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薄暗い部屋の隅に将未は立っていた。 アパートか何かの一室だろうか。ワンルームしかない部屋のカーテンは閉め切られ、光はほんの僅かしか見ない。その光が、淀んで停滞する空気の中に舞う細かい塵を目に見えるものとし、そして、光が射し込む先にある床に堆積した埃やゴミ屑の類や──その中心で、じっと体を丸めて蹲っている子供の姿を映し出している。 将未の視線の先で子供は全く動かない。伸び切った髪によって表情を伺うことも叶わない。あの子供は眠っているだけなのか、それとも──。 過る予感に血の気が引く。急いで歩み寄ろうとするも、何故か将未の足は動かない。室内にいるというのに、靴は履いたままだった。 以前もこんなことがなかったか。否、あれは夢の中だったか。自分はこの部屋に訪れたことがある。否──それは、夢の中だったか。 冷たい部屋の中、微かにカサカサと音が鳴っている。それが、凡そ年端もいかない小さな子供が発する酷く弱々しい細い呼吸が、周囲の紙やビニール袋などを揺らしているのだろうかと思うものの、将未にはそれが確かめられない。ゴミの中で背を丸め、自分を抱くようにして横たわる子供を将未はただ見ていることしか出来ない。 誰か、早くあの子に触れてやってくれないか。 知らぬ間に自分がいるこの部屋は異様だ。人の住む場所ではないだろう。こんな場所で人は生きてはいけない。思い、だが何も出来ない自分に途方に暮れる。 あの子はまだ生きているだろうか。 誰か早く確かめてくれないか。 確かめて、そして、生きているのなら──誰でも良い。早く、あの子をこの部屋から助けてくれ。 衝動に駆られて大声を出し、叫んで人を呼ぼうとするも声が出ない。喉仏の辺りで息が詰まったような感覚がある。自分は果たして大声を出したことがあっただろうかと明後日のことを考える。 声を発さなければ誰も来ない。 不意にこの部屋が、この部屋以外の世界中から隔離され、誰も知らない閉ざされた場所であるように思えた。 どうしたらいい、眉根を寄せた瞬間、突然将未よ背後でドアが開いた。 濃く暗い色の揃いの服を着た複数人の大人たちが、将未など見えないように──否、本当に見えないのだろう──どかどかと部屋に入ってきたかと思うと、大声を出して誰かの名前を呼んでいる。やがて一人の男が部屋の真ん中の辺りで一際大きな声を発したかと思うとしゃがみ込み、足元に横たわる子供を抱き上げた。 生きてるぞ。 一分の光を目にしたような声だった。 暗い部屋の中、唯一の光を見た。 何処か泣きだしてしまいそうにも聴こえるそんな男の声を聞き、大人たちはまた一層バタバタと動き始める。 救急車を。そんな声を聞きながら男の腕の中の子供が身動ぎする様を確かに見た。 ああ、あの子は生きている。 安堵する。良かった。あの子は助かった。 あの人が、この人たちがあの子をこの部屋から連れ出してくれる。助けてくれるのだ。 良かった──。その場に立ち尽くしたまま、将未の意識が遠のく。あの子の名前はなんだろう。ふと思い、祈るように瞼を落とした。 ※※※ 目を開けると、視界が妙に霞んで見えた。 自分はどうしたのだろう、とそれこそ霞がかったように頭がくらくらとする感覚に、将未はきゅっと瞼を閉じ直してはまた開く。何か夢を見ていたような気がするが、覚醒と同時に霧散してしまったそれの内容は思い出せない。 目の前には人工的な色をした何かが広がっている。自分の頬や、コートを纏ったままの体に冷たく触れるそれが何かの部屋の床だと気が付くまでしばらく時間があった。 ここはどこだ。自分は眠っていたのか。 