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第5夜 呪われたふたりに、乾杯

 ヨセフとソティルは院内に戻った。そして、ヨセフはまだ仕事があるので、一人にしてしまうけれど、院長室で過ごすか、ナースステーションで看護師さんたちとお喋りしていても良いと言われる。 あまり沢山の人とは喋りたくない上に、人の仕事の邪魔はしたくない、日記も付けておきたいと考えて、院長室に居させてもらうことにした。 ヨセフに連れられて、院長室に入る。 そこは、散らかった空間だった。 「家の中は片付いていたのに……」  ヨセフの住む家はインテリアは多いものの決して散らかっている様子はなかった、院長室は足の踏み場もない程に散らかっている、と言うわけではないが、ただ単純に物が多く、物があるべき場所に置かれず、あらぬ所に放置されているだけだ。 ヨセフはソティルに腰を掛けられる場所を案内する。 「綺麗好きなチェルシーが居るから、家の中は綺麗なんだよ。それに、ここは人に見せびらかす様な所じゃない、僕が仕事をする場所だから多少散らかしても構わないさ。たまには整理整頓するよ?そこまで不潔というわけでもないよ?あ、暇になったらそのへんの本を読んでも良いよ」  ソティルはレオンハルトの私室のソファーよりも座り心地の良いソファーに腰かける。ただ、そこにも本や書類が置いてある。その前に置かれたテーブルにも、やや雑に書類が散らばっている。 ヨセフはソファーとテーブルにある散らばったもの達をかき集めて、マホガニーのデスクに置いた。院長室にも立派な本棚があり、デスクも高級なものだろう、絨毯も質がよくふわふわとしている。 家具の配置や質を見ればよい部屋だと思える。 だが、いかんせん物が多く、何かと散らばっている。 ソティルはヨセフの、片付けがやや苦手らしいという意外な一面を見て、少しほほえましく思っていた。 「チェルシーさんがこの部屋を見たら、きっとすぐさま片付けだしそうだ。本は、俺が読んでも良いような物なのか?というか、俺に読める本があるのか?」 「ここはチェルシーに見せたくないね、怒られちゃいそうだ。ここにある本は、医学関連書籍が多いけれど、僕が読みたいと思って買ってきた小説もあるんだ、たいがい読めずに積み上げてしまう事が多くてね。とにかく何でも読んでいいよ。この部屋の物も、自由に使っていい。院長先生のデスクでふんぞり返ってみても良いし……あ、喉が乾いたらカフェテリアに行って何か買ってくると良いよ」  ヨセフはポケットから薄い財布を取り出して、ソティルに紙幣を渡す。 飲み物が数杯買える上に、おやつも付け足して買えるくらいの金額だ。ヨセフからすれば、お小遣いだろうがソティルからしてみれば汗水たらして仕事をしても手に入らないかもしれない金額だった。 「ありがとう、仕事頑張って」  ソティルがヨセフを見上げてそう言うと、ヨセフは屈んで、ソティルの額にキスを落とす。 黒い髪をと柔らかな頬を撫でて、真紅の瞳を見つめる。 「いってくるよ、良い子で僕の帰りを待っていてね」  囁くような声でそう伝えて、ヨセフは部屋から出て行った。 ソティルはその背中を見送った後、渡された紙幣をひとまず鞄の中にあるポーチにしまって、手帳と筆記具を取り出す。 誰も居ない部屋で、独り言を言う。 「どうしてヨセフのキスは、触れるときの指先は、あんなに柔らかくて。やさしくて、甘くて」  鉛筆を持った手が、文字を書いていく。 「どうして、あんなに気持ちよくなってしまうんだろう……」  ソティルは微かに頬を染めて悶々としながらも、今日あったこと、考えたこと、感じたことをざっくばらんに、ありのままに、こと細かく書いていく。 文章として長く書いている事もあれば、簡単に箇条書きすることもある、また様々な図形の中に文字を書いて矢印を書いたりもする。 今まで感じたことを、整理整頓する。  時間と労力を割いて、沢山のページを使う。 途中で食後の満腹感から眠たくなり、支離滅裂な文字を書いてしまったので、これでは駄目だ、と手を止める。 ソファーから立ち上がり、部屋をうろついて目を覚まそうとした。 