男だろうと内心でほくそ笑んでほとんど機械的にその類を提供していた。提供してやっていた、という気持ちだった。 その全てを将未はいちいち喜び、感激し、関心していた。 その様子を、なんて単純な男だろうと思う一方で、時折、胸を掴まれるような瞬間があったことを思い出す。 将未の曇りのない眼差しに胸が痛んだ訳では無い。 それよりももっと、呼吸が苦しくなるような焦燥感に似たものを感じていた。 あれが恋の匂いで形だとしたのなら、自分はそれを知らなかったのだろう。 それとも、かつて、昔自分の近くにあった「家族」の匂いに戸惑っていたのかもしれない。 不意に、この年末を将未はどんな風に過ごすのだろうと思った。 自分のことは最早思い巡らせることすらない。 将未は、この街でどんな風に過ごし、四季を見るのだろう。それは将未にとって幸せなのだろうかと、思った。 「もうすぐ出来るからね。これ摘んでて、」 声を掛けられ、無意識についていた頬杖を解く。 見ると、テーブルの上には小鉢に入った蓮根のきんぴらが乗っていた。この女もマメで甲斐甲斐しい。再び唇を尖らせて会釈すると、女は小さく笑って去っていこうとする。その小さな背中に、何故か不意に胸が締まる。 「…あの、」 思わず声を掛けていた。決して明瞭ではない声だが女はくるりと振り返る。 「将未、は、」 呼び止めたものの、話題がないことは明らかだった。向けられる柔らかな眼差しに戸惑い、そして口に出した言葉は何故か当然もののように感じられた。 「…いや、…なんでもない」 考えてみれば、この女が将未を知っているか否かは知らないのだ。留萌に訪れてからわりと早い段階で龍俊はこの店に訪れてこの女に将未の写真を見せているがそのこと自体を龍俊は覚えてても、女の顔は覚えていない。あの時はただただ夢中だった。 1度口にしたものの、慌てて唇を閉ざす。自分は何を言っているんだ。再び眉根を寄せて目を逸らした。 この街に訪れてから、否、あの雄誠会で矢立と対峙してから───いや、将未を放り出して棄てた時から、自分はきっと、醜態ばかりだ。 スマートに人を騙し、高価なスーツを纏って繁華街を闊歩していた頃の方が今では嘘のように感じる。 身勝手に打ちひしがれ、転び、雪にまみれてそれでも1度は自ら棄てた筈の将未を追い掛けている。 そんな自分の様が情けなく無様で仕方がない。改めて思っては───どうしようもなく、泣きたくなった。 今にもがくりと頭を垂れてしまいそうな龍俊の横顔をしばらく眺めていた女は緩く首を傾けたあとに軽く肩で息を吐いた。 「将未ちゃんはねえ、いい子だよ」 「───…」 今まで以上に柔らかな声だった。体に触れる暖気よりも包み込まれるような感覚に龍俊は瞬きする。 それでも顔を上げられない。 将未はいい子なのだ。 あのあらゆる欲にまみれたススキノにあっても、将未は真っ直ぐに曇りのない形と色をしていた。異質にも思える存在はそれでもススキノという歓楽街に違和感なく溶け込み、生きていた。 何も無いから、どこででも生きていける類の人間がいるのなら将未はそれなのかもしれない。 何も無い器に世界を取り込み、溶け込ませて自分のものとする。そこに必ず入る人間の悪意や業は将未の中には存在しない。あの男を見て何かが足りない、と感じる部分のひとつだ。 将未をが持つそれは良くも悪くもこの街でも変わらないのだろう。 将未はまだ将未のままでいる。 その事実が、ようやく、ほんの微かに龍俊を安堵させた。 「それでさ、アンタもいい子だよね」 「……、…俺が…?」 信じられない言葉を聞いた。 驚きのままに顔を上げる。女、幸世が声音と同じ柔らかく穏やかな目で笑っていた。 「いい子だよ、」 「…俺は…、」 女の言う「いい子」であるのなら、他人を騙して捨てるような真似はしない。生きる為に、人を騙して落として生きてきた。いい子。そんな風に言われる理由は自分には無い。 だが、それでも。 「…いい子だった時も、あったんだよ、」 呟きが溢れ落ちる。 自分自身のこぼした子供のような声音と口調に驚き、目と鼻の奥が熱くなる。 龍俊くんはいい子ね。 それは昔母親が自分に言った言葉だ。 蛇行し、ねじ曲がった末に今がある。 いつかまた、いい子になれたのなら。 将未はまた、自分を求めてくれるだろうか──。 テーブルの上のグラスの水が空気に揺れる様に視線を落とす龍俊の目が酷く頼りなく見えた。髪を撫でてやりたい。幸世が無意識に手を持ち上げた瞬間だった。 「ババア!いるか!」 無遠慮な引き戸がガラガラと開いたかと思うと、男が2人店へと入ってきた。 * * * 2人組の風体はひと目でチンピラだとわかるそれだった。 いや、これはチンピラの域を出たヤクザのそれだろうと龍俊は本納と経験で悟る。男の1人はさほど背は高くなく、大柄でもない体格で、太いシルエットのパンツに、ボリュームのあるジャンパーを着込んでいる。坊主頭が寒々しく、やや小さい丸い目がくるくるとよく動く。その男から半歩下がった所にいる男は非常に背が高い。ひょろりとした細身にやはりジャンパーを羽織り、狐のように細い目で鋭く周囲を見渡している。視線が重なりそうになり、龍俊は咄嗟に目を逸らした。 