咄嗟に思う頃にはようやく頭の中の霞が去っていた。起き上がろうとして床に手を着こうとした刹那、違和感に襲われる。──両腕が動かない。 「…え…」 小さく漏らし、軽く身を捩る。両手首はどうやら何かに縛られているようで、同時に足首も同じように揃えて纏められているらしいことを知る。コートの上からまとめて縛り上げられている腕を動かすと、拘束する紐状のものが微かに手首に食い込む。冷たい室温に下がった将未の体温から一層血の気が引いた。 どうやら自分は異様な事態に置かれているらしい。 ここはどこだろう、と首だけを上げて辺りを見渡す。まず高い天井が見えた。古びた照明が照らし出す広い空間の周囲には何かの道具や、プラスチック製のコンテナがそこかしこに詰まれている。その中にぽつぽつと置かれている古びたストーブは稼働していないらしい。見覚えのない景色だ。早くも途方に暮れた将未の耳に物音が届いた。 「なあ。ストーブつけようぜ。寒くて死んじまうって」 「馬鹿野郎。こんな閉め切った所で火なんか付けてみろ。なんとか中毒で一発でやられるんだぞ」 「頭いいなお前、」 男の声は聞き覚えがあった。回らない頭を必死に回転させて考えつつ視線を巡らせる。男たちは将未から少し離れた場所でコンテナに腰掛け、いかにも寒そうにジャンパーのポケットに手を突っ込み、背中を丸めていた。 幸い目隠しはされていないものの、視覚から得られる情報は少ない。手かがりを、というよりも自分が置かれた状況を知りたいという焦燥感に駆られつつも、裏腹に将未は冷静である。静かに白い息を吐く最中、自分の呼吸の音に聞き覚えのある音が近くで鳴っていることに気が付く。 「……海だ、」 壁を隔ててもなお鼓膜に響く波の音に記憶の蓋が小さく開いた。いつだったか、滄の店の準備に入る前、この街に訪れてから芽生えた感情の一つである微かな好奇心だけを携えて海の側にやって来た。一度滄に連れられてやって来た海をまた見てみたかった。コンクリートに波打つ海のすぐ側にある漁港にはいくつかの倉庫が立ち並び、その近くで漁師や女性が今のあの男達のようにコンテナに腰掛けて何かの作業をする様を遠目に見た。 鼻孔を揺らすと微かに潮の香りが感じられた。ここは漁港で、今いる場所はあの倉庫のどれかなのか。 だったら、自分は何故今こんな場所に両手両足を縛られて転がされているんだろう──。 どこかの海の側にいること以外は何もわからない。だが、良くない状況であることだけはわかる。 今はいつだろう。何時になっているのだろう。 自分は滄の店に行かなければならない。 任された仕事がある。 滄が任せてくれた仕事がある。 自分がいつもの時間に店にいなければ、滄に心配させてしまうかもしれない。 滄にも、誰にも心配をかけさせたくはない。 なんとかしなければ。思い、手を使わずに起き上がることは可能だろうかと縛られた足を探るように動かした次の瞬間、靴を履いたままの爪先が何かを蹴り、硬質な音を天井に響かせた。 「…あ?」 「あ、起きた、」 しまった、将未が思うとほとんど同時に、男たちの声と、コンテナを鳴らして立ち上がる音が聞こえた。 男達の顔が見える。不自然な態勢のまま目が合った瞬間、また将未の記憶が動いた。 ※※※※※ 通り掛かった二人組の四駆に乗せられてしばらく経った。運転する男は田舎の雪道に不慣れである上に、凹凸がある路面をを行く車はあまり乗り心地は良くない。時折大きく車体が揺れたものの、しかし将未はそれを気に留めるような男ではない。他のことなど何一つ頭に入らないかのようにただひたすら、真剣に窓に額をくっつけるようにして外を見つめていた。 積雪の多い地域である。