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第3夜 正解か不正解

 身体測定と検査はつつがなく終わった、看護師の採血が下手だった事を除いて。 ソティルの華奢な腕をバシバシと叩き、ごめんねごめんね、次こそ採れると思うから、と言いながら細い血管を探して針を刺された。  4回目でようやく採血に成功した。 痛みには慣れているものの、これだけ採れないとなると、ベテランの看護師に変わってやってもらった方が良いのでは……と思い始めた頃だった。 痛みはあったものの、採血できたことに変わりはない。 と、謝り続ける看護師をソティルが宥める事になった。  測定の結果は身長も体重も、10才の男児にしては平均を下回っている。 単なる小柄ならまだいいが、貧民街での暮らしで十分な栄養と睡眠がとれなかったことで、成長が妨げられたのだ。もちろん、娼夫の仕事によるストレスも、彼の成長に悪い影響しか及ぼしていない。 血圧も低め、肺活量は標準、心拍数も基準値、聴覚と視力だけは群を抜いて良い、という事が分かった。  ヨセフの言った通り、病院に併設された検査機関は空いていたようだ。 身体測定の前に採血をして、ラボに血液検査を依頼すると身体測定の後にはもう結果が出ていた。 「さっきラボにご機嫌な医院長来てましたけど……ああ、これ、なるはやの検査結果です」 「あらっ、珍しい。そちらから来てくれた上に物凄くお久しぶりに見る顔ですよね」  看護師がぼさぼさの髪とぶかぶかな白衣が目立つ人物から、検査結果を受け取った。 目立つ顔でもないが、どうにも目立つような雰囲気の人だった。 何より一番目立つのが、その人よりもその人が持っている茶色い箱だった。重たそうに見えるし、そんな状態で歩いてきたので両手が塞がり不便に見える。 検査結果の結果表を、手ではなくその茶色の箱の上にのせて、風で飛ばないように文鎮を乗せていた。 看護師はそこからひょいっと紙を抜き取って、受け取ったのだから。随分奇妙なやり取りに見えた。 「医院長が光を浴びてきなさい、と自分にやや命令口調で言ってきたので。でもさっさと薄暗いラボに帰りたい。こんなに明るくて騒がしいところじゃ嫌ですよ」  検査機関の医師なのだろうか、とソティルはその人を見ていたが、結局目線も合わず、その人は俯きがちにぶつぶつと何かを呟きながらさっさと帰ってしまった。 仕事と、医院長の個人的な命令の為だけに来たようだ。 「変な人が多いこの病院で、一番へんてこりんな病理医さんだけど、腕は……いや、目は確かだからね」  彼女は不思議そうな顔をしているソティルに対して、そう言った。そう言われては、頷くしかない。変な人が多い、というのにのにも……ヨセフの事を見たら分かる気がした。  苦労して採った血液の検査結果の結果表は、身体測定の結果が記入された問診票と共にクリップボードに挟んで渡された。 「はい、これで検査は終わりです!お疲れ様。この結果をもとにして、ソティル君の健康状態を確認して、生活指導をしてくれるんだと思うよ」 「ありがとうございました」 「採血で痛い思いをさせちゃって、ごめんね?」  ソティルは右手を見る。 白いシャツの下には小さな絆創膏と痛々しい注射痕があるが、首を左右に振った。痛い思いはしたが、かつて客たちにされた事を思い返せばどうってことはない。 そんなこと、目の前の看護師には口が裂けても言えないが。 「父の所に戻ります、内科か院長室に居ると言っていましたが……どこにありますか?」 「ここから近い所だと、内科ね。1階のエレベーターから……あ、地図があるからそこで説明するね」  看護師は院内の見取り図が掲示してある場所まで案内してくれた。ソティルは看護師の説明を受けながら地図情報を頭の中に入れた。見取り図の近くにはポスターが張られた掲示板もある、健康促進の為のスローガンが目立つ中、【技術革新で安心安全に】という最先端テクノロジーの謳い文句もある。 当院で使われている機材と設備は、安全です。というアピールなのだろう。 まだ、エレベーターや自動車や、あらゆる最新技術に慣れていない人だっているのだ。ソティルも昇降機には乗ったことが無いから、未知の領域の話だ。  このオッペンハイム医院は2つの病棟に分けられている。