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第2夜 好意の視線

 マホガニー製の高級家具が目立つリビングに通される。 リビングとダイニング、そしてキッチンが一体となった空間だ。何か料理が出来上がっているような、美味しそうな香りが漂っている。 8脚ある椅子、それらが並んだ食卓用の長い机、どの家具も綺麗に磨かれ、持ち主たるヨセフの登場を待っているかのようだった。  立派な暖炉もあり、まだ少し寒い春先の空気を暖めてくれている。 暖炉のそばにはくつろぐ事に適したソファーもある、生地はおそらく滑らかそうなベルベットで温かみのある赤茶色だ。床にはこれまた高級そうで複雑な模様が描かれた絨緞。 いくつかある出窓にはレースのカーテンがかかっており、外はやはり庭のようだ。 「まあ、これはこれは……一段と見違えるようになりましたね」  食卓の机の傍に、年老いた女性が居た。 黒に近い紺色のロングワンピースにフリル付のエプロンを着けた人物、彼女がヨセフの言う家事使用人のようだ。 彼女は眼鏡越しに穏やかな微笑を浮かべている、笑うと眼尻と口元にしわが寄り人柄の良さを感じ取る。 白髪が混ざった髪は団子状に纏められて頭の上部に結われている、この部屋の家具達を思わせるマホガニー色の髪だった。纏めた髪には一本の刺繍入りリボンが飾られている。 瞳の色は蜂蜜を思わせる黄金色、それは、朝の光に輝いて見えた。 「お風呂と食事の支度をありがとう、チェルシー。改めて紹介しよう、彼はソティル。ちなみにこの名前は僕が名付けたんだよ」  風呂場で濡れてしまった服を着替え、貴族的な衣装に着替えたヨセフがソティルを紹介する。なんとも嬉しそうに、“ソティル”と名付けた名前を口にしている。 チェルシーと呼ばれた女性はスカートを軽く持ち上げ挨拶する。 使用人というよりも、どこかのお屋敷に住む貴婦人のようだ。 「チェルシーと申します、よろしくお願いいたします。それでは貴方様の事は……ソティルお坊ちゃんとお呼びいたしましょう」 「おぼっ……俺はそんなに偉い人間じゃないぞ」  ソティルは慌てて手を振るが、ヨセフはこう言う。 「お坊ちゃんか、良いじゃあないか。僕はこの家の旦那様だし、君は僕の息子なのだからそういう呼ばれ方をしても何も問題ないよ。ほら、、食事を摂るから席に着いて」 「その呼び方は……ちょっと恥ずかしい」  ヨセフが指示した席に座る、マホガニーの家具だからという理由でやけに緊張してその上お坊ちゃんという扱いに赤面する。 「旦那様はすぐに若い方をからかうのですから……」  チェルシーが品よく笑いながら給仕をしてくれる、その手つきはしなやかで、熟練されたものだった。 ソティルの前に、これまた高級そうな銀のスプーンが置かれた。これ一つで値段はいくらなのだろうか。ますます緊張してくる。 「ソティル、そう硬くならないでいいよ。テーブルマナーが分からなければ、教えてあげるからね」  目の前に座ったヨセフの気遣いに、ソティルは首を振った。 「いや、大丈夫……だと思う。貧民街で暮らす前は教会の孤児院に居て、基本的なテーブルマナーくらいだったら教えられている。神父様がマナーに厳しくて、礼節と教養を重んじる人だったから……もう、亡くなってしまったけれど」  ソティルが暗い表情をして、磨き抜かれた一片の曇りもない銀のスプーンを見つめる。 その表情に、ヨセフは問いかける。 と言ってもヨセフの頭の中でソティルの火傷痕と教会が結びつき、なんとなく察しはついていたが。 「どこの教会かな?」 「……3年前に焼け落ちた所だ」  それ以上聞かないでくれ。 ソティルは声には出さなかったが、そう言いたげに顔を上げてヨセフに薄暗い目線を送った。 彼はそれを受け取り、食事中する話題ではないと考えたのだろう、それ以上突っ込むことは無かった。 ソティルは視線を下した、チェルシーが朝食を運んできたからだ。 「さあ、ソティルお坊ちゃん。お料理を食べて、もっとお元気になってくださいね。質素ですが、パン粥とポタージュをご用意致しました」  まず出されたポタージュは茹でたじゃがいもを滑らかになるまで潰し、牛乳で伸ばして薄く味付し、バターと胡椒で風味をつけたものだ。次に出されたパン粥は、パンを千切ったものをトマトピューレや鶏肉で取った出汁で煮込んである。 どちらも病人だったソティルの痩せた胃袋を労わって、薄い味付けにしてある。 その素朴で優しい味わいの料理は、ソティルにとって久しぶりにありつけた御馳走だった。 「美味しい……」  染み渡るような美味しさに、瞳がうっすらと濡れてきてしまう。 ゆっくりと口の中で味わいながら瞼で涙を散らしていくと、チェルシーの優しい声が返ってくる。 「おかわりも御座いますよ、お腹いっぱいになるまで食べて下さいね」  優しそうな人だ、とソティルは喉の奥にポタージュと涙声を流し込む。 こんなに穏やかに食事をしたのは、いつぶりだろうか。 「ソティルお坊ちゃん、美味しいですか?」 「……はい」 「お口に合って良かったです。ああ、でも食べ過ぎはいけませんよ、ソティルお坊ちゃん。胃袋が吃驚してしまいますから」  何の悪気もなくチェルシーがお坊ちゃんと呼ぶので、ソティルはもう反論するのは止めた。 前の席で自分と同じものを食べているヨセフに訊ねる。 「ヨセフさんは、医者なのか?薬学的な知識もあったし」 「ヨセフ“さん”だなんて、よしてくれるかな?