1 / 6

第1夜 美しい名前

――汝、我来たるを待て。  昼過ぎから降り始めた雨は止むことを知らなかった。 漁港が近いせいか、貧民街はいつも生臭い。 場末の酒場から出たごみも、鼠の死骸も、それを餌とする野良猫も、動物の身体を棲み処とする虫達も一緒くたにされて路地裏に転がっている。 あらゆる悪臭が混ざり合い、表通りの人間からしてみれば吐き気を催すものしか存在しない。 しかし今、降り注ぐ雨によって治安の悪い地域が持つすえた臭いさえもが流されているようだった。 だが、雨は冷たい。 春先であるが、夕暮れ時ともなれば冷えてくる。  神の気まぐれかのような雨は貧民街を、いや、商店街も広場も学生街も高級住宅地も、街のいたるところを凍えさせていた。 人々が傘も差さずに足早にどこかへ去って行く中で、貧民街の路地裏の奥まったその場所に居る人物は、その身一つで雨を受け止めていた。 「寒い……」  その声は雨にかき消されそうなほどか細い。 顔を隠すほどに長く黒い髪も、薄汚れた白いワンピースも、雨に濡れて冷たく、確実に体温を奪う。 冷たい身体とは裏腹に、吐く息と頭はなぜか熱かった。 もう5日もろくに食事を取っていない、泥水や雨水で喉の渇きを癒すばかりの日々だった。食べ物を盗みたかったが、そんな体力さえもなかった。  俺はもう、ここで死ぬのかもしれない。と、地べたに座り込んだ彼は思った。 俯きながら、減りすぎて鳴らなくなった腹に右手を添えた。 その手は枯れた枝のように細く、肌の表面が爛れている。 医療知識のある人間から見ればそれは、火傷の痕だとわかるだろう。  彼は短い人生の、あっけない終わりを悟りながらも、笑っていた。 笑え、笑え。 今の俺は、女だ。 美しく笑って、男と交わり、金を得れば、まともな食事がとれる。 食べて、そして、熱が下がれば、まだ生きてゆける。 死にたくない。  彼は死の淵に居ながらも、死と疎遠のような顔をしていた。 とくに、最高級のルビーのような赤い瞳は、俯きながらもまだ冷徹にこの世を見ていた。 どんなに死が近づいて、眼前に居ようとも。生きてやるのだ。 何とか力を振り絞って、ここから移動しよう。 人目に付きやすい場所なら、買われやすい。 そう思って、顔を上げた瞬間のことだった。 真っ白なものが見えた。 「え……?」  思わず彼は顔を上げた。眼前には白銀の髪をした白衣の人物が居た。 顔を上げる直前までは居なかったはずだ。 その人物は、一言で言い表すなら美しかった。 整いすぎているかんばせに、冷たく煌めくアイスブルーの瞳。 色白の肌に清潔なシャツを纏っている。足には女性ものの華奢なヒールがあった。 その人物は、口を開く。 「やあ、こんばんは」  声で分かったが女ではなく男だった。 とても柔らかく、甘く、軽やかな声だった 美青年はしゃがんで、自分が濡れてしまうのもいとわず、彼に……少年に傘を差しだす。 麗人が近づくと、甘い花の香りがした。 身も心も溶けそうなほど、甘く香っている。 「寒いだろう」  薄く微笑むその表情は、どこか儚くもやはり美しかった。 美青年は首を傾ける、白銀の髪がさらりと揺れた。 「見たところ、薄汚くとも娼夫をしているようだね」 「……お客さん、になってくれるんですか?」  息苦しそうだったが、丁寧な返事を少年は返す。 喉が焼かれたように痛んでいた、声を出すのもつらかった。 でも、訪れたチャンスを掴んで離したくない。 たとえ、目の前の人が美しくも実に奇妙に見えたとしても。 「そうとも言えるけれど、とにかく、君の事を買ってあげよう、君の為なら何でもしてあげよう。けれど……」  美青年は笑みを深める、その表情は天使の顔にも悪魔の顔にも見えた。 慈悲深い救い手か。 堕落への囁きか。 「僕の願いも叶えてほしい」  少年はすぐに返事を返す。 「この地獄から、救ってくれる……なら、俺は、何だって……たす、け、て」  雨音に掻き消えそうな声でそう言うと、少年は目を閉じて意識を失ってしまう。 美青年は傘を畳んで、地面に置いた。そしてすぐさま、少年の脈拍と熱を測る、その手つきと表情は真剣そのものだった。 