ひとつは今ソティルが居る外来患者向けの第一病棟、もうひとつは入院患者が居る第二病棟。 内科は外来のある病棟の入り口から入って、左側の方に診察室がある。 院長室は第一病棟の5階の角部屋にある。【技術革新で安心安全に】とあるのだから自動で上下に動くなんとも不思議な機械の箱に乗っても大丈夫そうだ。 「では、俺はこれで……お世話になりました」 「一人で行ける?」  看護師が今にもついてきそうなので、ソティルは病人でもないので申し訳なくなってくる。 「俺にかまっているよりも、他の患者さんの方に行ってください。仕事はきっと沢山ありますよね?それに、油を売っているように見えるとダールマン先生に叱られるのでは?」  10才の子供に諭された看護師は、確かに!と納得してソティルに別れを告げて通常業務に戻って行った。 レオンハルトは優しく穏やかなヨセフとは違って、看護師からはお叱りを受ける対象として見られているのかもしれない。  ソティルは看護師の背中を見送った後、内科の診察室の方へと赴いた。 しかし、どこにヨセフが居るのかが分からない、地図の前で看護師に聞いておけばよかったと後悔する。診察室をひとつひとつ開けてみて確かめるのは失礼だし、大声を出して名前を呼ぶなんて事も出来ない。 内科の診察室が並ぶ廊下で、とりあえずその辺りに居る看護師に話しかけるべきだ、と行動方針を決めたソティルに声がかかる。 「あら、どうしたのソティル君」  ナースステーションに居た看護師の一人だった。 タイミングよく話しかけてくれてラッキーだ、ソティルはその女性に話しかけた。 「身体測定と検査が終わったので、父に会いに来ました。父は忙しそうですか?」 「そうなのね、院長先生は今、あちらの診察室にいらっしゃるけれどお忙しそうね。患者さんがひっきりなしに来るんですから」 「では、ダールマン先生はどちらにいらっしゃいますか?」 「外科の外来の方ね、午前中の入院患者さんの回診を終えて私室にいらっしゃると思う」  ソティルは私室の場所を教えてくれた彼女に感謝を述べ、もし父が自分を迎えに行こうとしたならダールマン先生の所へ行っている、と伝えてほしいと言っておいた。 その看護師は、まだ幼いのに良く出来た子供だわ……という顔を浮かべて了承した。  1階は入口から入ってすぐに内科が、婦人科と小児科がその近くに、それらから少し離れて精神科がある。2階には階段と昇降機の近くに外科が、そこから少し歩いて皮膚科と耳鼻科があった。  階段で2階へあがって、レオンハルトの私室である木製の扉をノックする。診察の為の部屋のすぐ隣だった。扉のすぐ傍に、彼の名前の札があったので他の部屋と間違えず、すぐに識別することができた。 「はい、どうぞ」  声だけが返ってくる、客人かもしくは看護師や医師を出入り口まで迎えに来る気はないらしい。手が空いていないのかもしれない。 「失礼します」  ソティルはそっと部屋の中へと入った。 病院特有の消毒液の匂いのする空気に、珈琲の苦い香りが混ざっている部屋だ。 きちんと整えられた本棚と書類棚、座り心地はやや硬そうな黒い皮張りの2対のソファー。ソファーの間には足の低いテーブルがある、そこには小さな花瓶があり花が一輪生けられている。花瓶と一輪の花は、その部屋には少々似つかわしくなかった。  レオンハルトは部屋の奥にある大きめのデスクで、眉間にしわを寄せながら何かを書いていた。 デスクの上には書類の挟まった分厚いバインダーが複数ある、綺麗に積んだ数々の本、筆記具や写真立ても置かれている。物はやや多いようだが、決して散らかっているようには見えない。 レオンハルトは書類と向き合うのも眉間にしわを寄せるのもやめて、真面目そうな顔つきでソティルを見た。 「ソティルか、何か用があって来たのか?」 「はい、先程身体測定と検査をしてもらって、結果表を貰ったんです。父にこれを見せて生活指導を受ける予定だったんですが、多忙な様子だったんです。父は、もし自分が忙しそうだったらレオンハルトさんの所に行くようにと言っていました」  ソティルは手に持っていた結果表が挟まったクリップボードを指差した、なるほど、とレオンハルトが立ち上がる。 ソティルはふと、とある考えを思いついて控えめな態度になる。 