これからは家族なんだから、パパとかお父さんって呼ぶか、それが呼びにくかったらヨセフって呼び捨てにしてくれても構わないよ」  ヨセフは本当にソティルの事を家族として認識している。その対応にちょっとむず痒くなったソティルは視線を下げた。 「うん、なら……ヨセフと呼ぶ。それで、職業は……靴屋をしていたとも言っていたけれど」 「お医者さんというのは大当たりだよ、自分で言うのもはばかられるけれど、なかなかの名医というやつだね」  ヨセフがかっこつけてそう言うので、ソティルは訝しげな目で見てしまいそうになる。 普通、名医が名医ですと名乗ることなどあるだろうか?だが、恐らくあの魔術の効能から見て、ヨセフが深い知識と技術を持った人間であることは間違いなかった。 「おや?その目は疑っているのかな?だったら、僕が勤務する病院に来てみると良い、皆が僕を評価してくれるだろうさ」 「病院に特に用もないのに子連れで行ってもいいのか?」 「勿論だよ、幼い子供を抱えているスタッフの為に託児所もあるし、僕の病院は誰が来ても歓迎するよ。いや、歓迎という表現はおかしいかもしれないね……とにかく、誰にでも開かれた病院なんだよ」  開かれた病院、と聞いて何となく明るさと風通しの良さを感じ取った。 ヨセフが良いと言うなら行ってみよう、とソティルは思う。 それに……と少し思考を続ける、気難しそうな表情になりながら。 「俺の看病は、ヨセフとチェルシーさんがやってくれていたんだよな?」  チェルシーは水差しに入った水をコップに注いで、ヨセフとソティルの前に置いた。 「ええ、左様で御座いますが……旦那様が率先して看病なさっておりましたよ、それはもう3日間つきっきりで」 「3日間つきっきりでということは、3日も仕事を休んで?」  ヨセフはもぐもぐと軽くパン粥を咀嚼して、何でもないような顔をしながら頷いた。 ソティルは思わず、唸りそうになる。 「もしかして、職場の人に迷惑がかかるんじゃないのか?」 「うーん、考えてみればそうかもしれないね」 「どうして他人事みたいに言うんだ?」  僕のことは気にしないで、ちゃんと食べて、とヨセフがソティルを促す。 ソティルは脱力しかけていたが、ゆっくり味わう事を止めて少しペースを速めて食べる。 「今日は職場に行くんだよな?」 「うん、ソティルの体調が良くなったからね」 「俺、ついていくよ。それで病院の人たちにヨセフが休んでいたのは俺のせいだって伝える」  ヨセフは銀のスプーンを持つ手を止めて、不思議そうにソティルを見つめていた。 「……どうして、そんな事を言うのかな?」  首をかしげてそう問う。そこには疑問と好奇心が籠った、アイスブルーの瞳がある。 ソティルはヨセフの目をまっすぐに見て、伝える。 「どうしてって、それは……お医者さんが急に休んだらその日に診察を受けたくて病院に来た患者さんが困るだろう?」 「他の医者が僕の欠勤を穴埋めしてくれるよ」 「そうかもしれないけれど、ヨセフは名医なんだろう?名医に診てもらいたくて病院に来る人は沢山居るんじゃないか?」  ふーむ、とヨセフは思慮深そうに、そして、ソティルの事をどこか愛おしそうに見つめていた。 「君は、真っ当な人間なんだね」  ふんわりと柔らかくヨセフが笑う。人の心を掴んで離さないような表情だ。 そのかんばせに、勿論ソティルはどきりとしたが、少しぶっきら棒に返事を返してしまった。 「それは……どうも」 「うんうん、そういう真っ直ぐな人間は好きだな、僕は。ソティルと出逢えてよかったよ」  ソティルは数秒前、ぶっきら棒に返事を返したことを後悔した。 こんなふうに優しい言葉をかけられるなんて、思ってもみなかった。 「……俺も、ヨセフに出逢えてよかったと思ってる。それに、チェルシーさんにも」  その言葉を聞いてヨセフは満足げに、チェルシーも嬉しそうに笑った。 「ふふっ、食事を終えたらさっそく職場へ行こう。チェルシー、僕たち二人分の昼食を用意してくれるかな?」 「かしこまりました、旦那様。サンドイッチをご用意いたします」  優雅に去って行くチェルシーの後姿を見ながら、ソティルはスプーンを傾けた。  ソティルは家を出る前に、リビングにて肩に掛けられる鞄をチェルシーから与えられた。 清潔なハンカチ、手鏡、ハンドクリームと絆創膏、まだ何も記入されていない手帳と筆記具、小腹が空いたら食べる用の小さなポーチに入ったキャンディ。 10才の少年の鞄の中身というより、女性的な配慮がされた鞄の中身だ。 ソティルはありがたく頂いて、ヨセフと共に玄関に移動した。正直に言うと、本当はこの家の構造をよく見ておきたかった、目に入る物全てが高級そうな貴族の屋敷めいたこの家を。だがそれは、帰宅してからになるだろう。  チェルシーは玄関でサンドイッチの詰まった紙袋をソティルに渡した、ヨセフがサンドイッチの中身を聞くと、食べてからのお楽しみですよと上品に笑った。 「旦那様、ソティルお坊ちゃん、いってらっしゃいませ。お気を付けて」  うやうやしく見送るチェルシーに、行ってきますと言ってソティルとヨセフは外に出る。 ソティルは家の全体像を見るべく、振り向いた。 「……ん?」  ソティルはどういう事だろうか、という顔をする。 辺りを見回して、確認する。ここはどう見ても中流階級向けの古いアパルトマンが集合する場所だ。 集合住宅特有の年季の入った建物が均一に並ぶ美しい風景ではある。  ソティルがかつて居た貧民街よりもだいぶマシな治安ではあるが、夜更けに出歩いたら身の危険を感じる場合もあるだろうし、盗難も度々起こるであろう地区だ。 