路肩には高く積み上げられた雪の壁がある。箇所に差し掛かる度に、あの影に龍俊がいたら見つけられない、と不安になったが、やがて車が市街地を抜ける頃にはその雪の壁も目に見えて少なくなった。代わりに、空いた、自然のままの土地に夜目にも白い雪原が広がっている。 車はどうやら本当に街の中を一周するつもりらしい。男の運転は一定の速度を保っている。助手席に座っている男も、将未と同じように白い景色に目を凝らして龍俊を探しているようだった。二人が吸う煙草の煙が車内に充満していた。 港の方へと向かう道を大きく曲がっている最中しに、唐突に眩しい光を受けた。細めたままの目で見ると、前方からやって来た乗用車が明るくライトを灯している。光はハイビームと呼ばれる強いものに設定してあるのだろう。広い道路を煌々と照らす車とはすぐにすれ違った。 運転手の男が促されたようにヘッドライトを点灯させた。もうそんな時間か、とぼんやりと思い、はたと気が付く。 滄の店の準備のことを忘れていた。 慌てて車内に視界を巡らせる。運転席の左手側、助手席との間に将未が探した時計があった。デジタル表示のそれは、普段であれば店の準備を始めている時間をとうに過ぎている。さっと血が引く感覚を覚えながら先程までとは違う理由で窓の外を見やった。街灯の少ない街の外れは雪の白さだけが明るく、後は暗闇が広がるばかりだった。 「…あの、すみません、」 発した声は微かに震えたが、だが明瞭に車内に響いた。将未の声を拾った男たちが同時に後部座席を振り返る。 この闇では、龍俊も、他の人間の姿も見つからない。 この街──この街の郊外では、冬の短い日が落ちてしまうと外をであるく人間はそういないのだと以前滄が言っていた。こんな道を龍俊が歩いているとは思えない。 今日はもう探すことは出来ない。龍俊を見つけられない。 そうであれば、明日出直すことは出来ないだろうか。 そう提案しようとしたものの、焦りばかりが先走る将未の思考は上手く回らない。龍俊と、滄の顔がせめぎ合うように脳裏に在った。 「あ?どうした兄ちゃん」 「あの。俺、…帰ります、」 「…ああ?」 男たちには将未の言葉が唐突に聞こえる。意を決して顔を向けたものの、それでも語尾は窄まった。 「…暗くなったし、店の開店の準備をしなきゃならない、し、…俺、ここから帰ります」 この場所が何処かはよくわからない。だが、早口で告げる中で自然と溢れた。男たちは顔を見合わせた後、不自然に口元を歪めて笑ってみせる。 「そんなわけにはいかねえだろ。兄ちゃん。歩いて帰るってか、」 こくりと頷く将未は臆していない。脅しめいたものにも臆さないところは昔から変わらない。 「返すわけにいかねえよ。神原、まだ見つかってねえんだ」 「…でも、…明日、また──、」 上手い理由は見つからない。龍俊も、見つからない。いつしか男達の声音に明るい色が消えていることに気が付いた。その時不意に──今まで湧くことのなかった、疑問が湧いた。 「あの、」 正体のわからない男たちだった。 はじめからわからないし、今でもわからない。 ただ、龍俊を探すという理由だけが一致して、今こうして行動を共にしている。 だが、この男たちは、何故神原龍俊を探しているのか。 将未は知らない。 だが──正体のわからない警鐘が、遠くから聞こえてくるような感覚があった。 「どうして、…龍俊さんを探しているの、」 そっと、口に出した。差し出された問いはあまりに素朴で男たちは一瞬虚をつかれたような間を空けた。 その間の中で将未が再度運転席を見遣る。歪んだままの笑みに、ようやく──この男たちに会ってから初めて、我に返った。 「……どうしてだと思う。