それでも、眠気はなかなかさめず、院内のカフェテリアまで足を運んで温かい紅茶を購入し、院長室に戻ってそれを飲んだ。 紅茶の良い香りで心が落ち着き、飲むことで適度に体が温まり、余計に眠くなってしまう。 「少しだけならいいか……」  そう呟いて、ソファーに寝転んだ。 ふかふかとしたソファーで、ふわふわとした眠気に包まれる。 瞼の重みに耐えきれず、目を閉じる。 だが、2分ほど経って、目を開けて、険しい顔で起き上がる。 小さな手で、ソファーの背もたれに触れる、ふかふかな触り心地はどれだけ触れても変化しない。次に、ソファーから降りてカーペットの上を歩く。 しゃがんで、そっとカーペットの触り心地を確かめる。 転んでも、寝そべっても、痛みを感じないであろう柔らかさだ。 「うーん……」  唸りながら院長室の扉を開けて、廊下の床を見つめた。 固そうな材質でできている。 そして……神妙な面持ちで扉を閉じる。 「いや……廊下で寝転がるのはさすがに、良くない。病気か何かで倒れているように見える」  身体を動かそうが、口を動かそうが、まだ、眠い。 だが、寝ない事にして、もう一度手帳に向き合う。 「ここは貧民街じゃない、地獄ではない。でも、ここが、天国だとしても、俺はまだ、地獄に居るような気持ちだ……」  ソティルはその独り言も、手帳に記入していく。 彼は認識していないが、その思考はとめどなく溢れる泉のようだった。 ソティルは今まで、考え込むことが多かった。 教会の孤児院に居た時も、貧民街で暮らすことを選んだあとも。 その思考はまだ幼い子のものではなかった。  ソティルはいわば、小さな哲学者だったのだ。 人の生きる道の事、この世界の事、様々な物事の在り方、それらについていつも考え、疑問を浮かべては、自分なりの答えを出していく。 彼にはいつも、知への愛があった。 そして、哲学するうえでの洞察力があった。 物事の本質を見抜き、人の言葉やしぐさや表情から心を読む。  ソティルはまだ気づいていない、自分の才能を。 知的好奇心、執着心、探究心、ヒトやモノを見る目、哲学的思想、それらを纏め上げる頭脳。  彼を一目見た瞬間から、魂の輝きを見た時から。 ヨセフは彼の本質さえも見て、理解した。 ソティルに、魔術の才能がある事を。  ノックの音もなく扉が開いたことに、ソティルはびくりとする。 睡魔に負けて、座りながらうつらうつらとしていた。 なぜだか、鉛筆は握りしめたままで。 驚いた瞬間に、鉛筆はカーペットの上に落ちた。その先端は丸くなっている。 ずいぶん沢山の文字を書いたので、ソティルは部屋から鉛筆削りを拝借して、何度も削っていた。 「ソティル、良い子で僕の帰りを待ってくれたね」  扉から入ってきたのはヨセフだった。 自分の私室に入るのにノックは必要ないという顔をしている。 ソティルに近づいて、しゃがんで抱きしめようとして。のばされた腕が止まる。 「君、眠たいのかな?」  ヨセフはソティルの顔を見て、そう言った。 転げ落ちた鉛筆を手に取って、随分丸くなってしまったそれをソティルに手渡す。 瞼を重たげにしているソティルは、それを受け取り、ゆっくりとした動作で広げた手帳を閉じて、筆記具と共に鞄にしまう。 「……ちょっとだけ、ねむい」 「そっか、疲れちゃったんだね。日記は書けたかい?」 「ああ、うん……20ページくらい使って。ああ、そうだ……ヨセフ、鉛筆けずるやつ借りた」  に……にじゅう……と呟いて、ヨセフが一瞬、神妙な面持ちになる。 他人に見せる必要はない、と自分が言ったのにもかかわらずどんなことを書いたのか知りたくなってしまう。 「レオンハルトがその事を聞いたら、驚くだろうな。彼、文章作成能力が低くて、いつも困っているから」  レオンハルトは文章を読むのに苦労したことは無い、だが、書き出す事になると苦手意識を持ちだして、診断書や論文とにらめっこをしては頭を痛めている。 そして、最終的に開き直ったような顔で「書けん!」とヨセフの手を借りにくるのだ。 という話を、ヨセフはソティルに伝えたが、肝心の彼はまだ眠りに苛まれている。 うとうとしているソティルを、微笑ましく見て、ヨセフが彼を軽々と抱きかかえる。 