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第4夜 サンドイッチは何から食べる?

 ソティルとレオンハルトはお茶を飲みながらお互いの話をした。 レオンハルトは家庭の話が多かった、妻はブティックに勤めており、娘は8才で、二人ともとても美しく可愛らしい、と彼女たちを大切に思う気持ちが伝わってきた。 写真をいつも携帯し、デスクにも写真立てに入れて飾ってある。 勿論、ソティルに見せてくれた。  3人で写真館で撮影したものものと、レオンハルトが妻と娘を撮ったものがある。 淑やかそうな女性と、無邪気に笑う少女の姿、優しい父親の表情をしたレオンハルト。 良き父であり、良き夫なのだろう、とソティルは家族写真を見て思った。  ソティルは今自分がここに至るまでの経緯を話した。自分には人に胸を張って言えるような趣味や、語りつくせないほどの絆で結ばれた家族はまだ居ない。 そのことも伝えると、レオンハルトは今から作り上げていけばいいとソティルを諭した。 「ソティルには、何かやってみたいことがあるか?」 「……勉強だな、沢山の本を読みたい」  至極真面目な返答、子供らしからぬがソティルは本気でそう言った。 「俺は必要最低限の読み書きや数の計算、それから国の歴史、あと人前でのマナーを教えられてきた。あと、教会の書庫にあった本は沢山読んできたけれど、学校には通っていなかった。ヨセフの家には多分本が沢山ありそうな気がするから、今からいろんなことを知っていきたい」  素晴らしいことだ、とレオンハルトがふむふむと相槌を打つ。 「知らないことが多すぎたり、知らない事を知らないままでいると、人に騙されたり、人を無意識に傷つけてしまう可能性があるからな」  レオンハルトは真顔になり、それから眉を下げて苦々しく笑った。 「ああ……お前の言う通りなんだが、勉強にそういうネガティブな感情を抱くのは良くないと思うぞ。確かに、知識や教養があれば自分に降りかかる災難から逃れやすくはなるが、それ以上に学ぶことは楽しい。きっと勤勉そうなお前にとっては分かりきったことだが、知らない事を知るのは、驚きと喜びに満ちているんだ」  確かにそうだな、とソティルは自分の思考がネガティブになっている事に改めて気づく。 暗い気持ちで生きていると、とてつもなく酷い事が起きた時に、むしろ冷静に対処できるから。 ソティルは貧民街で暮らしていた時、いつも最悪の状況が身に迫った時の事を考えていた。 いつ客に嬲り殺されるか分からない。 それならば、いつだってその危機感を持っていれば、多少の冷静な判断ができるはずだと。 地獄から出てきた今でも、その考えはまだ変わらない。 「レオンハルトさんは、どうして医者になろうと思ったんだ?」  ソティルが気持ちを切り替えるために、そう聞いてみた。 「25年前に戦争があったことは知っているな?」  ダイアナル王国という隣国との戦争の事だ。国の歴史にかかわる事なので、ソティルはきちんと知っている。 「俺は当時、お前と同じ10才で少年兵になった。国境沿いで戦うことになり、毎日上官に罵られ、重たい銃を背負って、重たい身体で野山を駆け巡り、くたくたになって、配給されたレーションを貪り食って……沢山の人を殺めた」  暗く落ち込んだその声に、ソティルは聞くんじゃなかったと後悔する。 そんな顔を見たレオンハルトは、気遣うような言葉をかける。 「お前がそんな顔をするんじゃない、戦争はもう終わったんだから」 「……うん」 「それで、俺は生と死が交錯する戦場にて闘い、そこで……間抜けな事にダイアナル国軍が仕掛けた地雷を踏んで、左足を吹き飛ばされた」  やはり、とソティルは彼の歩き方を思い出す。 レオンハルトの左足は義足なのだ。 「治療が施され、辛うじて生き延びたものの恐ろしい思いをした。足が吹っ飛んだ事による激痛で、このまま死ぬのではないかと思った。痛みとパニックになり、ベッドに拘束されながらも暴れようとする片足の俺は、死の恐怖で意識を失いかけた。視界が薄暗くなって、死が訪れたのだと思った時、何かが唇に触れたんだ……」  レオンハルトは無骨な指先で、自分の唇に触れた。 一般的な男性のあまり手入れされていない唇は、微かに乾いて見える。 ヨセフの薄い唇がソティルの思考によぎった、彼のしっとりとしていそうな唇とは大違いだ。 「誰かが、俺に赤ワインを飲ませて、囁いた……“もう大丈夫だよ”と」  昔を懐かしんでいるのだろうか、彼の表情に力強さはない。 「薄暗い視界が開けて、目の前に白銀の髪をした人物が居た。顔面が至近距離にあって、口移しで赤ワインを飲ませたことが分かった。