「生きているのが不思議なくらいだ……それに、このケロイド……とにかく家に持って帰ろう」  美青年は軽々と、少年の濡れた身体を持ち上げる。 そして、風が吹く。 美青年の長い髪が、ふわりとなびく。 一瞬のことだった。 そこにはもう、誰もおらず残されたのは美青年が地面に置き忘れた傘のみだった。  ノクターナル王国、それが少年の生まれ育った国の名前である。 ”赤は災いの色、その色を目に宿す者は忌子である” ノクターナル王国の初代夜行王が口にした言葉だ。 この国で赤い瞳を生まれ持った者は呪いを振りまく存在だとされており、そのせいで少年は赤ん坊の状態で教会に捨てられた。現在の夜行王は30代目であるのに、未だに初代夜行王の言葉は国民に残っている。 だが、ヨハネ教会の運営する孤児院は少年を受け入れた。 そこで少年は忌子ではなかった。年老いた厳格な神父、優しいお母さんのような修道女、そして、同じように大人たちの勝手で捨てられた子であるきょうだい達。 少年は、幸せだった。 些細な事だったのかもしれない、けれど幸せだった。金も地位も無く、何も持たない、ただ一人の子供。 それでも、幸せそのものがあった。 きょうだいと遊び、修道女や神父に読み書きを教わり、沢山の本を一人で読み耽り、皆で食事を共にして、ベッドでゆっくりと眠る事の出来る日常は。  3年前の、あの日までは。 深夜にヨハネ教会と孤児院に盗賊が忍び込み、神父も修道女も孤児たちも皆殺しにされたのだ。 小さくとも歴史のある教会から、聖遺物や金品を盗み、金品の入れ物と思われた建物は焼かれてしまった。 唯一生き残ったのは、その少年だけだった。 生き残って、しまったのは。  いっそのこと皆と一緒に死ねば楽だったのかもしれない。 今に至るまで、楽だったことなどほとんど無いのだから。 少年はあの日、焼け落ちる聖堂を逃げ惑い、全身に火傷を負った。 病院に運ばれ、何とか一命を取り留めたが、独りぼっちになった彼を誰も助けてはくれなかった。 意識の無い状態では、瞳が開かず忌子としては見られなかったが、意識が戻るなり医師も看護師もよそよそしくなった。 やはり赤い瞳を持つ者に近づくと不幸が起きるのだ、と関わる人々が災いを避け、少年から目を逸らした。  少年は肌に負った火傷がある程度癒えると、病院から抜け出して貧民街で生活することを選んだ。 彼には誰も認めてくれるものはおらず、どこかに居て良い権利も無いように思えた。 盗むことを覚え、瞳の色で脅すことを覚え、身体を売る事を覚えた。  彼の顔半分にも火傷の痕が残ったが、それでも気にしない客を取れば良かった。 自分が忌子であろうとも、身体に火傷の酷い傷跡があろうとも、快楽を求める男は大勢居た。  血の滲むような努力をしながら生き延びた3年間で、少年は何もかも信じなくなった。 他人も、自分も、明日も、神も。 忌子と呼ばれ、元より神に嫌われている身だ。そう思い無茶な事も悪い事も沢山した、生きる為なら何だってした。  彼には生への執着心が強くあった。 そんなに俺を不幸にして殺したいのであれば、生きて、生きて、生き延びてやる。そんな神への反抗心が、反逆が、彼には在った。 死ぬわけにはいかないのだ。 無残に殺されたきょうだいと、修道女と、神父様の為にも。 ……生きたい。 少年はただひとつその事だけに執着して、その日を暮していた。 だが貧民街は衛生環境が悪く、また性病にもなりやすい娼夫となれば体調を崩す時も多々あった。 その日は特別調子が悪かった。 発熱したうえで、冷たい雨に降られ、食事も睡眠もとれていなかったのだ。 もしかすると死ぬのかもしれない、と少年は覚悟していた。それと同時に、ここで死んでたまるかという闘志も燃やしていた。 そんな時に目の前に現れた白い麗人は、果たして、彼の救世主になるのだろうか。  身体に何か温かく柔らかなものが触れている。 それは一定のスピードで、ごろごろ、ごろごろ、とどこか心地よさそうな音をたてている。 薄く目を開くと、見知らぬ天井があった。 「!?」  少年は目を完全に開けてとび起きる、知らないベッドで眠っていたようだ。 