「帰ろうか、ソティル。僕達の家に」 「……俺達の、家?」 「うん、僕達の家。君は僕の大切な息子なのだから」  ソティルの背中を一定のリズムで優しく叩くと、ソティルは微かにくぐもった声を上げたが、それはすぐに寝息に変わってしまう。 「子供って、とても軽いな……でも、ちょっとだけ重たいんだよね。これは、きっと命の重みなのかな」  そう囁いて、ヨセフはソティルが持ってきた鞄と、自分の荷物も持って、帰ることにした。 重たい命も抱きかかえているので、このまま歩き続けるよりも魔術で移動した方が何倍も早い。院長室から自宅の前まで移動することにする。 夕闇で薄暗くなった住宅地に一瞬で戻ってきて、自宅玄関のベルを鳴らす。 少しして、チェルシーが扉の鍵を開けて出迎える。 「お帰りなさいませ、旦那様。あらあら……ソティルお坊ちゃんはお疲れのようですね」  夕方なのにあちこちにある燭台の灯りで、十分な明るさを保った家の中に入る。 室内にはシチューのまろやかな香りが漂っていた。 チェルシーはヨセフの荷物とソティルの鞄を預かった。 「色々とあったからね、心労でくたびれちゃったんだよ」 「左様で御座いますか。夕食は如何なさいますか?」 「どうしようかな……寝た所を申し訳ないけれど、起こそう。眠ったままじゃあ、夕食は摂れないし、お風呂にも浸かれないからね」  夕食の支度が整い、芳しい香りのするリビングダイニングへ向かった。 チェルシーが部屋の扉を開けて、主人とお坊ちゃんを中へ通す。 ヨセフはリビングにある暖炉近くのソファーに、そっとソティルを横たわらせた。 院長室に在った物よりもさらに高価なソファーである。 ヨセフはわりとよくこのソファーを使っている。暖炉の近くで温かいうえに、座り心地も寝心地も良すぎるので、ワインを飲んで酔っ払ったり、だらしない格好で本を読んだりするのに良い場所なのだ。 そんな、自分が落ち着ける場所で、ソティルもどこか穏やかに寝ている。 「ソティル、起きて欲しいな」  ヨセフはソティルの頬を、つんつん、とつつきながら起しにかかる。 頬はぷにぷにと柔らかい。その感触を楽しむように、ヨセフは突いたり、撫でたり、抓んでみたりする。 それでもまだ、ソティルは起きない。 「今日の夕食のメニューは……何かな、チェルシー」 「温かいシチューですよ。新鮮な牛乳とバターを使ったものです。パンもありますし、サラダもお付けします。そして……デザートもございます」 「だそうだよ、ソティル。君が起きないと、僕が君の分まで食べちゃうよ?」  ソティルはやや身じろいで唸った、もうひと押しかもしれない。 「チェルシー、デザートは何かな?」 「これは、食後のお楽しみにと秘密にしていたのですが。今回は特別にお教えしましょう。瑞々しく、甘く、ほんのりと酸味のある、苺を使ったタルトですよ」  苺、という単語を聞いた瞬間、ソティルは目をそっと開いた。 「……いちご」  まだ眠気の残る声で呟いて、目を擦りながらゆっくりと起き上がる。 ヨセフもチェルシーも、急に目を覚ましたソティルに驚いたが、穏やかに話しかける。 「ええ、苺のタルトを食後のデザートとしてお出ししますよ」 「チェルシーの作るタルトはね、それはそれは、とても美味しいんだよ。紅茶と一緒に食べるとさらに美味しい!」  ソティルはぼんやりと、ヨセフの顔とチェルシーの顔を見ていたが、急にハッとして、チェルシーに向かってこう言った。 「あっ!チェルシーさん……あの、サンドイッチがとても美味しかった、たまごのと、苺ジャムとクリームチーズのしか食べられなかったけど。苺の……ジャムが、物凄く美味しくて!家に帰ったらすぐにチェルシーさんに言おうと思っていたんだ……ん?え……ここは、家?」  ソティルはチェルシーに、自分が衝撃的な美味しさを感じた苺ジャムとクリームチーズのサンドイッチの事を話したかった。どれだけ美味しくて、どれだけ幸せな気分になったのかを、説明したかった。そして、それを作ってくれたチェルシーに感謝を述べたかった。 ソティルはあまり働かない頭で、手を動かしながら身振り手振りで興奮気味に、おおむねそれらを伝えたが、その後、家に突然帰ってきている事に驚いた。 