「あ、忙しければ俺にかまうのは結構です、仕事を優先してください。手がすくのを待っていますから」 「いや……診断書に記入する文章を考えるために頭を悩ませていただけだ、時間は空いている。どれ、そいつを貸してくれ。ソファに座ってろ」  眉間にしわを寄せながら作業していたのを見て、邪魔をしてはいけないと子供らしからぬ配慮をしたが、レオンハルトは自分の仕事を一時的に止めてくれた。 ソティルはありがたく感じながら言われた通りに結果表を渡して、黒いソファーに腰かけた。 レオンハルトは立ったまま受け取ったものを見つめた。 「……10才、か」  呟いた一言は、疑問や困惑に満ち溢れていた。 レオンハルトは先ほど見せていた表情よりさらに厳しそうな顔つきになった、眉間にしわが寄って眼鏡の奥が険しくなる。 視線を結果表に落としながら、口を開く。 「ヨセフはお前の事を、貧民街で死にかけていたのを拾ったと言っていたな。ちなみに生まれは貧民街……では無いだろうな?」  レオンハルトはソティルの子供らしからぬ言動に、貧民街で生活していたとしても、薄汚い場所で生まれて育ったわけではない、恐らくちゃんとした教育は受けていただろうと考えていた。 「産まれてすぐこの瞳のせいで棄てられて、教会の孤児院に居ました。色々な事があって、貧民街で暮らすことを選びました」  こう言えば、あまり突っ込んだ会話にはならないだろうか。と、ソティルはやや気を回して答えた。 だが、気にしている以上は気になってしまう。  選んだ。 流れ着いたわけでもなく。 棄てられたわけでもなく。 選んだのだ。 その言葉に、レオンハルトはますます疑問と困惑を抱いた表情になる。  ソティルは立ち尽くしたまま書類と自分を交互に見つめる医師の表情が険しいことに、どこか危機感を覚え始める。 この誠実そうな人に、娼夫であったことを明かすべきだろうか。 この善良そうな人に、教会に盗賊が押し入り、自分の大切な人々を皆殺しにされ、焼け落ちる教会から命からがら生還したことを伝えるべきだろうか。 「あの……レオンハルトさん。とりあえず、ソファーにお掛けになったらいかがですか?」 「ああ、そうだな……ソティル、お前に一つ俺の見識を聞いてもらいたい」 「俺の身体に、何か良くない結果がそこに書かれているんですか?」  レオンハルトは長い溜息を吐いて、ソティルに対して何か奇妙なものでも発見した目つきをしてこう言い放った。 「ずっと、お前に対して違和感を覚えていた。いい意味での違和感だったんだが……10才の子供はな、基本的にそんな慇懃な態度と言葉は使わない」 「仰る通りです」  レオンハルトは片手にクリップボードをもったまま、どかっとソティルの向かいのソファーに座った。少し態度の悪い座り方だ。睨んでいるように見える視線で、ソティルの事を見つめている。 「そういうとこだぞ」 「慇懃無礼というやつですか……そう思わせたのなら、申し訳ないです」 「そういうとこだぞ!」  礼儀正しい態度を止めないソティルに、全くもう……という表情をするので、ソティルは萎れた花のように縮こまった。 レオンハルトは、全くもう……と本当に口に出して、クリップボードを机の上に放り出した。 「何か飲むか?」 「え?お気遣いなく」 「そういうとこだぞ、と言ってるんだ!」 「はっ、はい。何があるんですか?」  何だか理不尽な叱られ方をされている気分だ、とソティルは思う。ただ、目上の人間に礼儀正しくしているだけなのに。  ソティルの礼儀正しさや品の良さは、教会での教育の賜物であった。神父が礼節を重んじて子供たちに人と接する時の態度を教え込んだのだ。そうすれば、社会に出て困ることは無いはずだ、という考えで。  きちんとそれを吸収して学んでいく子供もいれば、反発して聞き分けが悪い子供も居た。ソティルは前者で、教会の孤児院で一番神父の教育を真面目に受けていた子供だった。  そして、その教育を元にした態度を客の前でもずっと行っていたので、10才にしては慇懃無礼な言動が身に沁みてしまったのだ。 一応、ソティル自身は、少し子供っぽい辛辣さのある人間だ。だが、距離感のある人間に対しては、いつも礼儀正しく接してきたので、レオンハルトに対してもそうなのだ。 