しかも真新しそうな寝巻を着せられているし、身体も洗われたのか拭かれたのか清潔さを保っていた。 「ここは……」  少年は声を出す、喉の爛れるような痛みが無い。体のだるさも、熱っぽさも無いことに気付く。 誰かが……いや、あの美青年が看病してくれたのか、あるいは医者を呼んだのかどちらにせよ。 にゃあん。 と、少年が思考を巡らせている最中にベッドの中で鳴き声がした。 「……猫?」  掛布団をめくると確かに猫が居た。 白い毛に茶色のぶち模様の猫だ、尻尾は黒と茶の縞模様になっている。 少年に体温を分け与えるかのように寄り添っているように見えた。 綺麗な猫だ。 猫は、少年を一瞥するとベッドから飛び降りた。 そして、半開きになった部屋のドアから出てゆく。 その猫の、薄い緑で縁取られた金の瞳がやけに心に残った。  少年はそこで、ようやく部屋の状況を見る事が出来た。 机と椅子、子供の身体には大きすぎる気がするベッド。本棚にはいくつか本があり、部屋の中心には丸いテーブルとチェアがある、それからクローゼットなど人が一人暮らすには十分な家具が満たされた部屋だった。 「ここは……あの人の家なのか?」  少年はベッドの傍にある窓の遮光カーテンをめくって外を見た。 良く晴れた景色が見える、草花が生い茂る庭が広がっていた。 今居る場所を確かめたかったが、街の様子は見えない。 少し落胆すると、部屋の外から声が聞こえた。 「チェルシー?目を覚ましたって!?ああ、うん……ありがとう、すぐに行くよ」  声のあと、たったった、と軽やかに走ってくる音が聞こえた。 半開きのドアがノックされることも無く開いた。 「おはよう少年、よく眠れたかい?」  現れた美青年は、白衣姿ではないものの、白いシャツに薄いグレーのスラックス姿だった。 美青年は腕を広げて嬉しそうに近づいてくる、初めて出逢った時と同じ香りがする。 少年の肩を持ってベッドに居る彼と目線を合わせる。そして、医者の様にバイタルチェックをし始めた。 「顔色良し、熱も無い、脈拍は正常、うんうん、いい感じだ。喉の方はどうかな、痛みはある?」  少年の手首に触れたり、おでこに触れたりして体調を確かめる。 まるで医者のように聞いてくる、混乱しながらも医者にたずねられた時のように返事をする。 「痛く……ないです」 「それは良かった。3日も寝込んでいたのだから、心配したよ」 「……はあ、3日、え!?3日!?」 「そう、3日。さすがに眠り続けるのにも飽きただろうし、汗もかいているよね。チェルシー!」  美青年は先ほども部屋の外で聞こえたチェルシーという人名をドアの外に向かって叫んだ。 「バスタブにお湯を張っておいてくれるかい?あと、食事の支度も頼むよ。胃袋が弱っていても食べられるものをね」  ややあって返事が返ってくる、年老いていて落ち着いた女性の声だった。 「かしこまりました、旦那様」  美青年は返事を確認すると、また少年の方に向き直った。 「自己紹介がまだだったね、僕はヨセフ。ヨセフ・オッペンハイム。君の名前をきかせてくれるかな?」  ヨセフ、と名乗った青年はアイスブルーの目を輝かせて少年の名前を聞いてくる。 「名前、ですか……」  少年には孤児院で神父から与えられた名前があった、それに娼夫として生きていくための名前も。 だが言葉に詰まった。どちらを言えばいいのか戸惑ってしまった。 薄汚れた人生を歩んでしまった自分には神父が名付けてくれた名前は相応しくない、そもそもその名前は貧民街で暮らす際に棄ててしまった。 しかし、少年であると見抜かれているのに売春をしていた時の女性名を名乗るのも気が引ける。 少年が冷や汗をかいていると、ヨセフが首を傾けた。 「どうしたんだい?」 「今の俺に名乗れるのは、偽りの物か、棄てた物しかないので……迷っているんです」 「なるほど、なら僕が新しい名前をつけてあげよう、お風呂から上がるまでには考えておくよ。人生が晴れやかになるような美しい名前をね」  ヨセフは明るくそう言った、だが少年はこう思った。 体調も万全になり風呂に入れという事はいよいよそういう事なのだろう。 