兄ちゃん、」 「──、あの、…俺、やっぱり行きます。降ります。降ろしてください」 鼓膜の側で鳴るような警鐘はいよいよけたたましさを増していく。 理由はわからない。 だが、この男たちはきっと──龍俊に会わせては、いけない。 直感としか表現できないものに背を押され、将未はドアの開閉ノブを手で探る。その動きに気付いた助手席の男が狭い車内で立ち上がり、後部座席に足を突き出す態勢で将未に相対した。 「おい車停めろ。…なあ兄ちゃん。俺らタクシーじゃねえんだ。ここで降ろしてくださいとか言われてハイどうぞ、なんて言うと思うか、」 「…っ、」 気が付いた時には、暖房が効きすぎた車内には暖気と共に悪意が充満していた。将未は必死にガチャガチャとノブを動かすも、オートロックがかけられた鍵とドアは開かない。 ごん、と鈍い音が鳴る。後頭部と額に走る痛みに、自分の額が窓ガラスに打ち付けられた音だと気が付くまで時間がかかった。後ろから髪を掴まれたまま、将未は浅い呼吸を繰り返す。間近にある窓ガラスが不自然に白く濁った。 痛い目に遭ってようやく確信を得る。 この男達は悪人だ。 ──思えば、悪意には頻繁にさらされ続けていた。 生まれた時も、施設を転々としていた時も、ススキノのあの店にいた時も、雄誠会に身を置いていた時も、将未の隣にはいつも誰かの悪意があり、将未は本人も知らぬ間にそれに貪られ、侵食され、やがて一人棄てられた。将未はあまりに悪意に慣れ続け、麻痺している。 それなのに、この男たちの悪意に気が付けなかったのは、将未が鈍く、麻痺を起こしているからという理由だけではない。 「俺らの顔見られたからには返すわけにはいかねえんだよ、」 滄の顔が頭を過る。 この男たちの悪意に気が付けなかったのはきっと、この街ではこんな風に扱われる事はなかったがらだ。 滄や、食堂の女将をはじめ、この街のほとんど誰もが将未には優しかった。親切にしてくれた。少なくとも将未の中では、この街に悪意を向けてくる人間はいないと思っていた。 滄に心配を掛けてしまう。 この男達と龍俊を見つけるわけにはいかない。龍俊を会わせてはいけない。 だが自分はあまりに、力が無い。 男に体を捕らえられてもなお、将未はドアノブから手を離さない。しつこく脱出を試みる将未の姿に苛立った男が、その苛立ちをぶつけるように、将未の体、鳩尾の部分に拳をめり込ませた。 「──っ、…、」 将未の指から力が抜ける。 知らない人に着いていくな。 そう教えてくれたのは誰だったか。 せっかく教えて貰ったのに。 俺は、やっぱり駄目だな。 実に久方振りに過ぎった思いは、前傾した体をドアに凭れる形で昏倒する間際に浮かび、そのまま意識と共に失われた。 ※※※※※ 男に押し付けられる圧と、目の前にある窓ガラスと、腹部に走った強烈な痛みを最後に将未の記憶は途絶えたのだ。 この場にいる前の記憶を思い出すと同時に将未の中に過ぎったのは諦めだった。 気を失う直前の、車から降ろしてほしいという要求は当然のように却下され、今ここにこうして四肢を拘束されて何処だかもわからない場所に転がされている。 この分では、龍俊を探すことはおろか滄の店に行くことも叶わない。 将未は途方に暮れ、そして諦める。 何をしても駄目で、人に迷惑や心配を掛けて生きているようになったのはいつの頃からだったか。自分はずっと、駄目な人間だと思っている。 何かが足りない。何かが欠けている。 それは施設にいても、ススキノにいても、そしてこの留萌にいても埋まることはない。 何一つ上手く──人並みに生きることの出来ない、駄目な人間だと思っている。 