その態度はレオンハルトを逆に混乱させ、怒りとは言えないが負の感情を抱かせてしまったようだ。レオンハルトは探るような声音で、ソティルに伝える。 「珈琲と紅茶がある」  ソティルは飲み物の名前を聞いて、思った。 どんな味の飲み物だったのだろうかと。 悩ましげな顔をしたソティルの、選ぶ以前の問題に悩んでいるという心の裡を読み取ったのかいないのか、レオンハルトは訝しげな表情をする。 「どうしたんだ?」 「その……どんな味をしていたか、あまり思い出せないのです。珈琲も紅茶も」 「どういう意味だ?」 「……俺はずっと、貧民街では泥水か雨水で喉の渇きを凌いできたんです。教会に居た頃は紅茶を飲むこともありました、ああ、あと、貧民街でも何度か珈琲は勧められて飲んだこともありました。けれど、はっきりと明確に味を覚えていないんです」  そこまで言って、ソティルは自分が口を滑らせたことに気付いた。貧民街で痩せこけた孤児が珈琲を勧められて飲むなんて事があるだろうか。 珈琲を勧められて飲んだ時というのは、薬の味を誤魔化すためのカモフラージュとして客に飲まされたのだ。 路上に居てさぞかし寒かっただろう、珈琲でも飲みなさい。 そんな言葉に一時的に甘えてしまった結果、酷い目にあったのを記憶しているが、ショックからか自己防衛で自ら記憶を消そうとしているのか、珈琲の味は詳細に思い出せない。 埃を出すために突かれないだろうか、と心配するソティルをよそに、レオンハルトは眼鏡の奥の瞳を曇らせていた。 「泥水か雨水、あの数値は……?」  検査結果から、どうやらソティルの身体の不具合を知ったらしい。 数値がどんなに悪いのかソティルには分からないが、レオンハルトの表情からして深刻なのかもしれない。 「多分、食べ物も飲み物も、睡眠も、満足に取れていなかったから発育に影響を及ぼしたんだと思います」  レオンハルトは勢い良く立ち上り、その様子に驚いた様子のソティルに言い放った。 「持ってくる、ふたつとも。お前の薄い記憶の中でも分かるだろうが、珈琲も紅茶も、泥水や雨水より千倍美味い。きっと、美味さで感動するぞ」 「あ、ありがとうございます」  レオンハルトは大股で歩いて、部屋から出ていく。 ヨセフが言う通り、彼は時折乱暴な口調になるが、それは彼なりの考えがあってのことだ。 それに……と、ソティルは思い返す。珈琲も紅茶も、泥水や雨水より千倍美味い。きっと美味さで感動するぞと言った彼の表情は、優しいものだった。  まるで、父親のようだ。 事実、ヨセフが呟いていたように、彼には娘が居るようだ。友人であり上司である存在が、突然連れてきた息子の存在に驚いているようだが、少しずつ順応している所を発見した。 堅く、真面目そうな印象とは裏腹に、柔軟な思考の持ち主なのかもしれない。  そして、ヨセフの友人を長い間やっている、ということは、ヨセフの突拍子もない言動に慣れているのかもしれない。 例えば、見ず知らずの火傷痕だらけの薄汚い忌子を拾ってみる、とか、その子供を治療とはいえ薬湯で満たしたバスタブに沈めるとか。 娼夫である自分を抱こうとする意志が感じられなかった為、性的な意味で抱くかどうかを聞いたら、検討していると言われたこととか……これは、これだけはレオンハルトには絶対に言ってはならない事だ。 ソティルが悶々と考えているうちに、レオンハルトが戻ってきた。 「戻ったぞ、美味い珈琲と紅茶だ。苦かったらミルクと砂糖を好みで入れろ、あと、クッキーもあったから、よかったら食べろ」  3つのカップとクッキーが並んだ白い皿、ミルクと数個の角砂糖をお盆に乗せている。 ソティルの前に、ふたつのカップが置かれる。 茶色と濃い黒の液体を前にして、ソティルは笑顔でお礼を言う。 「わざわざすみません、ありがとうございます」 「気に食わないから、俺に対する敬語は止めろ」  レオンハルトはやはりどかっとソファに座って、珈琲に砂糖もミルクも入れないまま啜り始めた。 「お前は聞き分けが良すぎる、そういう子供は、大人になってから子供の頃に蓄積されたストレスが大爆発してとんでもないことになる。そうなると、自分も他人も傷つく……医者でさえ手の施しようが無いほどになる事だってある」  黒々とした液体と、真紅の瞳を交互に見つめてレオンハルトはそう言った。 