抱かれるのだ、この人に。  少年は、ヨセフと名乗った男を見た。やはり美しい容貌をしている。 ここまで美形な人間など、見たことがなかった。 こんな人でも、俺みたいなのを買うのか……物好きな人間も居るものだ。だが、金や物品で報酬を受け取れさえすればそれでいい。親切なことに、食事までも用意してくれるのだ。しっかり仕事をしなくては。 そう思いながら、少年はめいっぱい笑顔を作る。 「ありがとうございます、身体はちゃんと綺麗にしますね」  声が震えぬように、気丈に振る舞った。 いつも思うが、仕事前は緊張するのだ。 事を始めてしまえば、羞恥心も自尊心も、何もかもを捨てて行為ができるのだが。 微かな緊張感をヨセフが感じ取ったのか、提案する。 「僕が君の身体を洗ってあげるよ。僕には医学の心得があるんだ、肌に良い薬湯を用意するね」  できれば一人で風呂に入りたかったが、客の要望は無茶な事でない限り飲むことにしている。 死にかけていた自分を看病してくれたであろう人物だ、恩もある。 「分かりました、少し肌が弱いので優しくお願いします」  少年は上目づかいでヨセフを見つめた。 少しでも自分が可愛らしく弱々しい生き物に見えるように。 ヨセフは微笑みを返す。数々の客を相手にしてきたが、こんなふうに穏やかに微笑を向ける人間は居なかった。 「いいとも、さあ、行こうか」  少年の身体を労わってか、ヨセフは彼を抱きかかえた。やはり、麗人からは濃密に花のような香りがして、少年はくらくらした。  家の中はハーブのような香りに満たされていた。 少年には構造が分からないが、廊下を進んでいる時に窓の外を見たらそこからも庭のような風景が見えた。  少年が寝ていた部屋から廊下を進み、角を曲がる。 とある部屋のドアが半開きになっている、ヨセフはその部屋に入る。 そこは広い浴室だった。 脱衣所で少年を下して、服を脱いで待っていてね、と優しく伝えてヨセフは彼から離れていく。 浴室には、棚がいくつかあり、そこにはガラス製の瓶が所狭しと並べられている。 あれは何だろうか、と考えている中でヨセフはその瓶をいくつか取り出して作業台に乗せて、瓶の中身をスプーンで取り出し網目織りの素材でできた袋に詰めて、紐で封をした。 それを、湯で満たされた猫足のバスタブの中に入れる。 その後、また棚から何かを取り出して、粒と粉の間くらいの大きさのものをバスタブの中に入れ、シャツの袖をまくって風呂桶でかき混ぜる。 混ぜ終えると、どこか満足げに水面を見つめた。 「……これでよしっと」  少年は、着せられた寝間着を脱いで、ヨセフの様子をうかがっていた。客の行動を注意深く見ておくのは娼夫の基本だ。 視線に気づいたのか、ヨセフが顔を上げる。 「準備ができたよ、さあおいで。洗ってあげよう」  ヨセフが手招いている。 少年は生まれたままの姿で、火傷の痕を曝け出して、彼に近づいていく。 どこか恥じらうような表情をしながら、本当は恥などとうの昔に棄てたのに、まるで初めて人に肌を晒したかのような表情を作り上げる。ほとんどの客は生娘のような反応を娼夫に求めるからだ。 「はい……よ、よろしくお願いします」  少年が、自分よりもはるかに背の高いヨセフを見つめる。 彼はまだ、その視線になびくことは無かった。 ヨセフは自分の服に湯がかかる事も厭わず、着衣のまま少年の身体を洗い始めた。 薬湯で身体を濡らしてから、ボディーソープを泡立てたもので体を洗われる。 少年の身体は華奢で、背も低い。 ヨセフの手はとても優しく少年の肌の上を滑った。 まるで、愛撫をされるような感覚に陥る。 「そこは……自分で洗う?それとも、僕が洗ってもいいのかな?」  まだ、陰毛さえ生えてない局部の事だった。 少年は恥ずかしがるような表情を作り上げ、か細い声で「洗って、ほしいです」と答えた。  ヨセフの手で洗われると、体の隅々まで心地よかった。何日もまともに風呂に入っていなかったからか、それともヨセフの指先が巧みなのか。 だが、少しおかしかった。 体を売り続けて生きてきた少年は、客の前で真の意味で心地よくなった経験はない。 