光りがさんさんと差し込む、あの貴族が暮らすお屋敷のような場所はどう見ても見つからない……とソティルは疑問だらけになる。  ソティルがそんな顔をしているので、ヨセフはそれを少しだけ可笑しそうに笑っていた。 ヨセフにはこの手品を超えている現象の説明ができるのだろう。 「種も仕掛けもないんだよ。君にはまだこれを理解することは難しいだろうね」 「ということは、これも魔術なんだな。凄いな……高級住宅街の一軒家に住んでいるのかと思った」 「玄関の扉はこことは別の場所に繋げてあるんだ。確かに高級住宅街に住むのも良いかもしれないけれど、土地代も家賃も高い。それにああいう所はご近所付き合いがドロドロしている。育ちは良いけれど他人の不幸を話しのネタにしがちな人達の噂話にされるよりかは、こういう近所付き合いも少なめな場所でひっそりと暮らす方が性に合っているんだ」  なるほど、と生々しい事情を聞いて深く納得してしまう。 人は噂話や在りもしないものを時に信じ込んでしまう。 赤い瞳の色が忌子の証であり、その目を持つ者は呪いを振りまく存在である。そんな伝承があるこの国で、ソティルは噂話や陰口にうんざりしていた。  ソティルは隣にいるヨセフを見上げてみる。 もしかすると、ヨセフもそういった噂や陰口で悩んできた人間なのかもしれない。 そう例えば、魔術について思い当たる。 「ヨセフは医者だけれど、魔術師でもあるんだよな?」  彼はソティルの小さな手を自分の手で包んで握り、歩き出す。手のひらはほんのりと冷たいのに、どこか温もりが感じられる不思議な手だ。 「そうだよ、いろんな魔術を使いこなしているけれど、医学的な魔術が一番得意だね。今現在の医療では治せない症状を魔術で治してきたんだ」 「ああ……だから、名医なのか」 「おやおや、ちょっとだけ失礼な言い方だね。ちゃんと医療知識は国内随一だと言えるし、技術も素晴らしいものだよ。特に専門の科を決めずに、いろんな患者さんを診ているんだ。名医の僕でも学ぶべきことはまだまだ沢山ある、医療は日々進化していくからね」  2人はアパルトマンがひしめく道から大通りに出た。ここは首都の東地区だろうか、とソティルが周囲を観察する。 アパルトマンが密集する場所と、活気のある商店街や広場がある地域だ。広場ではよく蚤の市や、食べ歩きの露店や青果店などの屋台が出るマルシェが開かれる。 港からは少し遠いが、風に乗って潮の香りがする。主要な駅からも近く、時折線路を走る列車の音が聞こえてくる。人が多い時間帯はハイテクな自動車も自動二輪車も、時代遅れと言われる馬車も通ることを禁止されている。  老若男女様々な人物が街を歩いている、これから職場へ行くせっかちそうな男性や、焼き立てのバゲットやクロワッサンを紙袋からはみ出させて歩くふくよかな女性、派手な色をしたジャケットを羽織り広場でパントマイムをする芸人、それを見ている仲睦まじい老夫婦や、学生服を着てはしゃぎながら走って行くソティルと同年代の子供達。  ソティルは注意深く周りを観察しながら歩いていたが、ここがどんな場所なのかを把握し終えるとなるべく顔を伏せて歩くようになった。 「ソティル?ちゃんと前を見て歩かないと危ないよ?」  ヨセフはソティルの様子に気づいて立ち止まる、でも……と言いよどむソティルに視線を合わせるためしゃがんだ。彼の瞳を見て、すぐに把握する。 「人の視線が怖いのかな?ソティルの瞳はこんなにも綺麗なのに、怖がる人も居るから」 「怖がる人の方が圧倒的に多いよ……俺の瞳をそんなふうにありがたい物みたいに見てきたのは、ヨセフが初めてだ」  ヨセフは両手でソティルの頬をそっと包んで、瞳の中までじっと見つめる。 見つめられて、ソティルはたじろぎそうになった。だが、あまりにも真剣な眼差しなので、見つめられるがままになってしまった。 「医学的には先天性白皮症、動物学において遺伝子疾患を持つアルビノと呼びたいところだけれど……ああ、つまりは先天的にメラニンという色素が無い状態で生まれてくる人は体の色素が薄い。体毛は白金や金髪、肌は乳白色、そして虹彩は淡青色や淡褐色、あるいは、瞳の血液の色が透けて見えると君の様に赤色になる」  ソティルは少しの間沈黙していた、ヨセフの話が理解できなかったわけではない、ソティル本人も自分の瞳の色について調べるために本を読み漁った経験がある。 「俺の瞳は先天性白皮症の赤色だけれど……髪は黒だ、それに肌の色も薄いとは思うけど一般の範囲内だと思う。色素が足りなくて視力が弱いとか光を眩しく感じるとかもないし、路上で太陽光を浴びても肌が痛くなったりはしない。ちょっと皮膚は弱いかもしれないけど、それは多分、普通に体質的問題だ」  ヨセフは何の前触れもなく、ソティルの頬をむにむにと揉みだした。痛くない程度に表情筋を柔らかくするようなマッサージの様に。 ソティルは勿論驚いたが、目の前の存在も少年の言葉に驚いていた。 「もしかすると、僕のさっきの医学的説明は必要なかった?ソティルは自分が疾患を持って生まれたわけじゃないと理解しているのかな?」 「う……うん、自分の目の事を本で調べて……ところで、なんで頬を揉んでるんだ?」  ヨセフは驚いた顔から一転して、とても楽しそうな顔をしながら頬を弄り続ける。 「なるほど……ふふふ、君は勤勉なんだね。知的好奇心や探究心のある子は素晴らしい」 「ヨセフの髪は白銀だし……瞳はブルーだ、肌の色も薄めに見えるけど。こうして日差しの中に居ても眩しそうな感じはしないから、先天性白皮症ではないのか?」 