そこで、初めて俺は医務室に居ることに気付いた、火薬と血液と消毒液の匂いで。視線を彷徨わせながら、俺は白銀の髪をした人物の声を聞いた。“君、赤ワインは好きじゃなかったかな?あまり飲んでいる所を見た事が無いね。僕も、これは好きではないんだ。でも、これにはアヘンが入っている。きっと君の痛みと恐怖を消してくれるだろう”とな」  白銀の髪をした人物、でソティルはピンときたが、黙ったまま話を聞く。 戦時中にアヘンが軍隊に使われていたことは知っているかどうかをレオンハルトは訊ねてきた。 ソティルは黙って頷いた。 「当時、兵士の戦争に対する恐怖を消すために、アヘン入りの赤ワインを飲むことは一般的だった。俺は、片足を失うまで飲んだことは無かった。俺の生まれ育った家は厳格でな、父は軍人で佐官をしており、母は看護師だったから野戦病院で働いていた。まるで、戦争が始まれば兵士として戦場に出されることが決定されてきたような子供時代だった。努力、我慢、忍耐を重んじて、浮ついた事をすれば厳しい折檻が待っていた。少年が酒を飲むなんて、どんな理由があったとしても不良行為だと思っていた。薬物が混入したものならば、尚更だ」  だが……とレオンハルトは続ける。 苦しげな表情に、話題を逸らそうか、話を止めようかとソティルは考えたが。 恐らくこれは、聞いておいた方が良いような気がして、続きを聞いた。 「俺は、白銀の髪をした人物から赤ワインを受け取り、コップ一杯のそれを飲み干した。やたらと渋く、やたらと甘ったるく、お世辞にも美味いとは言えなかった。だが、飲み干すと、恐怖も痛みも綺麗さっぱり消えていた。今考えれば恐ろしいことだ」  アルコールと薬物で、人の思考をコントロールする。 そして、そこまでしてノクターナル王国は勝ちたかったのだ。 ダイアナル王国も、同じく、薬で人の心を歪めて戦いに挑んだ。 25年前の戦争はとても歪んだものだった、とソティルは神父から聞いている。 「白銀の人物は、ベッドに拘束されていた俺を解放して言った“義足を用意したよ、これでまた君は戦えるんだよ。良かったね”と、笑ったんだ。俺が見てきたどんなモノよりも美しく、どんなモノよりも残酷な笑顔で」  ソティルの脳裏にはヨセフの微笑が見えている。 そこに、何一つ残酷さはない。 だが、目の前のレオンハルトは緊張感を露わにして、その残酷な笑顔を脳内で反芻しているのだろう。 「その人物は、我が国では白い天使と呼ばれ、敵国では白い悪魔と呼ばれていた。国境沿いの兵士たちは、死への恐れを捨てる事ができた。そして、強大な力を付けた。やがて、戦況をひっくり返すことが起きて、戦争は我が国の勝利で終わった。白い天使と悪魔、2つの顔を持つ存在のおかげで……」 「それが、ヨセフとレオンハルトさんの出逢いなんだな」 「ああ、戦時中も戦後もだいぶあいつの世話になったな。今現在、あいつの世話にはなりたくないが」  ソティルは少しの間考える。 「ヨセフも兵士として国境沿いに居たとしたら、25年前少年兵だったとして……今の年齢はいくつなんだろうか」  思案にふけるソティルを見て、レオンハルトは「いや……その……」と目を逸らして口ごもった。 「どうしたんだ?」 「……大したことじゃあないんだが、いや、大したことでもあるんだが。詳しくはヨセフ本人に聞いてくれ」 「何を聞くんだ?」 「年齢の件と、それから……ああ!全くもう!ヨセフの事が知りたければ本人から聞いてくれ、俺に説明責任は無い!以上だ!分かったな!?」  よく通る声でまくし立てられたら、とりあえず頷いておくしかない。 だが、レオンハルトの態度は妙に気になる。 彼はヨセフの何を知り、何を隠しているのだろうか。 ソティルが不思議に思っていると、部屋の扉がノックされた。 「どうぞ」とレオンハルトが呼び掛けると、話題の中心であったヨセフが入ってきた。 「ソティル!君の健康状態はどうだったかな?」  ヨセフは真っ先にソティルの元へやってきて、ぬいぐるみを抱きしめるようにハグをする。 彼からはやはり、ふんわりと花の香りがする。 「僕と離ればなれになって、寂しい思いをしたかな?」 「いいや?」 「そうか!素晴らしい!自立心のある立派な子だ」  よしよし、とヨセフはどこか満足げにソティルの頭を撫でる。 その白銀の頭に検査結果が挟んであるクリップボードがペシリと当たる。 特に痛みは無いだろうが、人の頭を攻撃してきたレオンハルトにヨセフは口をとがらせる。 「ちゃんと患者さん捌いてきたよ!」 「魚を捌くような言い方をするんじゃない!ほら、結果だ」 「レオンハルトは患者さんを手術刀で掻っ捌いてるじゃないか」 「病巣の切除だ!それに、外科ならお前だってやるだろうが」  やいのやいの言うレオンハルトと、結果を受け取ってのらりくらりとしているヨセフ。 