「俺、院長室で……とても眠くなって。それで、ヨセフが……運んでくれたのか?」  ソティルがだんだんと落ち着きを取り戻すと、ヨセフがにっこりと笑いかける。 「目覚めたんだね、ソティル。チェルシーが僕たちの夕食を作ってくれたんだよ」 「そうか……ありがとう、チェルシーさん。それに、ヨセフも、ここまで運んでくれて、ありがとう」  チェルシーは口に手を当てて、おほほ、と上品に笑った。 ヨセフはどうってことはないよ、とソティルに手を差し伸べた。まるで、女性をダンスに誘うかのような仕草だった。 ソティルは手を取って、立ち上がる。 一瞬、くらっとする。 ソファーから立ち上がるなりふらついたソティルの身体を、ヨセフが抱き留めた。 彼の事を気遣うように、抱き留めながら頭を撫でる。 「大丈夫かい?気分が悪いのかな?今日は随分疲れただろうからね」 「ん……め……まい、みたいな……ふらふらする、ような」 「貧血だね、血色素が基準値以下だったから……それに、お腹も空いていて低血糖状態も良くないだろうね。君を抱きかかえると、とても軽くて心配しちゃうよ」  ヨセフに支えられながらも暫くして、めまいの症状はなくなる。 「今日から沢山食事を摂る生活をして、元気になって、すくすく育つんだよ。君はこの国で一番の美丈夫になるんだ、僕が保証するよ」  ヨセフは事ある事にソティルを褒める様なことを言うので、ソティルはそれをむず痒く思う。だが、一応、仮にでも好意は受け取り、ありがとう、と伝えたい。 与えられる好意をいちいち疑ったらきりがない、これはまだ一方的なものだと考えた方が良い。もし、好意を喜んで受け取れることができたなら、きっとそれは人間として成長できた証なのだろう。 「ソティル?まだ少しぼんやりしているね、どうしたんだい?まだふらふらするのかな?」  思考の渦にはまり込みそうになったソティルの顔を、ヨセフが覗き込む。 これはいけない、考え込んでしまうのは美点でもあり悪い癖だ、とソティルは返事をする。 「大丈夫、もう眩暈はしない。ちょっと、考え事をしてた」 「君の話したい範囲内で良いんだけど、食事を摂りながら考え事について聞かせてほしいな。今日は色んなことがあったから、君が何を感じ取ったのか知りたいんだ」  さあ、食事にしよう!と家主が声高らかに言う。 チェルシーは料理の配膳に取り掛かる前に、2人に手を洗ってきてくださいね、と伝えた。 言われた通りに手を綺麗に洗って、食卓に着く。 今朝と同じく、上座に向かい合わせで二人が座る。  テーブルの上には温かな白いシチューと、切り分けたバゲットとバター、大き目の白い器にふんわりと盛り付けられた色鮮やかなサラダが揃った。 ヨセフには白ワインが、ソティルには白葡萄のジュースがワイングラスに注がれた。 ワインのグラスを傾ける前に、ヨセフはソティルに向けてこう言った。 「ソティル、今日は記念日だね。実際にこの家にやってきたのは3日前だけれど、あの時は高熱を出して意識が無かったからね。今日は、君と沢山お喋りをして、君の色々な表情を見た、君の事を知る事が出来た」  ヨセフは品のある手つきで、持ち上げたワイングラスを見つめる。 しなやかな指先が、ワイングラスのステムを掴んでいる。 「君が僕の傍で、沢山の事を学び、沢山の食事を摂り、沢山の経験を得て、お酒が飲めるような年齢になる事を、とても楽しみにしているよ。君が成人したら、今夜飲んだワインと同じものを君に振る舞おう」  ワイングラスに映した目線を、今度はソティルの顔に、瞳に向ける。 「君の瞳は呪いではなく、祝福の光だよ。僕にとっての、救いなんだ」  真紅の瞳が炎の様に揺らいで、アイスブルーの瞳を見つめる。 風を受けない湖の様に、それは凪いでいた。 ソティルは、アイスブルーの瞳を見つめながら、頭の中から言葉を選んでいく。 「……俺にとっても、ヨセフは救世主だ。俺は、ずっと死なないために生きてきたんだ。教会でみんな死んでしまったから、俺だけは生きて、とことん足掻いてやろうと思ったんだ。この世界に、不幸にされ、呪いを抱えて生まれたのならば、俺は嫌がらせの様に生きてやろうと思っていた。