「あー……これはねー」  ヨセフは遠い眼をして顔を上げた、遠い記憶でも思い出すかのような表情だ。 「長年の蓄積されたストレスによるダメージが毛髪に繋がった結果……つまり、白髪なんだよ」  ストレスなんて溜まらなさそうな人間に見えるのに、という言葉をソティルは飲みこむ。 人は見かけによらないものだ、麗人は大らかに見えてその実とても繊細な神経をしているのかもしれない。 だがこれなら聞いてみても良いだろう、とソティルは気になっている事を口に出す。 「ヨセフの年齢は幾つなんだ?」 「……秘密だよ。秘密を持っている人間は魅力的だからね」  確かにヨセフは魅力に満ち溢れた人間だが、ソティルは何だかはぐらかされた気がしてならなかった。ヨセフはソティルの顔を揉みしだいていた掌を離した。 「さあ、ソティル。顔を上げるんだ、君は凛々しく美しい。僕の自慢の息子なのだから」  自慢の息子。 ヨセフがそう言うと、本当にそうなのだと思ってしまう自分が居た。この人とは出逢ってまだ間もないのに。 ヨセフの言葉には魔術めいた力があるのかもしれない、と考えながらソティルは顔を上げて歩き出した。  活気のある地域を抜けると、少しずつ人気が薄れていく。街の匂いは森の匂いに近づく。 「街中ではなく森の中に病院があるのか?」  目に見える建物はまばらになり、木々が生い茂り始める。まるで森のようだが、道は綺麗に舗装されており人が歩くにも馬車が走るにも適した広さだ。建物の多い首都にこんな場所があったことをソティルは知らなかった。 「うん、ウチは訳ありな患者さんでも受け入れるから、街中にあると都合が悪い時があってね。患者さんの足が悪ければ病院から公共交通機関を手配するし、僕は定期的に院外へ診察に行っている。それに、街よりも森の中の方が患者さんも落ち着ける」  そして、2人は辿り着いた。 ソティルは立派な建物を見上げる、5階建てで、外壁は森に溶け込むかのような深い緑色、光を取り込むためか窓が多い。まるで、これこそ貴族の屋敷だ……と思いながら傍にあった病院名の書かれた看板の文字を見る。 「……オッペンハイム医院。内科、外科、婦人科、精神科、小児科、皮膚科、耳鼻科。検査機関併設。当院では、院内処方及び夜間診療は行っておりませ……ん?オッペンハイム!?」 「我が医院へようこそ、我が息子よ!院長先生のドクター・オッペンハイムだよ、よろしくね」  ばっちりとウィンクを決めて、ヨセフはまたソティルの手を引いて従業員用出入り口に向けて歩き出した。唖然としかけながらも、ソティルは歩く。 「凄い人に拾われたんだな、俺は……あ、病院の中で手を繋ぐのは止めてくれ、恥ずかしいから」  ヨセフはややしょんぼりとしたが、手を離してくれた。  まさか病院の院長とは思ってもみなかった。 これからこの人の息子であると、この人の部下たちに知らされるのか……と思うとソティルはやや羞恥を覚えた。美貌と知性を備えた院長の養子が、こんなやせっぽっちの元娼夫だと思うと。  客とベッドでする事に対しての羞恥はとうの昔に消えてしまったが、世間体を気にする気持ちは残っているようだった、残っているだけマシだとは思えた。  ヨセフとソティルは従業員用出入り口の扉から、院内に入った。 静かに囁くような声と、誰々さん2番の診察室へどうぞーという看護師の声。病院特有の消毒液の匂いが漂っている。 1階の外来を通り抜けようとすると、受付の女性や一部の患者が「あら、院長先生だ」とヨセフに気付く。 ヨセフはひらひらと手を振って「やあ、また後でね」と笑顔を返して颯爽と歩き続ける、ソティルはヨセフについていく前にとりあえず受付の人間に会釈しておいた。 「まずは看護師たちに会いに行こう、ナースステーションに行くよ。男女比率が偏っていないとはいえ、院内を動き回る女性陣に伝えておけば、いい感じに情報が伝わるはずだ」  そう言って、ヨセフは廊下を進む。 外来の待合室には患者もスタッフもいたが、廊下には人気がない、まだ早い時間だからだろうか。  ソティルは初めて訪れた病院の壁を見る、定期健診やワクチン接種を呼びかけるポスターが貼ってある。 面白おかしく食生活指導をするようなイラストのポスターもある、思わず立ち止まりたくなるポップなデザインだった。 「……あっ」  ヨセフが不意に、小さく声を漏らした。 何か忘れてたことを、ふと思い出したかのような。 ソティルは彼の視線の先を見る。廊下の曲がり角から、一人の男性が現れたところだった。 長身で体躯が良く、清潔そうでぱりっとした白衣を着て、カルテを持っている。という事は、彼はヨセフの部下である医者なのだろう、とソティルは医師をじっと見つめた。  カルテに目を落としながら廊下を進む医師は、視線に気づいたのか顔を上げ、こちらを見た。 栗毛色の髪で、顔の彫りが深く眼鏡をかけている、太い眉毛が彼には厳しさがあると表現しているように見えた。 彼は、遠目から見ても分かるほどに表情を歪めた。 カルテを廊下に投げ捨てて、こちらに向かってくる。 長い足を俊敏に動かし、物凄いスピードで走り、激怒の表情で睨んでくる。 「あああああー!!」  廊下ではお静かに、走る場合でもお静かに。と書かれたポスターの傍を男性医師は叫びながら駆けている。 ソティルがその豹変に驚き、目を見開いてヨセフの方へ顔を向ける。 美しい顔が「あちゃー」と何かやらかしたようなことを示唆する、小さな悪戯を叱られた子供のようだ。 その間にも男性はどんどん近づいてくる。 「ヨーセーフーオッペンーハイムー!!!!」  男性医師の跳び蹴りが、ヨセフの腹にクリティカルヒットする。 