その二人を見て、ぼそりとソティルが呟いた。 「……仲が良いな」  そのふとした一言に、大人二人は顔を見合わせる。 「まあね」 「まあな」  二人はきっとこれからも、友としてあり続けるのだろう。 ソティルはそう思った、そうであってほしいと思った。 目には見えない信頼感がそこにある。 なにしろ、生と死が交錯する戦場で出会い、視線を潜り抜けてきたであろう二人なのだから。  ソティルの健康状態は、やはり、栄養も睡眠も足りていない状態だった。 血液検査の結果から、貧血気味なのだとヨセフに言われる。 食べることも眠る事も出来ず、ふらふらとした頭で、一日過ごしていたことも多々あるとヨセフに伝えた。 「これから栄養価の高いものを食べて、どんどん成長していくと良いよ。背も伸びるし体重も増えていく、君は伸びしろがあるんだよ。さて、そろそろお昼ご飯にしようよ、僕、お腹空いた!」  時刻は昼に近い、ソティルはクッキーを抓んで食べたのに突然空腹感を覚え出した。 そういえば、とナースステーションにランチを置いてきてしまった事を思い出す。 「サンドイッチをナースステーションに忘れてきた」 「おやおや、なら取りに行かないとね。レオンハルト、君も暇だったら僕達と一緒にお昼を食べない?天気がいいから外に出て食べようよ」  ヨセフの提案に、レオンハルトは乗って自分の昼食が詰まった紙袋を手に取った。 3人はナースステーションまで歩いて行った、ソティルが検査の時に空いた場所へ置いてあったサンドイッチの紙袋はきちんとそのまま保管されていた。  看護師たちは2度目のオッペンハイム親子の登場と、それからダールマン先生も来た!ということに静かに興奮しながら3人を見ていた。 組まされている……彼女たちの頭の中で、と純粋さのある邪な感情に気付いているのはヨセフだけだ。 この少年は早くも人気者になっているようだ、ソティルは将来有望だろうな、と思うレオンハルト。 サンドイッチの紙袋を受け取り、看護師に礼儀正しくお礼を言うソティル。 人には知って言い世界と、知らなくても良い世界があるのだ。 「さあ、行こうか」  ヨセフは細やかな笑顔を浮かべて、人の思考は自由、人の思考は自由、と頭の中で繰り返しながら看護師たちに手を振った。 そんな表情の彼を見て、ヨセフはなんだかいつも楽しそうな人だな……とソティルは思った。  周辺を森に囲まれたオッペンハイム医院には、大きな庭がある。 手入れが行き届いた花壇には花が咲き乱れ、芝生は青々としていて、ベンチもそこかしこに置いてある。木陰を作るための木々も、車椅子や足の不自由な患者の為に整えられた通路もある。 柔らかな芝生の上に座って昼食をとっている病院関係者もいれば、ベンチに腰かけて日光浴をしつつ穏やかに花を見つめる患者もいた。  春の柔らかな日差しを浴びながら、憩いの場であるベンチに3人で腰掛ける。 ソティルは少しわくわくしながら、紙袋を開いて中身のサンドイッチを取り出し、膝の上に乗せた。 ワックスペーパーに4種類のサンドイッチの名前が書かれて、メモが添えてある。 ソティルはメモの内容を読んだ。 少し丸みを帯びた文字、チェルシーの文字だった。 『ソティルお坊ちゃんの気に入るサンドイッチがあれば良いと思いながら、お作りいたしました。胡椒を少しきかせてあるたまごサンドと、トマト、レタス、ハムを挟んだものと、ポテトサラダを挟んだもの、それからクリームチーズと苺ジャムのサンドイッチです。お腹いっぱい食べて下さいね。食べきれず残してしまっても構いません、旦那様が食べて下さりますから』  チェルシーの優しさも挟まれたサンドイッチを見て、ソティルはどれから食べるか悩む。 ろくなものを食べて生活してこなかったから、ソティルの食は一般的な10才の少年よりも細い。栄養価のある食事を沢山食べることに慣れていないのだ。教会の孤児院に居た頃も、進んでがつがつと食べるような子供ではなかった。今朝、朝食を口にした時、軽いものだったのにも関わらずすぐにお腹いっぱいになってしまった。  本音を言えば、4つのサンドイッチを全て食べたい。 だが、そんな事をしてしまったら、後にその行動を後悔するようなことが待っていそうだ。 一口ずつ、あるいは二口くらいずつ齧る、なんて事は絶対にしたくない。 食事中のマナーとしてしてはならない事だ、4つのサンドイッチを軽く齧って、もういらないと人に押し付けるような真似はどうかと思う。  悶々と、子供らしからぬ思考を続けていると、レオンハルトはすでに自分の昼食であるバケットサンドに齧りついて、不思議そうな目をする。 