そう思うと、生きる場所を転々と変えながらもここまで生きていたのが不思議なくらいだったが、いよいよこの──何処かもわからない、冷たい床の上で死ぬのかと思った。 「起きたか兄ちゃん。おい。どうするよ。これ」 目を覚ました将未に近付いてきた男達は悪人だ。この男達の誘いに乗って車に乗ったが、彼らは悪人だろう。深い根拠はないが、少なくとも自分を昏倒させ、縛ってここに転がしたのはこの男達だ。 自分はこの男達に殺されるのか。そう思っただけで、不思議と他の感情は起こらない。 一人が面倒臭そうに頭をかき、肩を竦めた。 「知らねえよ。面倒くせえの拾っちまったな。…でもまあ、そうだな。さっき兄ちゃんの言った通りだ。この暗い中じゃ神原も探せねえ。明日出直すしかねえだろ、」 この男達はやはり龍俊を探している。夜明けを待ってまで探す理由がある。──将未には、その理由が良いものであるとはとても思えない。ぼそぼそと話し合う男達の会話に耳をそばだてる。どうすればこの状況を打開し、この男達を龍俊に会わせずに出来るのかなどわかる筈がない。何しろ、自分の両手両足は動かない。 ここで死ぬのならそれはそれで仕方がない。 将未はいとも簡単にその結論に辿り着く。 だが──胸に引っ掛かったものが、苦しい。 「面倒くせえな。こいつはここに転がしておくか」 「ここにかよ。寒くて死んじまうぞ」 室温は相変わらず低いままだ。男達は揃って咥えタバコで両手をジャンパーのポケットに突っ込んでいる。将未の方も底冷えするような床に身体が震える。吐く息は皆白かった。 「だから置いてくんだよ。運が良けりゃ誰か来るだろ。…それとも閉め切って火ぃ着けてくか?ストーブでも着けときゃナントカ中毒で一発だろ、」 「──…、」 届く声は、明らかに自分の命を奪う算段をしている。今にも凍り付くようなさむさが床から伝わってくる。コートを着ていても歯の音が合わなくなりそうな低い気温だった。 ここまでか。瞼を落として思った刹那、将未の脳裏に次々と人の顔が浮かんだ。 ──助けて、貰ったのに、 「っ…、」 諦めの隅、胸にあるものは肥大化し、苦しさは増す。 拘束が少しでも解けないだろうかと両足を動かすと、硬い何かに触れた。何かがある。札幌にいた時に買った冬用の靴は履いたままだ。もう一度、力一杯足を動かす。躊躇することのない将未の足に蹴られた何かが立てた、ごん、ともがん、とも付かない音が倉庫の中に響き渡った。 ※※※※※ 「ここも空だ!」 滄と龍俊、それとサトルとハマと名乗った四人は夜の漁港を駆け回っていた。夜空の下に整然とと並ぶ倉庫に順に近付いてはドアを叩き、外周をなぞって窓を覗き込むも、どれも鍵がかかっている上に灯りはついていない。零下の中、凍える手でドアを揺さぶったがガチャガチャと音が鳴るだけで開く気配は無い。 ここにはいないのか。人を始末するのなら、自分達であれば足が付きにくい夜の冬の海へ行く。珍しく勘が外れたかと息が上がる中で舌打ちするサトルの隣でハマが不意に足を止めた。 「…サトルさん。…なんか聞こえませんか」 「あ?」 背の低いサトルが背の高いハマを見上げる。少し関西の訛が残るハマは呟いてから耳に掌を添え、口を噤む。その様子を見てサトルもまた黙って耳を澄ませる。足を止めて佇むうちにようやく滄と龍俊が追いついた。 絶えることなく堤防に叩き付ける波の音に混ざり、がぁん、と、何かを打ち付けるような音が一つあった。 「──、」 「今、」 どこからか聞こえる音は、波と同じく絶え間なく、不規則に続いている。自然から発生した音ではないだろう。何かを打ち付けるような、叩くような人工的な音は建ち並ぶ倉庫のどこからか聞こえていた。 ──誰かが意思を持って鳴らしている。 音の発生源を辿ることを難しくさせる 波の音が邪魔だ。