ヨセフは昼に言っていたな、自分が聖い人に呪われているって」  選び抜かれた言葉は、するりと声帯を介して口から発せられる。 「俺達は呪われている。呪われた者同士、これから……よろしくおねがいします」 じっと見つめていたアイスブルーの瞳が、凪いでいたはずのそれが、少しだけ小波がたった、ような気がした。 揺らいだその色は、一瞬のことだった。 ヨセフは穏やかな視線に戻って、口を開いた。 「うん、呪われたふたりを祝して、そして、食事を作ってくれたチェルシーにも感謝して。乾杯しよう」  ソティルも自分のグラスを持ち上げた、視線を合わせながら、それを上げる。 乾杯の声の後、ジュースを口に含んで上品な甘さを楽しんだ後ソティルはシチューを磨き抜かれた銀のスプーンですくった。  鶏肉、じゃがいも、人参、ブロッコリーが牛乳を使ったベシャメルソースで煮込まれたシチューだ。 口に入れるとなめらかな味わいで、乳脂肪分の高いクリームやバターが使われているからコクがあり栄養価も高い、良く煮込まれた鶏肉も野菜も柔らかい。 ソティルはその時気づいていなかったが、チェルシーは煮込み料理を作るとき、具材の大きさをヨセフの口の大きさに合わせて切っていた。成人男性の一口分は、子供には大きい。 今日作ったシチューはソティルが食べやすいように食材を小さめに切ってある、その上、ヨセフの皿に盛られたものよりも、ソティルに盛られたシチューは鶏肉がやや多めだった。  シチューを、ふーふーと息を吹きかけて冷ましながら、美味しそうに食べているソティルを見つめて、ヨセフは意味ありげに笑っていた。 旦那様の好みよりも、突然息子とすることにしたお坊ちゃんへの配慮をした有能な家事使用人を心の中で称賛し、あとで労っておこうと思っていた。 「……俺の顔に何かついているのか?」  意味ありげな視線に気づいて、ソティルが疑問のこもった問いをする。 ヨセフは彼の口を見ていた。 「ううん、ソティルのお口は小さいなーと思ってね」  スプーンで少しずつシチューを口に含むソティルは、それはそうだろうと、頷く。 ソティルが食べ物を口に含んで咀嚼する場面は、まるで小動物の食事風景のようであった。 もともとがつがつと食事を摂るタイプではない、貧民街に居た頃もたった1個のカビが生えてきたパンを、大切に何日かかけて少しずつ食べていたのだ。 「普通、子供は大人よりも口の大きさは小さいだろうな……」  ソティルはバゲットを一口サイズに千切って、口の中に入れながらもぐもぐと咀嚼する。 そして、芳ばしさとバターの香りを味わいつつ、先程のヨセフの意味ありげな笑い方と、彼の視線が自分の口元にあったことを思い出す。 口が小さい、と言った真意を考える。 「今、いやらしいことを考えてないか?」  ソティルには歪曲して伝わってしまったようで、ヨセフは、人にものを伝えるって難しいな……と思いながらも、それに乗りかかった。 「うん、そうだよ。食欲と性欲というものは、とても密接に関わっているからね。食への興味の度合いや、食事の仕方を注意深く観察すると、その人がどんな人なのかが分かってくるものなんだよ。僕は、食事のマナーが良い人や、食べ物を美味しそうに口にする人、それに、食への興味が深い人が好きだな」  食欲と性欲は密接に関わる。 そして、食事の仕方や食への興味でその人がどんな人か分かる、という事は、ベッドでどんな様子になるかを予測する為のものなのかもしれない、そうソティルは捉える。  ソティルは、ヨセフの前でしていた自分の食事風景が、どんなものだったのかを思い出す。 貧民街に居た頃は、胃の中に入って栄養になるならば、雑草だろうが虫だろうが生ゴミだろうが何だって口に入れていたが、この家に来てからは教会で教えられたテーブルマナーを守っている。 病院の庭で昼食を摂るときは、サンドイッチがとても美味しくて顔を綻ばせた。 苺ジャムが好きになり、寝ている所に苺タルトの話題を出されて起き上がった。 ヨセフの心の的を獲ている。 だが、ソティルは照れ隠しの様に、あるいは自分の事を性的な目で見たことへの嫌がらせの様に、貧民街でよくある事を話しだす。 