バゲットを半分くらいの大きさに切って、真ん中に切れ込みを入れて具を挟んであるそれはとても美味しそうだ。具は、ほぐしたローストチキン、スライスゆで卵、瑞々しいトマトとレタス、適当にちぎってあるモッツァレラチーズだ。 「何やら悩みこんでいるな」  ソティルは自分の左隣に座ったヨセフと、右隣に居るレオンハルトを交互に見て、助けを求める。 「何から食べたらいいのだろうと思って……チェルシーが俺の事を考えて作ってくれたものだから沢山食べたい、けれど食が細いから残してしまう。残してしまうのは仕方ないとして、だったら好みに合いそうなのを食べたい」  ヨセフはサンドイッチとにらめっこしていたソティルを見守っていたが、彼の膝の上のそれをひょいっとひとつ取った。 「その悩みは良くわかるよ、ソティル。ここは、一番作るのに手間がかかるポテトサラダを選ぶか、マヨネーズと卵を使っていて栄養価が高いであろうたまごサンドにするか、はたまた瑞々しい野菜でヘルシー路線に行くか、あるいは安定の美味しさを誇るジャムを使ったスイーツサンドを食べてしまうか!」  悩ましい、実に悩ましいよ……と言いながらも、ヨセフはたまごサンドを包むワックスペーパーを丁寧に剥がして。 一口、頬張る。 「とまあ、色々と考えるんだけどね。僕はチェルシーが作るたまごサンドが一番好きでね、最初に食べるんだ。で、次にポテトサラダで、さらにトマトとレタスとハムで、最後にはやっぱりジャムとクリームチーズだね」  サンドイッチを頬張るヨセフはとても幸せそうだった。 彼は食べることが好きなのだろう、朝食と昼食を共にして分かった。  ソティルはヨセフと同じくたまごサンドを手に取って、一口頬張る。 どうかな?美味いか?と両サイドから聞かれる。 「パンが……柔らかい。固くないしカビてもいない。こんなに美味しいパンを食べるのは久しぶりだ。それに、卵が美味しい食べ物だというのも、忘れてた」  ふんわりと柔らかなパンに挟まれた卵サラダのゆで卵は、やや粗めの刻み方だ。 マヨネーズで和えてあり丁度いい酸味と塩気がある、粗挽き胡椒も入っていて、香りとほんの少しの辛みが良いアクセントになっている。  ソティルがもぐもぐとサンドイッチを咀嚼する姿は、とても、とても幸せそうだった。 彼の無防備な表情を見て、レオンハルトは心の中でホッとする。 レオンハルトは今までずっと、ソティルの子供らしからぬ言動をずっと気にしていた。 だから、クッキーを食べた時や、今現在サンドイッチを食べた時、その表情が10才の子供の物だと判断できてよかったと思うのだ。  戦争で苦痛に塗れながら生きてきた幼少期の自分と、ソティルの痛々しかった生き方は、見ていて重なるものがあるのだろう。 子供は笑っているのが一番だ。 「あ、そうだ」  たまごサンドを半分ほど食べた所で、ソティルがふと思い出した。 「問診票を書くときに気付いたんだ、家の住所を知らない事を」 「ああ、そうだった。君にはまだ表面上の自宅の住所を教えてなかったね。後で、メモを書いてあげよう。何かしら書類を書くときに必要になってくるかもしれないし」  果たして、あの魔術的細工がなされた家の住所を他人に教えて良いのか悪いのか、ソティルには分からない。 だが、家主はどうとも思っていないようだ。 それから……ソティルはサンドイッチを食べながら、続ける、もっと気になったことがある。 「俺、自分の名前が書けたんだよ」 「うん、それは……自分の名前なんだから、書けるだろうね」 「スペルも、この名前の意味も知らないのに?」  ヨセフはポテトサラダのサンドイッチを口にして、もぐもぐ、ごくん、と飲み込む。 「君の名前はね、魂に染み付いているんだよ。だから、魂で解るんだ、自分の名」 「魂?」  ソティルは食べる手を止めて、ヨセフを見上げた。 昼の日差しの中で、彼の白銀の前髪がふわりとなびいた。 ヨセフは、どこか詠う様な口ぶりで説明する。 「名前はひとつの魔術として機能する。いいや、言葉そのものが時として魔術になるんだ。僕のような一流の魔術師ともなれば、言葉に魔力を籠めて発することもできる。僕は、君を名付けた時、君に対して祝福の魔術を使って、魂に名を定着させた。ソティル、君がこの名に護られて、幸せに生きていけるようにね。でも……魔術を勝手にかけたことが気に障るようなら謝るよ」  魔術をかけられていた事は気に障らないが、そうだったのかとソティルは少しの間黙っていた。 早くもバゲットサンドを食べ終えたレオンハルトが、今度は林檎を丸齧りし、どうにも疑わしい視線をヨセフに向けている。 「ヨセフ、お前……ソティルの火傷痕を魔術で治したと聞いたが」 「うん、現在の医療技術ではここまで美しい肌を取り戻すことは不可能だったからね」  ヨセフは繊細な手つきでソティルの頬をそっと撫でた。 