執拗なまでに乳首をいじられたり、小さな身体に大人の性器をねじ込まれたりしたことによる快感は、いつもどこか苦痛に満ちていた。 だが、今はそんな苦しみが少しも感じられなかった。 「うん、なら……失礼するよ」  ヨセフがそっと少年の芽を柔らかく手で包んだ。 男性にしてはしなやかで細いが、少年にとっては大きな手だった。 丁寧に、あまり刺激を与える事無く洗ってくれる。 それが逆に快感を生みだして、少年は声をあげそうになる。 奥歯を噛みしめている少年を見て、ヨセフは悪戯っぽく笑った。 「気持ちいいんだね」 「……っ……はい」  呼吸が乱れ始めると、名残惜しく掌が離れていった。 少年は少しだけ、もやもやとした感覚を抱く。 「髪も洗うね、そこに腰かけてくれるかな?」  ヨセフが示したのは、風呂場用の小さな椅子だ。 そこに腰かけると、頭から湯をかけられ、シャンプーで髪を洗われる。 髪が長く、不衛生な状態が続いたため、洗うのに時間がかかった。 だがやはり、丁寧にやさしく洗ってくれて、少年は3日ぶりに目覚めたばかりなのに心地よさで眠くなってしまった。 「痒い所はございませんかー……ふふっ、ヘアサロンみたいだね。そうだ、この髪はバッサリと切ってあげようか。さすがに長すぎるし、長いと手入れが面倒だし……長髪の僕が言う事ではないけどね?」 「お気持ちはありがたいのですが・・……バッサリと切ってしまったら、女の子に見えなくなってしまうので」  少年は業務妨害だ、と心の中で少し毒を吐く。 確かに長い髪は不便だが、切ってしまうとデメリットがある。 「君はこれからも女の子として身体を売り続けたいのかい?僕は、少年として生きている君と一緒に暮らしたいのに」 「えっ……?」  突然の事に言葉が出なくなる、一緒に暮らすだなんて、物好きにもほどがある。 目を閉じていて、と言われそのまま黙る、お湯を頭からかけられて泡という泡が流される。 「……囲うつもりなんですか?」  泡を流された後、少年は手で顔をぬぐってヨセフを見つめた。 ヨセフは、ふむ……と顎に手を当てて考える。 「囲う……囲うのか……ある意味そうかもしれないね、けど、今はとにかくお風呂だよ。さあ、入って」  少年はまだ納得しないまま、ぬるめの湯に浸かった。 普通の湯よりも肌に触れた感覚がやわらかい、それにハーブの良い香りがした。 こんなに広くて清潔な風呂に入るのは、いつぶりだろうか。 少年が少し落ち着きはじめると、ヨセフが少年の頭に触れた。 「よし、じゃあ……もう一度、目を閉じて、暫く息を止めていてほしい」 「は?何を……ごぼっ!?」  ヨセフの両手が少年の華奢な肩を掴み、そのままバスタブの底へ沈められる。 小児性愛者の人殺し。 もしくは物凄いサディスト。 その2パターンの場合が少年の頭に過ったが、今はそれどころじゃない。 目を閉じる事は辛うじてできた、だが息は一瞬のことだったのでパニックになり、ごぼごぼと吐き出してしまう。 もがいて、湯の中から出ようとしても、ヨセフが強い力でそれを阻む。 もう息が続かない……そう思った瞬間、今度は脇の下から強い力で持ち上げられ、湯の中から出された。 「げほっ!ごほっ!」  苦しげに咳き込む少年を気遣う声が聞こえてくる。 「ああ……薬湯を飲んでしまったかな?多少飲んでも身体に害のある成分は無いから安心していいよ。ふむ、効き目は上々だね」 「何をするんだ?溺れ死ぬところだったんだぞ!」  少年が本来の気丈さを見せ、静かに怒りが揺れる赤い眼で睨みつけると、ヨセフはなぜか軽やかに笑った。 「それが君の素の表情?実に良いね、気に入ったよ」 「水中に突然沈められたら、誰だって怒る」  少年は至極真っ当な事を、真面目そうな顔をしながら低い声で伝えた。 バスタブに沈められた時は驚いたものの、今現在しているのは感情的な怒り方ではない、子供の悪戯を正しく注意する大人のような言い方だ。 「ごめんよ、君にきちんと説明するべきかと思ったけれど……僕、人の驚く顔が好きでね。友人はとても悪趣味だと言って来るけど、手品で驚かせるのと違いはないと思っているよ」 「バスタブに子供を沈めるのが、手品?」  