ハマが眉を寄せた刹那、サトルがいかにも本能に突き動かされるように走り出した。 「こっちだ!」 やや甲高い声を聴いた滄と龍俊がすぐ様後を追い掛ける。小さな背を追って駆け出すハマに、滄と龍俊がほとんど横並びになって雪を蹴った。 ※※※※※ 床に転がされたままの態勢で伸ばした足に触れた何かの正体はわからない。だが触れてもその場から動かない硬質のそれを将未は渾身の力を込めて蹴り続けた。 運が良けりゃ誰か来る。そう言ったのはこの男達だ。 運が良いとか、あるとか、悪いとか──そんなことを考えたことはなかった。 ただ流され、転がり続けた人生の中で、将未はそんなことを考えたことが無い。 だが、今初めて思う。──あの矢立や、龍俊や、滄に拾われた自分は──幸運だ。 「おい!何してんだ!やめろ!」 男の一人がしゃがみこんだかと思うと、気が触れたように物体──漁に使用される錘が大量に入れられた籠を蹴り続ける将未の横っ面を間髪を入れず殴り付けた。咥内に血の味が広がる。懐かしさすら感じるそれは将未の過去を喚起させる。 自分は確かに人に助けられて生きてきた。 そうでなければとっくに野垂れ死にしている。 気が付いた時には親と呼べるものが無かった自分は確かに誰かに助けられたのだろう。 ススキノのあの店を追い出され、道端で蹲った自分を助けてくれたのは矢立だ。 住む場所が無くなりかけた自分を助けたのは、龍俊だ。 その龍俊に棄てられ、雄誠会にもいられなくなった自分を助けたのは滄だ。 自分はいつも幸運だった。 死の隣にあった幸運は──今もまだあるだろうか。 殴られてもなお、将未は足を止めない。けたたましい音は鳴り続ける。これ程までに必死になったことは無かったかもしれない。吐く息が切れるのがわかった。 「っ、…誰か、」 ──誰か気付いてほしい。 ここにいる。 まだ、生きてここに居る。 「てめぇ いい加減にしろ!」 再び顔面を殴られた。それでも将未は歯を食い縛る。 これまでに生まれて来なかった感情が明白になる。 先程見ていた夢の欠片が明白になる。 あの汚れた部屋で眠る子供を助けたかった。 大声で誰かを呼びたかった。 大声を出さなければ助けは来ない。 今まで生きている中で大声を発した記憶はない。 ──自分の命に、頓着した記憶も、執着した記憶も、無かった。 いよいよ頭に血が昇った男の手が将未の細い首に掛かった。冷えた指に逡巡もなく力が込められる。詰まる呼吸は夢の中のそれと似ている。久方振りに、死を間近に感じた。 「…っ、嫌だ、」 や胸に引っ掛かる感情の正体をようやく知る。 自分が助けられたことを忘れて、これまでの全てを無かったことにするように、簡単に諦めるわけにはいかない。 こんな所で、見ず知らずの男達に終わりにされる理由がわからない。 ──死にたくない。 龍俊に、会いたい。 「──嫌だ、誰か、…っ、…死にたくない、」 会いたい。 死にたくない。 何もない人生だった。 自分は駄目だと自嘲するだけの人生だった。 だが──だから、今初めて思う。 息を吸っては吐く。まだ生きている。首に食い込む男の指によってまた呼吸が浅くなる。だが、まだ生きている。 深く、息を吸い込んだ。 「死にたくない!助け…っ、まだ死にたくない!…助けて!!」 「──ここだ!!」 将未はほとんど絶叫した。 慣れない、不格好な、不器用な叫びの一拍あと、強烈な破壊音と共に、倉庫のドアが開けられた。 ※※※※※ 夜の漁港にくぐもりながらも鳴り続けていた硬質な音が消えた。音の出る先を見失ったか、と焦りを覚えながらも足を止めることなく駆ける最中、同じ方角から実に唐突に、人が叫ぶ声が、聴こえた。 