ソティルは少し驚きながらも、撫でられるままサンドイッチを食べる行為に戻る。 レオンハルトは眉間にしわを寄せたまま、また訊ねる。 「で……ソティルという名前を付けるときにも、魔術的な事をしたと」 「うん、それに、ソティルと初めて貧民街で出会った後も、瞬間移動の魔術を使った。彼を一刻も早く看病してあげたかったからね。あ、今思えば傘をその場に置いたままにしてしまったんだった……誰かに拾われて売られているかも」  何でもない顔をして話すヨセフに対して、レオンハルトは唸っている。 ソティルはどうかしたのかと口をもごもごとさせつつ、黙って目線を送った。 「ヨセフ、そうほいほいと簡単に魔術を使うんじゃない」 「ええー?だって、便利だし、手っ取り早いし、良い事だらけだよ?」  ヨセフは親に些細なことで口出しされた子供の様に頬を膨らませる。 隣にいる少年の肩に少しもたれかかった。 甘い花の香りが一層強くなる。 「ねえ、ソティル。君は僕が魔術を使う事で何か不利益になったかな?」 「いいや?速やかに貧民街から家に瞬間移動したって事は、速やかな治療をしてくれたという事だし、顔と体にあった火傷は治ったし、素敵な名前をくれてありがたいと思っている。家にかけられている魔術に関して俺は特に口を出すことは無い、何も不利益なんてないし……魔術に興味が出てきたんだ、もし、俺にできたら、勉強してみたい」  ふふーん、と何やら意味ありげに笑ったヨセフは、挑戦的にレオンハルトに言い放つ。 「という事だよ、レオンハルト。僕の魔術は人を幸せにしている!」  レオンハルトは長い溜息を吐いて、こめかみの辺りを片手で押さえた。 「お前な、戦時中に何をしでかしたか覚えているか?」 「覚えていないよ、何にも、なーんにもね。あの時は、大量の薬物とアルコールを摂取していて、いつだって正気ではなかったし、国も僕を正気では居させてくれなかったんだもん。なーんにも、なーんにも!覚えておりませーん!」  子供っぽく、当時の事を語るヨセフ。 ソティルはどことなく、巧妙に隠そうとしているわけではないが、彼が嘘をついて、何かを隠そうとしているのが分かった。 「嘘を吐くな!お前の狡猾さはとうの昔に気付いているんだからな!おい、ソティル、魔術は止めておけ。他の学問ならどれだけ突き進んでいいが、魔術は!止めておけ!」  必死の形相で言われたものの、ソティルはまだレオンハルトが魔術を問題視する意味が理解できなかった。 何より少年の知的好奇心は、本人が思っている以上に強かったのだ。 ここは無難に、かつ、自分の意思も尊重させつつ答えを言うべきだとソティルは思う。 「なら、もう少し様子を見てから判断する」  恐らく、とても真っ当な答えを導き出したはずなのに、レオンハルトがソティルの返答を気に入る様子はなかった。 「このヨセフが拾ってきた子供だぞ……素質やら才能やらが在るかも知れん!それに、ソティルは見るからに聡く賢い、勉強は難なく行える、駄目だ!駄目だ駄目だ!本当に、駄目なんだからな!」  ヨセフがそれを聞いて、彼らしからぬちょっと厳しい表情をして一喝する。 「うちはうち、よそはよそ!ね、ソティル、君の教育方針はパパである僕と、本人である君が話し合って決定して行こうね」  希望と期待をたっぷりと煌めいているアイスブルーの瞳に見つめられる。 もうそれでは「うん」と言うしかなかった。 ソティルの隣では声にならぬ声を上げて項垂れるレオンハルトが居る、俺はもう何も言わんぞという雰囲気が醸し出されている、声が止む頃にソティルはたまごサンドを食べ終えた。  腹の満腹具合的に、もう一つ食べたらお腹いっぱいになってしまうだろう、と思い、ならばとクリームチーズとジャムのサンドイッチを一口食べる。 その瞬間、ソティルの表情が変化する。 そうして、思わず感嘆の声を上げる。 「ものすごく美味しい……」  苺ジャムの素朴な甘みと酸味、つぶつぶとした食感。クリームチーズのこってりとしつつ爽やかな味となめらかさ。 それらが口の中で混ざり合い、ハーモニーを奏でる。 美味しい、美味しい、と何度も言ってぱくつく。 その様子を見て、ヨセフはとても幸福そうに瞳を細める。 「気に入ったようだね」 「ジャムが甘くて、少し酸っぱくて、チーズがなめらかで……美味しい。俺、きっと、甘いものが好きなんだと思う」  自分の食の好みさえも忘れていた。 貪りそうになりながらも、せっせと食べていくソティルの口元に、指が伸びてきた。 細く、白く、しなやかな指が、ソティルの口元をそっと撫でる。 その指先はひんやりとしているのに、視線は熱い。 ソティルの口元に付いていた赤く透き通った色のジャムを拭う。 