さとすように、少年が言う。その言い方も、やはり子供らしからぬ冷静なものだ。 かしげた首には髪から水分が伝っていく。 「君はあんまり驚いていないみたいだ、自分の感情にとても客観的で居るのかな……ところで、君の手を見てごらん?」  ヨセフは話を切り替えるように少年の右手を取った、視線がそこに集中する。 「これは……」  少年は、自分の目を疑った。火傷の痕が無い。 「……どういった手品なんだ、これは」  混乱しながらも、自分の身に起こったことを信じられないで居る少年の頬をヨセフが撫でた。 「種も仕掛けも無いよ。ほら、ここも治っている」  本当に、火傷の痕跡は体のどこにも存在しなかった。 少年は真に生まれたままの姿をしていた。 つるりとした、滑らかで綺麗な肌で。 「手品ではないなら、どうやって治してくれたんだ?」  真紅の瞳を見開いて。ヨセフに訊ねる。 彼は悪戯っぽく、笑って、顔を近づけて囁いた。 「魔術だよ」 とても、魅力的な笑顔だった。 とても、魅力的な声だった。 少年の胸が、高鳴った。 この人は、自分が知っていない世界を知っている人だと思った。 「このバスタブに張ってあるのは、傷を癒すためのハーブを使った薬湯なんだ。本当は、何度も何日も浸かって、やっと効果が表れるものだけどね。この薬湯に、魔術を使って効能を劇的に強くしたんだ、ただ、全身の火傷痕を一気に治すには生半可な魔術じゃ駄目なんだ。そこで、効能を数秒間だけ更に強くした。君が僕に沈められている時にね、その可愛い顔は一番に治さなきゃならない所だからさ」  ヨセフは、治療の為に少年をバスタブの底へ沈めるような事をしたのだ。そのことが分かると、ややあって少年はしゅんとする。 「ごめん、怒ってしまって……とても酷い人かと思ってしまったから」 「あはは、いいよ。よく考えれば荒療治だったし、水中に突然沈められたら誰だって怒るんだろう?それに、猫かぶりを止めてくれてよかった」 「猫かぶってるの……ばれてたのか」  少年は途端に恥ずかしくなり、湯船に顎の辺りまで沈む。 「うちには猫は一匹でじゅうぶん。温まったら髪を乾かして切ろうか」  ヨセフはそう言って、バスタブから離れた。 着るものを用意してくるね、と言って浴室から出ていく。しんと静まった浴室に、暫くするとぶくぶくぶく、と水中で泡を出す音が響く。 「魔術……すごい、すごいな。本当に、魔術師って居るんだ」  驚きと興奮が、湯船の穏やかさと混じり合う。 温かくて、香りも良い、心地よい。 少年はまた眠たくなってきて、重たい瞼を下そうとする。 「温まったかな?」  その声にハッとして姿勢を正す。 鼻に水面が触れるか触れないかの所で、眠りに落ちるのを阻止できた。 いつの間にか浴室に戻ってきたヨセフが居る。 「温まった、久しぶりにゆっくり風呂に入った」 「それは良かった、入浴は人の心を落ち着かせてくれるし、美容にも健康にも良い。さあ、上がろうか」  湯から上がり、身体を拭かれてバスローブを着る。 ヨセフは少年の髪を乾かすのも魔術によって数秒でやってのけた。その鮮やかさに少年はまた驚いた。 そして、そのまま浴室で、椅子に腰かけて髪をバッサリと切った。 「身体はずっと売っていたのかい?」 「おおよそ3年前からだな」  じょきん、ちょきん、とヨセフはとても器用に髪を整えていく。 「君の年齢は、今いくつかな?」 「10才だ」 「若いね、まだ生まれたばかりみたいなものだ」  冗談めかしてヨセフが笑うので、少年もつられて笑った。 「君は、笑顔が素敵だね。猫をかぶっている表情も可愛かった、その後は感情を抑えているような表情をしていた、けれどこれからは自分に偽ることなくたくさん笑うと良いよ」  出会ってまだ少ししか接していない、見ず知らずの人間にそんな事を言われるとは思ってもみなかった。 客たちはいつも、酷い事しかしてこないからだ。 客でなくとも、スラムで出会う人はみんな少年に冷たかった。 スラムでなくとも、商店街に出て、なけなしのお金でパンを買おうとすると、パン屋の店主が「あっちへ行け、忌子め!」