ソティルはふと、その言葉はレオンハルトという大人からソティルという子供へ向けられている言葉なのか、あるいは、レオンハルトの医者としての経験から言っている言葉なのかを考えた。 どちらも正解なのかもしれない、ソティルは敬語を止めて砕けた口調で話し始める。 「……そうなのか。分かりまし……分かった」  すぐに砕くことはできないだろう、でも、気に食わない言葉遣いなのだから、もっとフレンドリーにしなくては。 きっと、この人は自分を見破れる人だ。だから、警戒されないように友好的にしておきたい。 「ありがとう、きっと雨水とは天地の差だと思う」  ソティルはそう言って、まず紅茶のカップを手に取った。芳しい香りが立ち上る液体を少し冷ましてから口にする。 とても美味しいと感じる、ありふれた紅茶の味だ。 教会での思い出が蘇りそうになった。 寒い朝に、シスターが淹れてくれた紅茶の味、とてもありふれた市販品の、安っぽい紅茶の味を。 ソティルは奥歯を噛みしめて、その思い出に蓋をする。  カップを一度机に戻して、今度は珈琲にミルクと砂糖を少し入れてそれを飲む。 苦くて、少しだけ甘い。 客との行為を思い出す。 媚薬や睡眠薬の苦みや風味を消すため、それらは珈琲に溶かされる。 少年は気づいていながらもそれを飲み干すのだ、カップの底に溶けきらなかった錠剤の粉があったことも覚えている。曖昧な思考の中で、偽りの熱の中で、身体に触れられ犯される。 その行為はいつだって苦しかった。 「珈琲の方は苦手なのか?」  紅茶を飲んだ時は一瞬だけ嬉しそうな顔をしたものの、ソティルはその表情をすぐにひっこめて、哀愁の漂う表情をこれまた一瞬だけ浮かべた。 珈琲を飲むときに至っては、無表情だった。 苦味で顔をしかめても、おかしくはないだろうに。それがむしろ、苦手意識を抱かせるものだった。 レオンハルトはその一連の動作を見て、この子は表情が乏しいわけではないのに、表情をひた隠しにしているように見える、と考えていた。 「苦いからな、あまり美味しいとは言えない……紅茶の方が好きだと思う」  決して、薬物を混入されたものを飲まされて、ほぼレイプに近い行為をされた記憶が蘇るから、とは言えなかった。 「なら、無理をして飲むな。その珈琲は俺が貰おう」  ソティルは持っていたカップをレオンハルトに差し出した。彼はそれを貰って、そして、ふと言い放つ。 「珈琲が苦手なのは、苦いだけのせいか?」 「え?」  思わぬところを突かれて、ソティルは目を見開く。 やはり、この人との会話は、よく注意して言葉を選んで発さなくては。 自分にとって不都合なことを見抜かれてしまうだろう。  ソティルは警戒を強める。 決して、警戒している事を悟られぬように。 大丈夫だ、客に対して偽りの自分を見せていた時を思い出して、演技すればいい。 そう思って、ソティルは口を開く。 「子供だから、苦いのは嫌なんだ」  少しだけ、明るい声を出してみる。 だが、ソティルはふいに、レオンハルトの視線が怖くなり目を少し逸らした。 やめろ。 そんな目で俺を見るな。 善良で、誠実で、真面目で、道徳と倫理をきちんと持った目で見るのは。 「……さっき、言っていたな。貧民街で何度か珈琲は勧められて飲んだと」  身から出た錆だ、とソティルは自分自身を殴りたくなった。 気付ける人は、ほんの些細な事でも気付いてしまうのだから。 このまま視線を逸らし続けるのは不自然だ、自分は隠し事をしています、と言っているようなものだ。 ソティルは意を決してレオンハルトの顔を見た。 鋭い刃物のような瞳が、ソティルを見つめている。 手術刀の、刃の裏側で身体を撫でられているような感覚がした。医療用として外科手術や解剖に用いられる手術刀は極めて鋭利で、ほんの少し触れただけでも人体を傷つけてしまう。 お前なんていつでも捌けるんだ、と脅された気分になる。だが、ソティルはそこでひるむ子供ではなかった、危ない橋は落ち着いて渡ればいい。 「ああ、それがどうかしたのか?」  ソティルが発する声には、目立った感情はない。 上手く切り抜けられるだろう、と思っているソティルだったが、感情を伴わない声音は逆に違和感を与えてしまっていた。 「その珈琲はどこで飲んでいたんだ?」 「赤い目を持つこんな俺でも、貧民街では助けてくれる人も居たから。