そして、その指先の持ち主は、指で拭い取ったジャムを、ぺろり、と舐めた。 一瞬だけ、ソティルの目に映った彼の舌は、蠱惑的な赤色をしている。 品の良さそうな姿をしたヨセフが、そんな仕草を見せると、下品というよりも、官能的で、何かいけないものを見てしまったようになり、しかし、吸い寄せられるように魅入ってしまう。  ソティルはその一部始終を、見ていた、見てしまった。 自分の頬が、どんどん赤くなっていくのに気付いた。 客の前での羞恥はとうに無くなっているのに、ヨセフの行動を見て、とても恥ずかしくなった、恥ずかしいのに目を離すことができなくなった。 心臓を高鳴らせながら頬を染めるソティルに、ヨセフは蕩ける様な微笑を向ける。 「慌てて食べると、喉に詰まらせてしまうよ?ゆっくり、よく噛んで食べなさい」 「……は、はい」  ソティルは、ヨセフから視線をようやく外して、黙って、ゆっくりと、そして良く噛んでサンドイッチを食べた。 赤く透き通る苺ジャムよりも、はるかに甘い感覚が自分の中にある事に気付いた。  食後、ヨセフがソティルに自宅の住所を教えて、ソティルがそれをチェルシーに貰った手帳に書きつけていると、少し慌てた様子の看護師がやってきてレオンハルトが呼ばれて離席した、急患なのかもしれない。 彼はソティルの頭を、ポンと撫でて「またな」と言う。 「うん、また」  ヨセフの方はひらひらと手を振って。 「お仕事頑張ってねー」  と他人事のように見送った、お前も頑張るんだからな!院長!という言葉を吐き捨てて、レオンハルトは小走りで去って行く。 レオンハルトが居なくなると、ソティルはヨセフに訊ねる。 「ヨセフ、色々と聞きたいことがあるんだけど」  ヨセフは、ソティルの手帳を手に取って、ソティルの名前のスペルと自分の名前のスペル、そしてチェルシーの名前のスペルも綴った。 彼の外見から、もっと綺麗な字を書くような気がしていたのに、素早く達筆な文字を書いていた。 「僕が今、答えられる範囲なら答えるよ」  はい、と手帳をソティルの手元に戻す。 「ありがとう、ええと、まず……俺を拾った時の話だ、どうして俺を拾って助けたんだ?」 「医療に携わる人間として、死にかけている子供を救うのは大したことじゃあないよ」 「俺はあんなにみすぼらしくて、美しくなかった、瞳だって忌子の赤色だ。俺自身あの時助けてって言ったんだから、身体を治療して助けたのはともかく、なんでずっと傍に置いておこうとするのが分からない……さっきレオンハルトさんと話していた時は、ヨセフは美しいものが好きで、俺の魂を美しいと感じたんだろうと言われたんだ。本当に、そうなのか?」  ソティルは改めて、アイスブルーの瞳を見つめた。 彼の口から答えが出されるとき、それが正解なのかを確かめる。 「そうだよ」  アイスブルーは熱のこもったまなざしで、真紅の瞳を覗きこんだ。 「君の姿を見て、君の目を見て、魂の美しさを見て、思ったんだ……この子は僕の願いを叶えてくれるだろうと」  そう言えば……とソティルは思い返す。 ヨセフは初めて出逢ったとき、言っていた。 君の為なら何でもしてあげよう。けれど……僕の願いも叶えてほしい。  ヨセフはソティルの両頬を、壊れ物に触れるかのようにそっと掌で包んだ。 じっと、己の存在を曇りなき眼で見つめる少年。 その小さな存在は、果たしてヨセフにとって何を意味するのだろうか。 「ソティル、僕はね……呪われているんだ。とても、聖い人に」 「呪い……?」  まるで、全てのものから祝福されているかのような麗人は、寂しげに微笑んだ。 「どんな呪いなんだ?何故、呪われたんだ?」 「それはね……うーん……秘密だよ」  ヨセフがふにゃりと誤魔化すように笑った。 誤魔化すくらいなら、初めから呪われているだなんて言わなければいいのに、とソティルはやや不満げに思いながらも、とりあえず今は答えられないか答えたくないのだろう、と思う。 「それは今、答えられる範囲じゃないから?答えたくない範囲だから?」 「うん、僕は嘘を好んでいないからね。嘘は吐かないようにしているんだ、誠実だろう?」  ソティルは、まるで計算して造られたような完璧な美貌と笑顔を見て、思った事を口に出した。 「ヨセフは多分、嘘は吐かないだろうけど、嘘を吐かないために真実を語る事も無いんじゃないか?」  ヨセフはソティルの言葉に耳を傾けている「続けて」と一言、感情を排除し温度を持たない言葉で促す。 表情は、笑っているのに笑っているように見えない。 だが、怒りや悲しみや負の感情があるようにも見えない。 こんな曖昧な表情をする人は初めて見た。 「……ヨセフと出逢って、まだ少ししか経っていないけれど、思うんだ。