貧民街ではよくある事だが、上流階級の人間にとってはとても刺激が強い話だろう。 とはいえ、虫や草や生ゴミの話題は刺激が強すぎるだろう、とそれなりに配慮して口を開く。 「食への興味……今まで飲んだ水たまりの中で、不味かったものと美味しかったものをランキング形式で発表するか」 「い……いや、けっこうだよ、けっこうです」  ヨセフが引き攣った笑みで手を振るが、ソティルは何でもないような顔をしながら口を動かし続けた。 「人が足を踏み入れていない所の雨水は飲みやすい。上澄みをゆっくりと飲むんだ、犬の様に這いつくばって。土の上に降った雨は、正直に言って土そのものを飲んでいるようだった。あと、水たまりは鮮度がいい方が美味しい、日が経ってくると、湧くから。ああ、でも、に飲むものよりかは」  至極真面目そうな顔をしてそこまで言い進めていると、キッチンからチェルシーの尖った声がかかる。 「まあ、ソティルお坊ちゃん。食卓でそのようなお下品なことは仰らないで下さい。お坊ちゃんは今後の人生で、水たまりの雨水も泥水も口にする事は絶対に無いのですから。それに、旦那様も食卓で破廉恥な事を話題にするのは止して下さい!デザートを食べたいなら、そのような話題はお止め下さい」  チェルシーの気分を損ねて、デザート抜きにされたら大変だ。 二人はすぐさま謝って、品よく食事を続けた。 ソティルは食事を摂りながら、日記に記入したことや、先程褒められた時に、それをむず痒く思った事も話した。 いずれは、好意を心から喜んで受け取り、ヨセフが望むように立派に成長したいという事も。 ヨセフは冷静そうな表情をしながら話を聞いて、適切なタイミングで相槌を打ち、言葉巧みにソティルの思考の中から言語化し辛い話を引きだし、そのお話はこういうことかな?とソティルの思考から出てきた言葉をソティル以上に分かりやすく整頓してくれた。 ヨセフは心理カウンセラーに対してクライエントが悩みを打ち明ける治療法に近い事を、食卓でやってのけた。 「ソティルは、とても沢山の事を考えて、悩んで、抱え込んでいるね」 「そうなのか?」 「まだ、客観的に見る事が出来ていないから、自分のしている事をあたりまえだと思ってしまうのかもしれないね。けれど、ソティル程の思慮深く聡い子供はなかなか居ないと思うよ。居ないけれど、それは勿論恥じる事でも隠す事でもない、胸を張ってその長所を伸ばしていけると良いね。10才だった頃の僕に、ソティルの聡明さを見せつけてやりたくなるよ」  ヨセフの子供の頃の話を聞いてみたくなる。 ソティルは、サラダの中の軽く茹でたアスパラガスをフォークで刺して聞いてみる。 「ヨセフは昔、どんな感じだったんだ?」 「……うーん、一言でいえば。愚か者だよ」  あまり深くは語りそうにない彼から、もう少し聞き出せるだろうか、とソティルは思案する。 「そういえば、昔は靴屋をしていたと聞いたな。それに……25年前の戦時中では国境沿いでレオンハルトさんと出逢って、その後、靴屋になったのか?で、今は……医者と魔術師?」 「間違いと正解が入り混じっているね」 「ヨセフがはぐらかすから、ずっと混乱しているんだ。もう一度年齢を聞いても良いか?」  ヨセフはワインで口の中を潤して、うーん、と首を傾けて。 「だめ、まだ教えてあげない」  ソティルはそう言われても、諦めずに頭を働かせた。 食事を摂っている事で、恐らく頭にエネルギーが運ばれている、空腹と眠気の中での思考よりも冴えているはずだ。 何らかのヒントが、会話の中にあっただろう。 気になった言葉を、噛み砕き、答えを出そうとする。 ヨセフは、昼食の時に自分が聖い人に呪われているという事を口にしていた。 そして、その後は呪いについても、聖い人についても口を割らなかった。 「ヨセフ、この家に……いや、院長室の本棚やデスクの上でもいいけど」  ソティルは、自分が一歩ずつ、ヨセフの中へと、入り込もうとしているような感覚になった。慎重になりながらも、一歩踏み出すように。 「……聖書はあるか?」  ヨセフは少しだけ驚いたかのような表情をしていたが、すぐに柔和な顔に戻る。 「いいや、無いよ。恐らく君の読み通り。家の本棚にも、職場の院長室にもない。