とても綺麗な動きで蹴っていたので、ソティルは思わず見とれてしまう。勿論、見とれている場合ではないのだが。 白い麗人は潰された様な声を上げながらふっとばされた。ヨセフは受け身を取って廊下に転がり、立ち上がろうとする。 しかし、つかつかと歩み寄ってきた男性医師にそれを阻まれる。 彼に馬乗りになった男性医師に、罵倒される。 「ヨセフ・オッペンハイム!貴様!仕事を放り出すとは何様のつもりだ!貴様の安易な行動で迷惑をこうむるのは誰だと思っている!そうだ、俺達部下だぞ!貴様が3日も無断で休んだために溜まった書類に目を通したのも、貴様に診てもらいたいが為に予約して来院した患者を宥めたのも、俺達がやったんだぞ!貴様にしか処置できん急患が来たらどうする!なーにが、“僕は国で最も優秀なお医者さんなんだよ“だ!この、ふにゃふにゃ優男!まっしろしろすけ!」  男性医師はヨセフの肩を持って、がくがく揺さぶりながらここ3日分の鬱憤を晴らす様にヨセフを叱りつける。 止めなくては、ヨセフが仕事を欠勤したのは俺のせいなのだから、と慌てながらもソティルが動いた。 「あの!ドクター!」  まだ罵倒を続けようとする男性医師に近づいて、ソティルが声を上げる。 「ん?なんだ君は?」  男の眼は鋭いままだ、眼鏡の奥で手術刀のように光っている。その威圧感にうろたえそうになったが、口を開く。 「俺は……ソティルと言います。貴方が跳び蹴りをした後、肩を揺さぶりながら罵倒している男性の息子です。俺、3日間ずっと熱を出して寝込んでいて、父がつきっきりで看病してくれていたんです。休んでいたのは俺のせいなので……跳び蹴りと罵倒を父にするんだったら、俺にもしてください」  ソティルは目の前の惨状にどうしようかと思っていたが、不安を表に出すことなく10才の子供にしてはきちんとした説明を怒り狂う成人男性に対して施した。とはいえ、混乱でおかしな事を口走ったが。 男性医師はソティルの話を聞いて、黙り、そして、手術刀のような鋭い目つきを止めて、目を丸くしている。 「息子」  呆けた声だった、ヨセフを揺さぶっていた手はとうに離れている。 「はい、養子ですが」  ソティルが答えると、今度はヨセフの方を向いて、冷や汗を垂らしながら困惑し、もう一度言う。 「……息子」  その単語の響きには、上司が突然養子を取り職場へと連れてきた事への混乱というよりも、もっと別の、ソティルには読み取れない感情の揺れがあった。 「うん、息子。可愛いだろう、凛々しいだろう?貧民街で死にかけていたのを拾ったんだ」  あっけらかんとヨセフが言って、男性医師は力の抜けた様子で、ヨセフの上からどいて立ち上がり、顔を俯かせて彼を見つめる。 何かを考えているのか、少しの間奥歯を噛みしめていた。 「何故、もっと早く言わない?」 「君が突然、僕のお腹に渾身の一撃をお見舞いしてくれたから」 「違う、そうじゃない……いや、実際に蹴り飛ばしたんだが、休むなら連絡を入れろ」  男性医師の主張はもっともだった、今現在の様子に感情の大きな揺れはない。 ヨセフは満面の笑みで謝った。 「ごめーん」 「謝る気はあるのか?」 「いいや、全くないよ。君だって、愛娘が病に伏せたら、仕事を放り出して彼女の看病をするだろうさ」  男性医師は言い返す言葉もなく、溜息をついてからヨセフに手を差し出した。 ヨセフは手を取り、立ち上がる。 「……悪かったな、ヨセフ。事情を知らず、怒鳴り散らして。それも、お前の子供の前で」 「いいんだよ、僕の事を正当な理由で叱ってくれる人はあまりにも少ないからね。それに、僕は君のこういう愚直すぎる真面目さが好ましいと思っているんだ。あと、蹴りが見事に決まって素晴らしい」 「人たらしめ」  男性医師はそこで初めて笑った、それは友人に向ける気の抜けた炭酸水のような笑顔だった。 彼はソティルに目を向けると、片膝をついてしゃがむ。 「ソティルと言ったな、驚かせてすまなかった」 「もとはと言えば、病人だった俺が悪いんですからドクターのした事は……過激だけど、悪くはないです」 「この男の息子にするには、勿体ない程に賢そうで良い子だな。ああ、名乗り遅れたな、俺はレオンハルト・ダールマン、この病院で外科医をしている」  レオンハルトと名乗った男の顔をソティルはじっと観察した。 歳は30代半ばくらいだと思う。栗毛色の髪と、髪色に近いブラウンの瞳、表情はまだきつく見える。笑顔で居るよりも眉間にしわを寄せて仕事をしている方が似合いそうな真面目な人物に見える。 間違っても俺のような子供を買って、性欲の処理をするような人には見えない。とソティルは思う。 「3日間寝込んでいたと聞いたが、顔色は良いな」  レオンハルトの声は低い、重みと深みのある声だ。怒鳴っている時の迫力は衝撃的だったが、普通に話してみると落ち着いた声音である。 彼はソティルに握手を求めた。 ソティルはレオンハルトが差し出した大きな手をおずおずと握り返す、皮膚は固く爪は短い、ごつごつとした感覚がソティルの小さな手に伝わる。 ヨセフの女性的でしなやかな手とは大違いだ。 ソティルは彼に一つ訊ねた。 「俺の眼を見ても、何か思わないんですか?」 「ん?ああ、真紅の瞳はこの国では不吉とされているが、随分バカげた伝承だな。しかし……どう見てもソティルは先天性白皮症には見えない、君は日の光には弱いか?日の光を浴びて眩しすぎると感じることは無いか?」  医者らしく問診をするように、ソティルに訊ねてくる。 