ヨセフはきっと俺の事は内部まで明らかにしようとする、けれど、自分の内部は巧妙に隠そうとする人間じゃないのかって」  その言葉を聞いて、はああああ……とヨセフは眉を下げてようやく感情を顔面に浮かべて、ソティルに抱きついた。 背中に回された腕の力は、決して強くない。 小さなソティルを傷つけぬように、優しく抱きしめている。 抱きしめられると、花の香りが強くなる。 表情は見えなくなったが、ソティルはこの態度と彼の声を聞くに、的を獲た事を言ったのだと気付く。 「聡いんだね君は。聡すぎるんだ。それはそれで、君の好ましい一面なんだけどね。でも、それを見抜いたのは、長い付き合いになるレオンハルトとチェルシーくらいで、まさか出逢ったばかりの、まるで生まれたてみたいな男の子に見抜かれるとは……何たる失態だろう、長いこと生きてきて初めてだよ」  ソティルは、そっと、こわごわと、ヨセフの背中に手を回した。 男性にしては細い身体、ふんわりとして肌触りの良い髪の毛、酔いしれそうな花の香り。 この人はいつも楽しそうに微笑んでいる、けれど、心のどこかに弱い部分を隠し持っていて、それを他人に見せぬようにしているのかもしれない。  ソティルが、娼夫として微笑を浮かべ、自分の身を守ったように。 ヨセフも微笑によって、自分の事を守っているのかもしれない。 「ヨセフ……あの……その……俺、なんて言ったらいいか」 「君は、悪くないんだ。ただ僕が嘘を好まない誠実な人間のフリをして生きてきた、不誠実な人間なだけだからね」  少し、消沈したような声だった。 ソティルは慌てながらもヨセフの背中を撫でる。 「そうなのかもしれない、でも、ヨセフは俺を救ってくれた。誠実か不誠実かと言う前に、それだけは揺るぎない事実なんだから」  ソティルは不思議な気分になる、まるで機嫌が悪くなった子供をあやしているようだ。 随分大きい子供だが。 ヨセフの声が、返ってくる。 「君に、愛情らしきものを与えて、どろどろに甘やかして、心を開かせて、そして……利用するだけ利用して、最後には美味しく食べちゃうのかもしれないんだよ?」 「……魂を?」  ヨセフが噴き出す声が聞こえ、少し身体が震えた。 「いや、だって、魂の美しさが見えると言っていたから……ヨセフなら食べられそうな気がして」  笑いを堪える麗人は、もう一度吹き出しそうになって堪えて、ソティルを腕から離した。 その表情は、穏やかで、それでいて、悪戯っぽいものだった。 「魂は食べないよ。僕は悪魔ではないからね。悪魔的ではあるけれど」  ヨセフは、ソティルの小さな手に触れて、ゆっくりと指同士を絡ませていく。 その仕草、その瞳、そのかんばせ。 どれをとっても、ソティルにとってはどきりとして、顔を赤くさせるものだった。 一体、俺はどうしてしまったのか。 客に手を握られた所で、何一つ感情が動かなかったというのに。 ヨセフの前だと、身体に触れられることを恥じてしまう。ふと頭を撫でたり、親子の様に手を繋ぐくらいならともかく。 今の、手の触れ方は、親子のそれではなかった。 「ソティル」  やさしく、やわらかく。 ヨセフが魂に染みついた名前を呼んで、ソティルの指を、しなやかな指で撫でる。 ソティルの指先が、甘い感覚に痺れて、動揺する。 「もしも、君の魂を食べられるのだとしたら、僕は喜んで食べるだろうね」  やさしいのに、やわらかいのに、恐ろしい程に官能的な声音だった。 指だけではなく視線が絡まりあって、ソティルは目が離せなくなる。 ヨセフはそっと、ソティルに顔を近づけた。 妖艶な色香が漂ってくる。 「僕が実際に食べてしまいたいのは……ふふふ、ここでは決して口には出せないな。お巡りさんには捕まりたくないからね。でも、君はとても美味しそうだよ、きっと、僕が食してきたものの中で、一番甘くて、美味しいだろうね」  ソティルは空想する。 眼前にある天使のような美貌をした、妖艶な悪魔のような男を見ながら。 もし、ヨセフに、本当に食べられてしまったら。 ベッドの上で性行為をすることになったら。 金銭のやり取りの無い性行為をするなら。 恥ずかしくて身悶えてしまうかもしれない。 今まで男達に対してしてきた技術を、すべて忘れてしまうかもしれない。 服を脱がされることも。 キスをすることも。 押し倒されることも。 愛撫されることも。 それら全てに、まるで、ヴァージンのような反応をしてしまうだろう。 きっと、全てが恥ずかしく、それでも心地よいのだろうと。 「俺……は……」  空想から戻ってきたソティルは、赤面した表情を見ないでくれ、と顔をそむけた。 そして、振り絞るような声を出す。 「……心の、準備が、ほしい」  ヨセフが微笑みを深めたような気配がした。 