と怒鳴り散らした。 だが、ヨセフという人物からは悪意も敵意も感じない、そして、これから少年を抱こうと言う意思もあまり感じられない。 少年は思い切って、聞いてみる。 「あの……ヨセフさんは、俺を抱こうとは思わないのか?」 「抱く?抱きしめる?ああ、うん……君はとても華奢だね」  ヨセフは少年の細い身体を、そっと抱きしめた。 彼が放つ花の香りが強くなる、がすぐにそれは離れていく。 「そっちの抱くじゃなくて……その……性的な事で」 「それは、素晴らしく魅力的なお誘いだね。君をそういう意味で抱くことも、勿論検討しているよ」 「検討しているんだ……」 「でもね、僕は警察には捕まりたくないんだ、いくら警察が無能だとしても。それにね、子供の教育によろしくない。身体を売るという事は、魂をすり減らすという事なんだ。君は随分すり減らしながら生きてきたんだろう、大人にむき出しの欲望をぶつけられて。僕は、君から合意を得ない限り、君の嫌がる事はしないよ」  その言葉は、少年の心を救うには十分なものだった。 彼の思いやりは、とてもありがたい事だった。 少年は、身体を売って生きていかねばならない生き方が、大嫌いだった。 できれば、他の方法で生きていたかった。 でも、その方法しかなかった。 生きるために、仕方なく、その道を進んだ。 「どうしたんだい?」 「何が?」 「今、少し……泣きそうな顔をしていたからさ」  肩よりも下の位置で切った黒髪を、櫛でとかして、ヨセフはヘアアレンジをしていく。髪を右耳の方へ寄せて、三つ編みを施し赤いリボンを結ぶ。  泣きそうになったのは、貴方が真っ当な人間で良かったと思えたからだ。そして、もしかしたら、これからは善く生きていけると思ったからだ。 少年はそう言いたかったけれど、今ここで口を開いたら本当に泣いてしまうような気がした。 少年は、他人に自分の弱さを見せる事を極端に嫌っていた。 俺は弱くない。 強いんだ。 そうやって、自分に暗示をかけながら生きてきたから。 「できたよ、あとは服だね。サイズはピッタリだと思うよ」  白いシャツに、ヘアアレンジに用いた色と同じ赤のリボンタイ、ショートパンツにサスペンダー、薄手で長めのソックス。 そして……その全てを少年が身に着けるのを確認し終わると、ヨセフは大切そうに箱から靴を取り出した。 「僕はずっと昔、靴屋をしていたんだ。この靴は、君のために作ったんだよ」  ヨセフは遠い昔を懐かしむように、微笑する。 彼は跪いて、濃い茶色のローファーを椅子に腰かけている少年に履かせる。 ぴったりだった。 人が物を選んだのではなく、物が人を選んだかのように、それは少年の足にぴたりと馴染んだ。 「ありがとう」  感謝を述べたのは少年ではなく、ヨセフだった。 「君が生きて、僕と出逢えて……それはとても喜ばしいことだと思う、君ならば、僕を呪いから救う存在になってくれるんじゃないかと、真紅の瞳を見て思ったんだ」 「この目を?救う存在って……?」  ヨセフは立ち上がり、少年の真紅の瞳を見つめた。 少年も、ヨセフのアイスブルーの瞳を見つめた。 「ソティル……君は今、この瞬間からソティル・オッペンハイムと名乗るんだ。君の新しい名前だよ」 「……ソティル」  それは、孤独な少年の魂にそっと寄り添って暖かく溶け合う、美しい名前だった。 ソティルという名前の意味は、彼にはまだ分からなかったが、それがとても良いものだという、漠然とした幸福感があった。 「良い名前だ、ありがとう」  晴れやかな顔で、そう返すとヨセフは満足げに頷いた。 「さあ、ソティル。お腹が空いているんじゃあないかな?」  そう言えば、と意識するとソティルは空腹を覚え始める。今までは、お腹が空き過ぎて、どこであろうとも何も感じなかったのに。 「我が家の有能な家事使用人が、美味しくて胃もたれしないものを作ってくれている。さあ、リビングへ行こう」  ソティルは差し出された手を取った。 細く、しなやかな、美しい指先。 冷たくも、温かな感覚がする、不思議な魔力が籠った掌を。

ともだちにシェアしよう!