「ヨセフ……あ、父に拾われる前まで、ずっと薄暗い貧民街に居たので、光の弱い場所の方が落ち着きますけど、光に弱い体質ではないです、視力も弱くないし肌質も一般的な人のそれと変わりません。先天性白皮症ではないのに、瞳の色が赤色だなんて……自分の事をずっとおかしいものだと思っているんです」  レオンハルトは先ほどから、ソティルの言動を聞いて違和感ばかりを覚える。 いい意味での違和感ではあった。 「本当に君は頭が良さそうだな。先天性白皮症であれば、日光に弱いし視力も低いはずだ、それに肌質も良好となると……ソティルは特別な人間なのかもしれないな」  おおー、と機嫌良さそうな声を上げてヨセフが二人の顔を覗き込む。 「これで君の瞳をありがたいもののように見る人間は、二人になったね」  レオンハルトはちらりとヨセフの方を向いて、もう一度ソティルに向き直る。 「噂やら伝承やらを信じる人間は沢山いる、それで救われる人間もな。だが俺やヨセフの様に、それらに囚われずに生きていける人間もいる。ソティルは前者ではなく後者を選んで関わって行けばいい。この世はそう簡単には変わらんものだが、運や努力次第では、自分自身や周りの人間位なら変える事が出来るだろう」 「……はい、父に出逢って、その感覚はとても実感しました」 「それは良かったな、ソティル。お前は随分しっかりしているよ、このふにゃふにゃでお人好し優男の事を頼むぞ」  小さな肩を大きな手が包み込むように叩いて、レオンハルトが立ち上がる。 「ヨセフ、3日間溜め込んだ仕事はキッチリやるように!」  びしっと指を差してまるで自分が上司であるかのように指示を出し、自分が投げ捨ててしまったカルテを拾って仕事に戻って行った。 ソティルはその背中と歩き方を見て、どこか違和感を覚える。 もしかしたら足が悪いのかもしれない、足が悪いというのにあの機敏な動きと的確な跳び蹴りは驚いたが見事なものだったと思う。ヨセフが見事だと褒めるのも分かる。 「いい人だ」 「うん、彼が子供の頃から僕らは友人でね、長い付き合いになるんだ。時折僕に対してあんなふうに乱暴になるけれど、それは彼なりの真面目さや正義感があってしている事だし、憎めない友達なんだよ」  ヨセフは穏やかに、そして無邪気に笑う。 二人はきっと見えないもので結ばれているのだろうと思うと、ソティルは二人の関係性が少し羨ましくなった。 俺にもそんな友達が居たらいいのに、と思うが、身体を売って魂をすり減らしてきた汚れた自分に、そんな友達ができるのだろうかと不安になる。 「幼くて、弱々しくて、死と隣合わせの戦場に居た彼が、女性と恋に落ちて、今では可愛い娘までいる……時間というものは残酷だ」  ソティルの頭上から発された独り言は少し寂しげだった。 けれど、見上げた顔にはもう寂しさなんて微塵も感じなかった。 「さあ、ソティル。今度こそナースステーションに行こう。僕の美貌と君の可愛らしさを見て、看護師たちが性別問わず黄色い声を上げてくれるよ」  ヨセフはソティルを可愛いと表現するが、ソティルはどうもその表現が苦手だった。 確かに今現在は、火傷が治り可愛い顔立ちをしていると思うが、ソティルはもう少し筋肉を付けて背を伸ばして男らしくなりたかった。 しかし、ヨセフの様に中性的な美貌で生きていくのも良いのかもしれない。 仕草も表情も声も、全てが魅力的にとらえられるヨセフはソティルにとって、もうすでに目指そうとする道になりつつあった。  ヨセフはナースステーションのすぐ傍まで来ると、ソティルを背後に待たせて開け放たれた扉から、ひょっこりと顔だけを出した。 とろけるような表情と声で、室内にいる看護師に挨拶する。 「やあ、おはよう皆」 「きゃっ……い……院長先生!おはようございます」  きゃっ、と短く声を上げた若い男性看護師が、他の看護師達にも医院長の来訪を知らせる。 やや驚きながらもヨセフの訪問を喜ぶ声が、いくつも上がる。 「3日も休んでしまってごめんね?色々と大変だったかな?その点については謝るよ、それから、僕の子も謝ってくれるって」  ヨセフはソティルの手を取って、ナースステーションに入る。 自分の前に息子を立たせて、小さな両肩に手を置く。 女性の看護師たちが、見知らぬ少年を見つめる。同じように、なんだなんだと男性看護師も見つめる。 「ソティルと言います。ソティル・オッペンハイムです。父がいつもお世話になっています。父が3日も仕事を欠勤したのは、俺が熱を出して寝込んでいたのをずっと看病していたせいです……だから、父は、悪く……ない、ので?」  ソティルは違和感で言葉を詰まらせた。 看護師たちは、とりわけ女性陣はしんとして、麗しの院長先生が連れてきた息子とやらを観察していた。 その視線はどことなく熱っぽく、例えるならばふわふわな子猫を見つめるときのそれによく似ている。  美少年。 ぼそり、とそう誰かが呟いた。 男女共に全員が頷く。 美少年と美青年。 と、また誰かが呟いた。 激しく頷く者もいれば、天を仰ぐ者もいる。 両手で顔を覆う者もいれば、奇声に近い声を上げる者までいた。オーバーリアクションなのは女性陣だが、男性陣は達観した目で見る者も女性陣に近い表情をする者もいた。  混乱するソティルの前に、一人の看護師が歩み寄る。 彼女は輝かんばかりの希望と、どことなくソティルの知らない種類の欲望の籠った瞳をキラキラと輝かせている。他の女性看護師たちも同様だ。 「ありがとう、ソティル君!」  彼女はソティルの顔を見つめて、とても嬉しそうに言い放った。 「え?何がですか?」  存在に感謝!尊い!生きててよかった……!