「もちろん、君の同意無しにはしないよ。そんな事は、フルコース料理をお肉料理から食べるようなものさ。僕は、君の意思を一番に尊重してあげたいんだ。それに、多少お預けされた方が、きっと美味しさは増すだろうね。食前酒をちびちびと飲んで、今か今かと待っているよ」  やさしく、やわらかく、手を握られた。 もし、ヨセフに抱かれることになったとしても、彼は今まで取ってきた客の様に、乱暴ではないし、非常識でもないし、不衛生でもない。 一応、倫理的な感情は持ち合せている、はずだ。 それに、彼がソティルに触れるときは、いつもやさしく、やわらかな手つきで触れてくる。 アイスブルーの瞳は、汚れた欲望なんてものはなく、ソティルへの庇護欲と愛くるしいものへの好意が見て取れる。 声だって甘くて、ソティルを心地よい感情に導く。  そのやさしい手で、やさしい表情で、やさしい声で。 身体を愛撫され、瞳を見つめられ、耳元で囁かれたら、恐ろしく気持ちがいいのだろうと思う。  だが、どう受け入れて良いのか解らないのだ。 やさしさと甘さに満ち溢れた、接触を、今までした事が無いからだ。 記憶と身体に残っているのは、痛みと、苦しみと、歪んだ快楽と、精通前にも関わらず無駄に感度の良い性器と、ささやかな触れ合いでさえ感じてしまう肌。 今の自分は、ヨセフという存在をまだ受け入れがたく思っている。 人の善意や好意を受け取れる器が、人よりずいぶん小さいのだ。 ひもじい思いをして縮こまった、小食な胃袋の様に。 「何だか、悩んでいるようだね?」  ヨセフの頭が、ソティルの顔を覗き込もうと傾いた。 ソティルは長い睫毛を伏せて、自分の心の中をどう表現して良いものかを考えていた。 「うん……悩んでいる事が多くて、いろんなことを考えて、頭の中がごちゃごちゃとする」 「そうなんだね、なら……それを使ってみようか」  ヨセフが、“それ”と指差したのはソティルの膝に乗っている手帳の事だった。 一年のカレンダーが書かれたスケジュールを書きこむページと、罫線がひかれたノートのページがあり、先程ノートの1ページ目に、住所と名前を書きこんだばかりだ。 「その手帳を日記にするんだ、その日にあった事、感じたこと、心を動かされたことを自由に書いてごらん?日記をつける事で、自分の心の状態を客観的に把握できるんだよ。今は色んなことが起こって混乱しているけれど、それを文章にして書き出すと思考や感情の整理整頓ができるよ」  ソティルは、手帳をちらりと見て「そうなのか……」と呟く。 それから、逸らしていた顔を戻して、ヨセフの事もちらりと見る。 「そうしてみる」 「うん、毎日書く必要はないし、気が向いた時でもいいんだ、他人に見せる必要も勿論ない。君のペースで書いていけばいいんだよ」  ソティルは空白が目立つノートのページを見た。 鉛筆を手に取る。 「今日の日付はいつだ?」  ヨセフは目玉だけを上に動かして、思い出す。 「えーと、貧民街で出逢ったのが25日だから、今日は3月28日だよ」 「ありがとう」  ソティルはその日付を、開いたページに書き込む。 住所と名前が書かれた下から、文章を書いていく。 【3月28日 よく晴れている。 ヨセフに彼の息子として迎えられた。彼は優しい人だ、俺の事を救ってくれた、とても感謝している。家事使用人のチェルシーさんは料理が上手で、ヨセフと同じく優しい人だった。ヨセフが院長を務めるオッペンハイム医院にて、レオンハルトさんと出逢った、彼もとても良い人だ。俺は今、俺に好意を向けて良くしてくれている彼らを信じる事ができない。できないけれど、信じる努力はしたい。彼らから与えられた善意や好意は、受け取れないと感じても、仮にでも受け取っておく】  時間をあまりかけず、力強い筆跡でそう書き記した。 ヨセフは隠すつもりなく書いていたであろうそれを見ていて、表情をだんだんと柔らかくする。 「今日だけでも、いろんな人と出逢って、いろんなことを見聞きして、いろんなことを体験したから、書くことが沢山あるな」 「若いソティルには、まだまだ時間があるんだ。ゆっくりと書いていくと良い」  まるで年老いた老人のような口ぶりで、ヨセフが言う。 ヨセフのかんばせには、ソティルにとって段々と見慣れつつある天使のような微笑。 この手帳のページを全て埋め尽くしても、次の手帳に何かを書き続けても。 俺には、こうやって人々に幸せを与えるような、天使の微笑はできないだろう。 ソティルは、ふとそう思った、だが、その言葉は今は口にせず、後でひっそりと手帳に書きだしてみようと思った。

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