「…アンタねえ、口の利き方に気を付けな。ご飯大盛りにしてやんないよ」 「悪い悪い。なあ、今日本城来た?」 飄々とした男達の風貌に一切怯むことなく女───幸世は睨みをきかせて返すも、声にさほど怒気は無い。背の小さい男はへらへらと笑いながら言葉を重ねる。 「滄さん?いや。今日は来てないよ」 「外したか。待ってりゃそのうち店開けに来るかな」 「悠長に待ってて大丈夫ですかね」 ぼりぼりと坊主頭を掻く男の背後から声を潜めるように高身長の男が言う。会話は途切れながら龍俊の元へと届いていた。背の低い方の男がジャンパーのポケットから無造作に煙草を取り出して咥える様を横目に幸世が1度カウンターの方へと歩いて行ってしまった。 話を遮られた形になった龍俊は居心地の悪さを隠しながらどうしたものかと逡巡する。席を立とうかと思うものの、目の前に置かれた小鉢にこの店に連れ込まれてやってきた事を思い出してはそれもまた気が引ける。店の女将と遠い仲ではないらしい男達は地元のヤクザだろうかと想像しては無意識に眉間に皺が寄る。田舎だろうが都会だろうがヤクザとはもう、関わらないと決めていた。 「どっちの面も……みてえだから本城の奴捕まえんのが1番…と思ってんだけどな」 不意に耳に入った本城、という名前に龍俊の脳が擽られた。 「……、」 どこかで聞いた名前だ。そう思いはしたもののそれ以上の記憶は辿れない。ススキノのどこかで会ったか。どこに所属している男だったか。 手掛かりを探したくてそっと視線を向ける。男達は閉めた扉の前を陣取って向き合い、煙草を吹かし始めていた。傍らに積んであるへこんだ銀色の灰皿を勝手に拝借しつつぼそぼそと会話を重ねている。龍俊の存在には気が付いているらしく、向こうからも時折ちらちらと視線が向けられている気配があった。 「オヤジが言うには……会のオヤジから本城に連絡するってよ」 「だったら案外もう動いてますかね。その前に広瀬と神原の方を……なりなんなりしておきたいんですけど」 「───…」 切れ切れの会話の中、確かに自分の名を───自分と、将未の名を呼ぶ声があった。思わず明確に顔を上げかけたものの、すんでのところで堪えた。横目で男達を見遣る。変わらずに会話を続けていた。耳を傾けてみたが、相変わらず会話の全ては聞こえない。 自分と将未を探しているのか。 本城という男だけでなく、自分と将未を探すこの男達は何者なのか。 店先で一服つける男たちを横目で眺めているうちに、その風体から豪能組と安樂の名が頭に浮かんだ。 自分は豪能の人間に追われて矢立の力を借りてススキノを出た。その豪能組がここまで自分を追ってきているのだとしたら。 組に関わっていた自分と将未を共に消そうとしているのなら。 将未を守らなければいけない。 立ち上がった拍子に椅子が鳴った。男達が龍俊に鋭く視線を投げる。女将はまだ戻って来ない。断りを入れずに店を出用と足を踏み出した龍俊の様子に気が付いた男たちが目配せもせずに呼吸を合わせて扉の前に立ち塞がった。道を塞がれた龍俊が息を詰める。 「っ、どいてくれ、」 「…まだ飯食ってねえんだろ?」 背丈の低い男が声を潜めて寄越した。顔は笑っているが目は笑っていない。隣ではあの目の細い男が細い両足を踏ん張っているのがわかる。 「俺ら見て慌てて逃げる理由があるか?」 この男達が豪能の人間だったなら。 殴り飛ばしてでも店を出て将未を探しに行かなければならない。だが、情けない程に勝てる気がしない。 男達がじり、と爪先を寄せる。背後には逃げ場はない。どうする、嫌な汗が流れた。 「お前さあ、…誰、」 「……、」 嫌な首の傾げ方をしながら男が問う。龍俊は口を噤む。名乗ることが正解なのか不正解なのか。目の前にくじ引きを置かれている心地だった。 辛うじて睨み付ける目を見た細身の男がするりと龍俊の形を眺める。じっと目を凝らすように細い目を更に細めてから、にわかに口を開いた。 「…広瀬?」 くじ引きを外したのはこの男の方だった。 違う、否定しかけるもそれも止めた。悟られてはいけない。少なくともこの男たちの素性がわからないうちは自分の正体を悟られてはいけない。思いつつ、もう一方の脳裏ではせめて一撃を食らわせることが出来そうな男を選んでいた。 「それとも、…神原?」 「……っ、」 正解を口にしたのは、左側にいる小柄な男の方だった。それを引き金にするように龍俊が腕を伸ばし、男のジャンパーに掴みかかろうとするも、するりと体をかわされた。 倒さなくても良い。開いた道に無理矢理体をねじ込み、扉の前に立った刹那、がらりと音を立てて扉が開いた。 「……!?」 目の前に先程とは違う壁が出来る。男が飛び込んできた───認識したその刹那、龍俊の前方と後方からほとんど同時に大声が飛んできた。 「アンタたち!!喧嘩なら外でやんな!!」 「───女将さん!将未の奴来てますか!?」 背後からの声は振り返るまでもなく店の女だとわかった。前方には─── 「滄さん?」 血相を変えて飛び込んできた男は、この街で将未を保護していると言うあの男だった。

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