その時は、今よりも子供だったし。その人の家に招かれて、寒い時は体が温まるからって飲ませてくれたんだ」  波の無い水たまりのような声で、ソティルは答えた。 架空の思い出に浸るように、遠い目をする。在りもしない、温かい場所を考える。 テストの解答用紙に、答えを見ながらそのまま記入していくように。 レオンハルトにとって、違和感なく、ありふれた答えになるように考えを巡らせる。 「ソティル、お前はその人の家に上がって、それで珈琲を飲んだとき、お前はその人に何か対価を払ったりしたか?単に労働するだけでない、例えば……性的な行為とか」  水たまりに、大きな石が投げ込まれ、波が立ち、汚泥が水面まで上ってくる。 慌てるんじゃない、波はいずれ引くだろう、泥もいずれは下に落ちる、上辺だけ見れば綺麗な水に戻れるはずだ。 「……せいてき?」  首をかしげる。 普通の、一般的な、子供の仕草。 大人が、自分には知らない単語を言った時の、表情と反応。俺はそんな単語は知らない、その単語の意味すら知らない。 セックスはおろか、性欲の存在さえもまだ知らない無垢な子供です、という反応を。 ソティルが疑問に思うような声を出したので、レオンハルトはもう少し噛み砕いて説明する。 「例えば、裸になって身体に触られたり、逆に大人の身体を触れと言われたり。特に……下着の中身を」  レオンハルトの言葉は実に的確だ。 10才の子供に対する性教育的観点を含めた言葉としてふさわしい。  ソティルは首を左右にふるふると振った。 自分は数多くの男に身体を触られ、多くの男の身体に触れ、ディープキスもしたし、フェラチオもしたし、精液を飲んだこともあるし、尻の穴の中にペニスを突っ込まれたが。 これは、彼には知られてはいけない情報だ。 「……そうか、色々と聞いてしまってすまなかったな」  鋭利な刃物のような視線は無くなった、だが、まだ油断はできない。 もう少し、ソティルという子供を賢く聞き訳が良いただの幼い子として認識させる為にはどうしたらいいかを考える。子供らしい表情を浮かべて、安心させるのだ。 賢い子供らしいセリフを添えた微笑を。 「ううん……俺の事を、心配してくれたんだな?ありがとう」  ソティルはまた少しだけ首を傾けた。 上目づかいで、レオンハルトに微笑む。  娼夫だった頃、客に火傷痕は酷いが顔をよく見れば別嬪だ、としょっちゅう言われていた。ベッドの中で、暗い顔は一切せず、今のような蠱惑的とさえ捉えられる微笑を湛えているのだ。  微笑は自分を守ってくれる。 苦しい表情や言葉を発したら、客を煽りかねない。 だが今この瞬間において、ソティルの自己防衛が生み出した美しい微笑は、レオンハルトが抱いている疑惑を深める為の証拠にしかならなかった。 「その微笑は……客に対する営業用か?」  ばれた。 いや、まだだ。 本当に? もう、手遅れなのでは? どう巻き返す? 営業用とは何かを聞き返す? 俺は客商売なんてしたことないとはぐらかす? 客って誰の事を差しているのか言う? どうすればいい? どうすればいい? どうすれば、この人に知られずに済むんだ? 「ソティル?」  呼びかけられて気づいた。 レオンハルトは今、テーブルを挟んだソファーに居らず、ソティルの腰かけるソファーのすぐ傍に来ていた。 片膝をついてしゃがみ、ソティルの様子をじっと見る彼の眼に、もう本当の意味で刃物のような鋭さはないように思えた。 先程、視線が和らいだと感じたのは彼の演技だったのだろうか。今は、近所の子供に向けるような目をソティルに向けている。 「お前……もっと楽しそうに笑ってみろ。綺麗な顔なんだから」 「いきなりそんな事を言われても」  ソティルは数秒の混乱から立ち直り、きちんと返事を返す。もっと楽しそうに笑え、とはいきなり何なのだろうかと考えながら。 「よしっ、まかせろ」  レオンハルトの眼鏡の奥がキラリと輝いた、手術刀の輝きではなく純粋に瞳が輝いて見えたのだ。 まかせろって、何を?とソティルが問う前に、彼の武骨な手がソティルに触れようと伸びてきた。 逃げようと思ったが、俊敏な手に捕まってしまう。 そして……脇腹を容赦なくくすぐられた。  普通の子どもだったら、くすぐったくて無邪気に笑い転げるだろう。 