今日仕事に出て良かった!などという声が看護師たちから上がる。混乱したままのソティルを宥めるように、ヨセフが彼の頭を撫でしゃがんで視線を合わせる。 「皆、君の事を歓迎してくれているんだよ。よかったね、ソティル」 「う……うん、皆さん、こちらこそ、ありがとうございます」  ソティルは目の前の看護師と、彼女の背後に居る看護師たちに礼を言った。だが正直、なぜそこまで歓迎してくれているのかは分からなかった。 とりあえず、瞳の色のせいで、煙たがられたり怖がられたりするよりも、はるかに良い対応を取ってくれた。彼女たちは自分を見て、純粋に小動物を可愛がるように愛でるべき存在なのだと認識したのだ、敵対するような人たちではない。 そうソティルは結論を出した。  ソティルの思考はあながち間違ってはいないが、彼は今まで男に抱かれて生きてきたので女性が持つ欲望には疎かった。 彼女たちは純粋に腐っていた。 オッペンハイム医院に在職している女性看護師のほとんどが、男性同士の恋愛や性交渉のある関係性を描いたフィクションを好む事を、ソティルはまだ知らない。 そういった作品がある事さえも、知識に無い。 ソティルが男娼として今まで暮していた、などという情報を彼女たちに与えてしまったら、軽蔑するどころか餌を与えられた犬の様に喜んでしまうし、どんなことをしてきたのか、どんなことをされたのか、そこに快感があったのか、と質問攻めにされてしまうだろう。 看護師の中には男性同士の恋愛をテーマに創作活動に勤しむ者もいた、ソティルが娼夫であることを明かしたらすぐに創作活動のネタにされてしまう。 「皆、ソティルはちょっと色々と訳ありだから、質問攻めにするのはやめてね?」  ヨセフは彼女たちの趣味に割り切った感情で向き合っていた。 自分は見目麗しいし、恐らく彼女たちの妄想の道具になっているだろう、と彼は思っている。 誰と、どうやって組み合わされていても、それは看護師たちの脳内の話だ。脳内ではなく、文字情報としてアウトプットされた創作小説を偶然にも目にしてしまった事もあったが、僕は何も見なかった、という顔をして仕事に戻った。 だが、ちょっと……その作品は良く書けていると思えた、当人でなければ読んでいたかもしれない。 でも、一応見て見ぬふりをした。 そうやって、割り切って、優しいことに彼女たちの趣味に気付いていないフリをしている。  そもそも面接での採用基準が、探求心が強く、より良いものを追い求めることができる人間と定めた結果だ。患者のために自分の知識や価値観を更新してゆける人間、その為の好奇心や探求心。だが結果として、追い求める側面が強く男性同士のあれこれが好きな女性が集まってしまっただけだ。 類は友を呼ぶが、その嗜癖は布教されていったようで、そういった事の知識が無かった人々も今では立派に嗜んでいる。  彼女たちにやましい感情はあっても、悪意はないけれど……と、ヨセフはソティルを見つめる。 この子はとても聡い子だから、いずれは気付いてしまうだろう。 自分が男だけではなく女にまで性的に消費される存在なのだと気付いてしまったら、ショックを受けてしまうかもしれない。そう思い、看護師たちに笑顔で釘を刺しておくのだ。 「どうしたんだ?」  ソティルはヨセフの視線の中にある感情を読み取ろうとしていた。どこか悩んでいるかのようなヨセフに気付いたのだ。ヨセフ本人はいつも通りの穏やかで美しい表情をしていたというのにもかかわらず。 ヨセフは表情を切り替えて、ソティルを見つめ返した。 「身体測定と検査をしよう、ソティルをここへ連れてきたのは、君がこうして謝罪をしたかったからでもあるけれど、僕の方ではどのくらいの身長と体重なのかを把握しておきたくてね。あと、視力、聴覚、血液検査、今日はラボも空いてそうだし、検査結果はすぐ出せるだろう」  そう言って、ヨセフは看護師たちに指示を出す。 皆仕事に戻って、手の空いている人はソティルの身体測定と検査をしてくれる?という指示で、辺りがざわつく。女性看護師たちは愛くるしい美少年の身体測定の座を勝ち取るべく、くじ引きを始めた。 わいわい騒ぐ彼女達を遠目で見るソティルに、ヨセフはそっと耳打ちする。 「……噂好きの人も居るから、前職の事は秘密だよ?」 「秘密を持っている人間は魅力的だからな」 「おやおや、素敵な台詞だね。どこの詩や小説からの引用かな?」 「身近にロマンチックな人間が居るからな」 「へえ、その人とは話が弾みそうだ、今度紹介してくれるかな?」  ひそひそ話の中でヨセフは妖艶に笑みを深めて、ソティルは少し得意げな表情になる。 楽しげな親子のようで、どこか自分たちには踏み込めない甘い秘密と関係性を持っているかのような二人の様子を、じっと目に焼き付ける沢山の瞳。 2人の会話は聞こえないものの、2人の表情や仕草や視線のやり取りだけで、じゅうぶんお腹いっぱいになった顔になる。  やがて、くじ引きで勝利を勝ち取った看護師がソティル達に駆け寄る。ソティルの手を握ってありがとう、と言った女性だった。 彼女はきっと自分で運を引き寄せたのだろう。 「ソティル君、私が案内するね」  快活そうな表情で、彼女はソティルと視線を合わせた。彼女はきらきらと光る瞳を、目の前の子どもに興味津々で向けている。 「よろしくお願いします」 「よろこんでー!あ、そういえば……院長先生、ダールマン先生がものすごい顔で怒っていましたよ。3日も欠勤するとは、何様のつもりだーって」  看護師はレオンハルトの険しい表情と低い声音を真似する。 