ただ、内容はだいたい頭に入っているからね、僕はもう読む必要は無いと思っている。僕があれを理解する必要もない、あれの内容で救われるような人間ではないから。もし、聖書が読みたくなったら教会に借りて読んでね、でも、聖書は僕の家に在るべき物ではないと思うから、購入はしてあげられないよ」  柔らかい表情をしているのに、声音はどこか淡々としている。 質問にきちんと答えてくれたようだ、だが、なぜ聖書が無いのかは明かさない。 嘘はついていないが、真実を誤魔化している。 全ての問いに答えてくれるわけではない、と最初から思っていたのでソティルははぐらかされなかっただけでも良しとした。  ソティルは聖書の内容を思い出そうとしていた。 だが、まだ細部に至るまでは思い出すことができない。 本が大好きだった彼は、読書をこよなく愛していた。 だが、年月とストレスは記憶を薄くしていた。  神父や修道女に聖書にまつわる話をしてもらった事も思い出す。 彼らの話のほとんどは、子供に分かりやすく噛み砕かれた内容で、聖書を読むにあたってはここだけは押さえておきなさいというポイントについて聞かされた程度だ。  神の子の復活。 ソティルの淡い記憶の中ではっきりしているのはその部分だ、それは神父から何度も聞かされたものだ。 犯してもいない罪を擦り付けられた神の子は、重たい十字架を背負い、丘を登り、様々な人から罵倒されながら刑場へと歩いていく。 そして、十字架に磔になって処刑される。 だが、3日後、神の子は蘇る。  10才より前にここまで理解していれば、もう十分なものだったが、ソティルはもやもやとした感情を抱えたままだ。 誰か神の子に呪われるようなことをした人物が、聖書の中に記されていなかったかを思い出そうとした。 ヨセフの言う、聖い人が、神の子であるとすれば……と考える。 思い出そうと聖書の登場人物の名前や、名もなき登場人物を思い出そうとする。 おおかた思い出してきたが、正直な所、人間にしてきた事よりも、神の子が無花果の木を呪った悪辣なエピソードが目立ってしまう。  神の子が、無花果の木に近づき実をもぎ取ろうとして、その木に実がひとつも無かった為に神の子が木を枯らしてしまった話だ。 ヨセフはどう見ても無花果の木ではない、たとえ、無花果の木が人間になったとしても……いや、木は人間にはなれない。 考えた所で、聖書が書かれた当時の人間は、もうこの世には居ない。 神の子の呪いを受けて、その後、長い間生きることなど可能なのだろうか。 むしろ、呪いをかけられたのであれば、早死にするのではないか。 「うーん、考えても謎しか浮かばないな。時間を戻して、少年兵として戦場に居たんだから、ヨセフの年齢は30歳以上、レオンハルトさんは35歳で……」 「そうだね、」  ん?と、ソティルはフレンチドレッシングのかかったトマトをフォークに突き刺したまま、首をかしげる。 考え込んでいた為、食事の手は止まっている。 トマトは長いことフォークに突き刺さったままだが、ソティルは違和感を覚えた事を口に出す。 「……少年兵……」  トマトを口の中に収める、糖度の高いトマトだが、あまり味わっているような余裕は無かった。ソティルがトマトを食べると、皿の中身が全て空になる。 チェルシーがおかわりを勧めてきたが、ヨセフもソティルも断った。 彼女は手早く皿を下げて、デザートの準備に取り掛かった。 「だったら……だったら、だとしたら」  ヨセフの一言で、25年前の戦争当時、レオンハルトと同じ少年兵だと思っていたヨセフの存在が曖昧になる。 ソティルは、戦時中に左足を地雷で吹き飛ばされた時のレオンハルトの話を思い出す。 足を吹き飛ばされ、痛みでのたうちまわっている時に、アヘン入り赤ワインを口移しで飲まされた。 白銀の髪をした人物は、恐怖も痛みも消えたレオンハルトにこう言った。 義足を用意したよ、と……そして、その人物は我が国では白い天使と呼ばれ、敵国では白い悪魔と呼ばれた。 その話を聞いたソティルは、ヨセフは幼い頃少年兵だったのだと思った。 しかし、レオンハルトからははっきりとした返答は帰ってこなかった。  