だが、普通の生き方ができず、身体を売って生きてきたソティルは、身体に触れられた時感じるものが一般的な子供のそれとは違う。 子供はまだ感じてはならない、甘い感覚に身体を支配されてしまう。 「んッ……ひっ、や……やめ……あっ、ああっああぁ!」  ソティルは甘ったるい声を上げてしまい、自分の口を手で塞いだ。 その表情は、赤く火照り溶けかけている。 呼吸は乱れ、発情の汗を流し、真っ赤な瞳には薄く涙が溜まっている。 身体は、愛撫を求めるように疼いてしまう。  レオンハルトはソティルの反応に驚き、手を止めて、茫然と彼を見ていた。 そんな反応をするとは、思ってもみなかったからだ。  ソティルは顔を覆って、小柄なその身を縮こまらせた。荒く呼吸しながら、微かに震えている。 「見ないでくれ」 「ソティル、その……」  突き放すような声に、レオンハルトは慌てていた。 先程のソティルの様に、今の彼に何を言えばいいのかを、答えを必死で考える。 「見ただろ!聞いただろ!もう、分かっただろ!」  ソティルの悲痛な叫びで、レオンハルトの疑惑は確信に変わる。 問いに対する答え合わせが済んだのだ。 貧民街で子供が生きていくには、盗むか殺すか自分を売るかしかない。 それは、何となく察していた、そして、それとなく聞き出すつもりだった。 だが、レオンハルトの行動は失敗だった。 問いに対する答え合わせは、正解だったのに。 「ソティル、軽率な言動を取ったことを心の底から謝る。お前が、10才の子供らしからぬ発言や表情をするのは、過去に何か……大人に酷い仕打ちをされたのかと思ってな」  ソティルは顔を覆い尽くしていた掌の力を、そっとゆるめて、指と指の間からレオンハルトを見た。 とても申し訳なさそうにしている。 飼い主に叱られた大型犬のようだ。 「食事も睡眠もろくに摂れずに、しかも、その小さな身体をすり減らして、なんとか生き延びようとしてきたお前を見て、とても痛ましい気持ちになった。この世界の全ての子供は、健康で幸せに生きられる自由があるんだ。大人はその自由を保障しなくてはならん」  きっと、レオンハルトは心の底からそう思っているのだろう。 ヨセフの言う通り、彼は子供が好きなのだ。 ソティルの知っている子供好きは、単なる気の狂った小児性愛者であったが彼は違う。 「ソティル、俺はな……お前がこれから少しでも健康で幸せに生きていく為の手伝いがしたい。お前が貧民街で見る事の出来なかった景色を、自由と未来を見せてやりたい」  ソティルは顔を覆っていた手を下す。 そうして、視線をうろうろと彷徨わせて、最終的にはきちんとレオンハルトを見る。 レオンハルトは、温かみのある瞳でソティルの事を見つめて、優しく言葉を伝える。 「俺を信じてほしいとは言わない。だが、ヨセフの事は信じてやってくれ。お前の事も救ったあいつは、きっと俺と同じ気持ちで居るはずだ」 「……俺は、身体を売っていたんだ。淫乱だとか、薄汚いとか、気持ち悪いとか思わないのか?」  ソティルは白いシャツを胸の上からぎゅっと握った、手は汗にまみれている。 「そんなこと、思うはずがない。お前はとても綺麗な子供だ。ヨセフは美しいものが好きだから、きっとお前の美しさに惹かれたんだろう」 「ヨセフが俺を拾った時、何日も食事をしていなかったから痩せこけていたし、雨に濡れた犬みたいな匂いがしていただろうし、ボロ雑巾みたいな服を着ていた、それに顔面と身体に酷い火傷痕があってお世辞にも綺麗とは言えなかった」  ソティルの悲しい声と言葉を、吹き飛ばすようにレオンハルトが笑った。 「ヨセフはお前の魂を見抜いて、美しいものだと判断したんだ」  魂、とレオンハルトは不確かなものを口に出した。 目には見えないものなのに、触れる事さえできないのに、そもそも存在するかもわからないのに。 だが、レオンハルトはその存在を信じきっているようだった。 「あいつは、俺やソティルよりもうんと人を見る目が肥えている。あの瞳に見つめられると、何でもかんでも見透かされている気持ちになる、でも、決して嫌な気持ちにはならないんだ」  確かにそうだ、とソティルは思った。 この真っ赤な目のせいで、人の目が怖かった。 お前は忌子だ、不幸を呼ぶ、人に呪いをかける、どこか遠くへ行ってしまえ、と言われるのに慣れてしまった。 