顔をぐわっと険しくして、目を吊り上げて、喉の奥から声を出していた。 その様子に、ヨセフは眉を下げて笑った。 「うん、さっき彼には出会いがしらに酷い仕打ちを受けてね、もう……僕には乱暴なんだから。これから仕事に取り掛かるよ、息子の面倒は頼んだからね。ソティルは測定と検査が終わったら、院長室か内科の方へ来てほしい、僕は今日その辺りに居るだろうからね。もし、僕が忙しそうだったらレオンハルトの方に行ってもいい、彼は厳しい人だけど子供は好きなんだよ」 「分かった、仕事を頑張ってくれ」  ヨセフはソティルの顔に触れて、右目の近くにキスを落とす。あまりにも不意打ちで、しかも人前でされたことにソティルはどきりとした。 当然、一部始終を見ている看護師たちも、その様子は眼球と脳内に強烈に焼きついた。 「行ってきます、良い子にしていてね……と、言われなくてもソティルはじゅうぶんに良い子だけどね。看護師諸君もここで僕たちを観察して油を売っていると叱られるよ……ダールマン先生にね」  それでは、と手をひらひらと振りながら、ヨセフは立ち去って行く。 白衣と白銀の髪がなびいて、颯爽とした歩き方だった。 「ねえ、ソティル君」 「何ですか?」  ヨセフの背中を見つめる2人は、それぞれ思う。 白衣と髪をなびかせて颯爽と歩くと、ヨセフは美しいだけじゃなくて格好いいんだな……と思うソティル。 自分の勤める病院の、年齢不詳超絶美青年院長先生が、これまた美少年の養子である息子さんを突然連れてきたので、美少年の身体測定と検査をすることになった……と悶々とする看護師。 「院長先生は……パパは、お家でもスキンシップが多い方かな?」  自分の妄想の為に、そして、同僚の枠を超えて昔からの友人の様に自分の欲望を曝け出せる仲間たちにネタを提供するために、看護師は少し探りを入れる。 「父は……うーん、まだ家に来たばかりで、ずっと寝込んでいて意識さえない状態で、やっと今朝回復したから、まだ何とも言えません。観察しながら接していると、父は人との触れ合いにあまり躊躇いの無い人間だと思います、触れる事だけでなく俺に向ける言葉を選ぶのも巧みです。でも、俺は人との触れ合いにまだ慣れていないから、父は様子を見つつ距離を縮めて行ってくれるのだと思われます」 「あのー……ソティル君は今いくつ?」  看護師はやや硬い顔つきになりながら問診票を持ってきて、クリップボードに挟み、鉛筆と共にそれをソティルに渡した。 「10才です」 「……ホントに?」 「本当です」 「めっちゃしっかりしてる……私、10才の頃なにしてたっけ、お兄ちゃんと馬糞を木の棒で突いていたような気がする」  お転婆な少女にありがちな昔話を耳に入れながら、ソティルは問診票に目を通した。 「名前や生年月日を記入するんですね?」 「うん、大正解!ここの太い枠で囲ってある所に記入をしてね、体重と身長は今から測定するから書かなくても良いよ」  そう言われて、ナースステーションのすぐ傍にある廊下のベンチまで移動させられる。 ソティルはそこに腰かけて、Soterh・Oppenheimと綴った。 だが、名前を書き終えた瞬間、強烈な違和感に包まれる。どうして俺は、意味さえも知らない単語と苗字の綴りを書けたのだろうか。 神妙な面持ちになったソティルを心配して、看護師が声をかける。 「どうかしたの?」 「ん……えーと、まだ住所を父から教えて貰っていなくて。それに、苗字の綴りも正しいものを書いたかどうか、定かでは無くて」 「そうだったのね、住所は空欄でいいよ。苗字の方の綴りは合ってるから、安心して」  看護師はにっこりと笑って、ソティルにそう言った。 ソティルは名前を書けたことに対する違和感を悟られないために、その上で綴った苗字が正しいかを知るために、住所と苗字の件について合わせて聞いたのだ。 そもそも、彼は住所の方は本当に知らない、後でヨセフに聞いて覚えておかなくてはならない、と心にとどめておいた。  ソティルは再び問診票に向き合い、性別欄に丸を付ける。 男、女、どちらでもない、無回答。 性別に捕らわれずファッションを楽しんでいるヨセフが院長をしている病院らしい記載だ。 ソティルは身体の性別と心の性別が一致しない人間や、ある日突然自分の性別に違和感を覚えてしまう人間や、性別を決めつけないで生きる人間がこの世には少なからず存在する事を知っている。 ソティルは男に丸を付け、それから誕生日を記入した。 12月25日。本当の出生日ではないがヨハネ教会に棄てられた日を出生日として役所に届けて貰っていた。 「これでいいですか?」 「うん、ばっちり!」  ソティルは久しぶりに文字を書いたので上手く書けるかどうか心配だったが、きちんと読める字が書けたようでほっとする。看護師はソティルから問診票を受け取り、彼に手を差し伸べる。 「では行きましょ、まずは身長と体重から」  ソティルはそっと彼女の手を取った、乾燥肌なのか少し手荒れしているもののヨセフと同じくらい柔らかい。 るんるんとソティルの手を引いて、看護師は歩き出す。 ソティルは欲望の眼差しに気付かず、この病院の看護師たちはとりあえず良い人たちなのだろうと思い、安心する。  2人がナースステーションから見えなくなると、看護師たちは働きながらも甲高い声を上げる。 我らが麗しの院長先生と、彗星のごとく息子として現れた美少年にまつわる妄言の数々。 それは当の本人には聞こえないものだった。

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