レオンハルトは、ヨセフと出逢った時の事を語るとき、白銀の髪をした人物、と表現した。 白銀の髪をした、少年兵ではなく。 そして、白銀の髪をした人物は、義足を用意してきた。 ただの少年兵が、義足を用意することは果たして可能なのだろうか。 それからもう一つ、レオンハルトが言っていたことを思い出す。 『お前な、戦時中に何をしでかしたか覚えているか?』  それに対するヨセフの答えは、覚えていない、との事だった。 大量の薬物とアルコールを摂取していて、いつだって正気ではなかったとも言っていた。 国も、自分を正気では居させてくれなかったのだと。  レオンハルトの言葉と魔術を毛嫌いする様子から、恐らくヨセフは25年前から魔術の使い手だったのだろうと思う。 そして、それによりレオンハルトの言う、何かをしでかしたのだ。 もしかすると、白い天使や白い悪魔といった呼び名は、魔術ゆえの名称だったのかもしれない。 この国が、ヨセフを正気ではない状態にしたかったのは、魔術によって戦場で戦う事を躊躇わせないためだろうか。 「……まだ、判断材料が足りないな」 「随分と考え込んでいたね、たった一言で」  まるで他人事のようにヨセフが言った。 「うん、答え合わせはまだ先だな。ヨセフが少しずつヒントを出してくれているのは分かるんだけど、はっきり言って随分遠回しで、分かりづらい。でも、いずれは答えに導かれるんだろうな、とは思う。呪いについても、聖い人についても。それに、ヨセフの謎を解き明かしていくのは、嫌じゃない、むしろ……ちょっとだけ、楽しい」  ちょっとだけ、と言いながらも、ソティルは探究心で瞳を輝かせていた。 ヨセフもまた、楽しそうに微笑む。 「いずれ君が、僕の全てを暴いてくれることを期待しているよ」 どこか甘さを含んでいて、夜に自分のベッドへと誘うような声音だった。 暴く、よりも、暴かれたい。 と、ソティルはほんの少しだけ思ってしまい、歯を噛みしめた。 揺れ動いた思考や感情を、ヨセフに悟られぬように、キッチンからデザートを持ってきてくれたチェルシーに視線を移す。 彼女の手には、勿論、苺のタルトがある。  やや小ぶりの1ホールを、8等分してあり、大皿に乗せたそれをテーブルに置いた。 ソティルとヨセフに一切れずつ取り分けて、紅茶が入ったティーポットと、ティーカップを持ってくる。 ティーポットもティーカップも華やかな絵が描かれており、恐らく高級品だろう。 注がれた紅茶は、とても香りが良い。 レオンハルトが持ってきてくれた者よりも、比べ物にならないほど茶葉の単価が高いだろう。 「さあお坊ちゃん、たんと召し上がってくださいな」  ソティルは目の前にある苺タルトをじっと見つめた。 タルト生地にカスタードクリームを乗せて、その上にスライスされた苺が芸術的とさえ表現できる美しさで並べられている。 苺の表面には薄くシロップが塗られて、つやつやとした輝きを出している。 それに、苺タルトが乗っている丸い皿には、写実的な野山に実っていそうな苺の絵が描かれていた。 「ありがとう、美味しそうだ」  目で鑑賞するのに満足したソティルは、今度は味で満足するためにフォークでそれを食べだす。 タルト生地がサクサクとしてバターが香り、カスタードクリームはとろりと甘くこってりとした卵の美味しさとバニラの香りがする。 そして苺は、カスタードクリームと合わせて食べることで、果実の爽やかな甘みと酸味が楽しめる。しかも、摘んできたばかりのようにみずみずしい味わいだ。 「とても満足そうだね」  優雅な手つきで紅茶を飲むヨセフは、ソティルと同じく満足げだった。 じっとソティルの方を見つめるアイスブルーの瞳には、本当に満たされた者が浮かべる幸福感がある。 「ヨセフの方が満足そうだ」  ソティルはとても幸せそうに、満足そうに、ぱくぱくと苺タルトを食べすすめていく。 だって、それは、僕が君のパパだからだよ。 ヨセフがそっと囁くようにそう言った。 ソティルの口元を見つめている。 カスタードクリームが、口の端に、ほんの少しだけ付いていた。

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