だが、それは慣れてしまったというフリをしていたのだ。 誰かに暴言を吐かれたら、人は傷つく生き物だ。 傷付いてきたことを、見て見ぬふりしてきた。 人の目と合った瞬間に、言われるだろう言葉と抱かれるであろう感情を、ずっと心配していた。  人と目線があってしまうと、その人は真っ赤な目に恐怖を抱く。 だから、ソティルは客になりそうな男以外、人の視線を極力避けた。  だが、ヨセフは出逢った時から、ずっとソティルの真紅の瞳を輝かしいアイスブルーの瞳に映して、柔らかく、甘く、微笑んでくれた。  自分の瞳が大嫌いだった、この赤色が嫌いだった。 けれど、ヨセフはソティルの目を綺麗だと言った、チェルシーも優しそうに“お坊ちゃん”と呼んでくれた、レオンハルトも気味悪く思うような発言など一切しなかった。 ナースステーションの看護師達だって、あんなにソティルの事を可愛い存在だと認識してくれていた。  ソティルは今まで、自分はずっと地獄の中に居て、呪われた存在だと思っていた。 けれど……世界は思っていたより優しかったようだ。 でも、まだだ。 ソティルは自分の身体の事を思う。 この身体は娼夫だったことを忘れていない、忘れる事などおそらく一生無い。 くすぐられるだけで発情する子供なんて、居てはいけない。  身体の火照りや疼きは、治まっている。 しかし、いつかまた、誰かに求められたら発情してしまうだろう。 地獄から助け出されて、天国のような場所に居るが、まだ足枷をはめられている。 足枷からは長い鎖が繋がっていて、地獄の奥底まで伸びているのだ。 お前の身体はそこには相応しくない。 いつでも地獄に引きずって戻してやれる。 そう、誰かに……いいや、後ろめたい感情を抱き続ける自分自身が囁いているのだ。 「……レオンハルトさんのことも、信じてあげたいと思う。ヨセフと同じく、少しずつ。まだ、2人とも完全に信じられる状態じゃない。とても親切で善良な人だと思う、だからこそ、信じるのが怖くなる。俺は、正しい生き方をしてきた子供じゃないから」  ソティルの、今はとりあえず周りの状況を確認したい、という考えにはレオンハルトが同意する。 しかし、後半部分については口出しする。 「お前はお前のペースで、人を信じていけばいい。その点は素晴らしい考えだと思うが……自分の事も信じてやれ、何が正しい生き方なのかは人それぞれだ。お前にとっての不正解が、俺にとっての正解かもしれん」  人の人生観は人それぞれだ。 ソティルもそれは良くわかっている、けれど、自分は善く生きてはいない。 自分にとっては善い生き方ではなかった。 「うん、そうだな……ゆっくり正解を見つけていく。俺は善く生きていきたいから」  レオンハルトは力強く頷き、立ち上がった。 ソティルの向かいのソファーにまた、どかっと座った。 それが、彼の特有の座り方なのだろう。 沢山遊んで疲れ果てた日の夜、ベッドにダイブするように飛び乗っていた孤児院の子供を思い出す。 良識のある大人だが、いきなり初対面の子供の脇をくすぐったり、ソファーに座るときの態度が子供じみている所を見ると、やんちゃな男の子らしさが垣間見えるような人だとソティルは思う。 「クッキー、食べていいんだぞ」 「うん、ありがとう」  とっくに冷めてしまった飲み物を2人は飲む。 ソティルは乾いた喉を紅茶で潤してから、クッキーを齧る。 甘くて美味しい。 口の中にクッキーを入れた瞬間、ソティルの身体は甘味を渇望するかのような感覚に陥った。 珈琲や紅茶と同じく、甘いものなんて随分食べていない。 「あんまり食べすぎると、昼食が入らなくなるぞ」  クッキーの美味しさに手を伸ばし続けるソティルに、大人の真っ当な意見が突き刺さる。 ソティルはそっと手を引っ込めた。 あからさまにしょんぼりとしてしまったソティルを見て、レオンハルトは何とも居た堪れない気持ちになり「もう一枚だけにしておけ」と少しだけソティルを甘やかした。 「ありがとう!」  ソティルは営業用でもなんでもない、普通の子供の様に顔を花のようにほころばせて、クッキーを一枚口の中に入れた。 やっぱり、甘くて美味しかった。

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