「──、」 声は先程の音と同じく建物の中から、壁や扉に反響して届いた。先頭を走っていたサトルは、既の所で駆け抜けようとした1棟の倉庫の前で踵を返したかと思うと、ここだ、と一つ叫びながら迷うことなく閉ざされたシャッターを蹴り上げた。 シャッターは歪み、地面と接していた箇所に隙間が出来た。すぐに追い付いたハマとサトルで横並びになり、シャッターを持ち上げて無理矢理こじ開ける。鍵はかかっていなかったのか壊されたのか、意外と容易く開いたシャッターは夜にけたたましい音を立てて大きく口を開いた。不自然に明るい倉庫の中をぐるりと見渡すよりも先に、中程にいる三人の男達が視界に入った。 「──将未、」 追い付いた本城滄が転がるように倉庫の中へと飛び込む。闇に慣れた目に眩しい蛍光灯の下にある光景にぽつ、と落とすように呟く。目に映った光景にさっと顔色を変えたかと思うと、地面を蹴って猛然と駆け出した滄をサトルもハマも止め損ねた。横たわり、目を丸くしている将未の元へと駆け寄ったものの、その顔に在る殴打の痕に、滄の血は一瞬で滾った。 「お前らァ…!」 突然の乱入者達に呆気なく虚を突かれて立ち竦む男の一人の胸倉が滄の広い手に掴まれる。サトルとハマが到達する頃にはもう、男の体は上背と力のある滄に殴られて床に叩き付けられていた。 「あー…。手ぇ出すなって言ったのに」 倒した男の上に馬乗りになって拳を振るう滄にサトルは苦く笑い、さほど残念そうな口調ではない声で言いつつ寒々しい坊主頭を掻く。ちらりと将未に見やり、一瞬だけ目を合わせてからハマを見上げた。 「ハマ。止めろ。アイツ俺じゃデカすぎて無理、」 「はい、」 飄々とした口振りで命じられたハマは忠実に滄へと向かい、後ろから何事か叫ぶようにしながら滄の手首を取った。もう一人の男がようやく我に返ったのか、サトルに向かって遅い拳を振り上げる様に気付いては、喧嘩慣れした片足を伸ばしてその足元を払う。硬い地面に強かに転倒した男の床に落ちた手を雪面用の滑り止めが付いた長靴で踏みつけ、側に横たわったままの将未の顔を覗き込む。 「広瀬か」 名を呼ばれた。知らない男の乱入に呆けながら、それでも名を呼ばれたことを認識しては将未はほとんど無意識に頷く。サトルが目尻を下げ、どこか子供のように笑った。 「でけえ声出せるじゃねえか、」 「…あの、」 片手で小さなナイフを取り出す。踏み付けていた男の手の上に尻を乗せてどかりと座り込むと、痛え、という声を文字通り尻目にして将未の手首と足首を拘束していた紐を切った。 「助けてって言えたな。えらいぞ、」 「──、」 サトルは、それが将未にとって呪文のような言葉であることを知らない。だが、呟くように向けて、ぽん、と一つ頭を撫でた。 この人は誰だろう。でも、褒めてくれた。 この期に及んでなお、その一言は将未の中にある寂しさを温める。 そして辺りを見渡して、知らない男の二人組と、滄の姿を改めて見て気が付く。 自分が生まれて初めて発した助けて、という声は──届いたのだ。 自分はまた、助けられた。 柔らかな声に手を引かれるような心地で四肢を動かし、起き上がる。男達の乱闘のその先、真っ直ぐに顔を上げた先に──龍俊が立っているのが、見えた。 「…た、──っ、」 龍俊だ。 将未の目や、脳が認識したその刹那、不意に視界が霞んだ。 龍俊の姿が上手く捉えられない。滲む視界におかしいな、思うと同時に、将未の目からぽろぽろと雫が溢れる落ちた。 この雫はなんだろう。それを認識するより先に将未の口からは、大きな泣き声が生まれ出た。

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