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幸せな一日#1
総合病院の駐車場で、震える手でスマホを握った。
五時を過ぎてもギラギラと照りつける日差しが顔に当たって、おれは建物の陰に隠れる。暑くて、息が苦しい。でもこの息苦しさは、きっと暑いから、だけじゃない。周りにひとけはない。車の群れの隅っこで、電話を掛ける。
「もしもし? 征治 ?」
出てくれたのは恋人の、天馬了介 さん。低く落ち着いた声が体に沁みる。水たまりに落ちたスポンジが水を吸収していくように、ぐんぐんと。その大好きな声が、今からなんて言うのか。体が震えた。口の中がからからに渇いている。おれはぼそぼそと言った。
「あの、了介さん……?」
「ん? どうした?」
「あの……」
「ん?」
ごくりと唾液を飲みこむ。
「に、妊娠、しました。了介さんの子ども」
スマホの向こうが一瞬、しんとした。おれにとっては長い一瞬だった。
「え……」
低かった了介さんの言葉が少し高ぶる。
「おれの子? ほんとか? うれしいよ!」
ほんとに? おれは疑い深く了介さんの声の内を探ったけど、本当にうれしいらしい。
「おれの子かー。パパになれるんだな! 征治、体を大事にしてな」
「は、はい。あの……」
「今、どこだ? 家?」
「いえ、隈原 総合病院にいます」
「ああ、あの三宮の。じゃあおれ、今から行くよ」
「でも、仕事中では……」
今は午後五時過ぎ。了介さんの探偵事務所は七時まで営業中だ。
「大丈夫、スタッフにあとは任せる。今すぐ行くよ。待ってて」
電話が切れる。急に耳に入るようになった蝉の声。人の気配がして、そっと駐車場から離れた。
妊娠、しちゃった。
結婚してないのに。
病院の待合ロビーに戻った。十字架が刻まれた高い天井と、マリア様と花々と白い鳩のモザイク画が掛かっているこの病院は、ある修道院が母体となっているという。最近建て替えられたばかりで、とても綺麗だ。ソファはふかふか、正面に受付やお会計の窓口があり、その上の広い壁には清算済みの番号を呼び出す電光掲示板が光っている。
ロビーの隅っこのソファに座って、了介さんを待った。
大事なことを話せて、ほっとはしたのだけれど。胸がむかむかする。
妊娠三か月目。つわりの症状だそうだ。念のため、トイレに近い隅っこに移動する。
了介さん、早く来て。お腹を撫でながらとても不安になり、涙を拭きながら待っていた。
「征治、お待たせ!」
了介さんが、おれを見つけてくれた。笑顔で、ふだんから優しい顔がさらに優しく見える。
了介さんはおれの十九歳年上の、四十三歳。一八八センチの長身と、剣道と趣味の筋トレで鍛えた厚く逞しい体つきをしている。
すっきりと切った髪には白髪が。おれと付き合いだして、増えた気がする。苦労かけてるのかな。
とてもセクシーな顔立ちで、大人の色気垂れ流しのイケメンだ。彫りが深く、小鼻が引き締まっていて、顎も四角張り、意志が強そうな印象を受ける。でも、目は穏やかで優しい。珍しい灰色の瞳だ。
今日もスーツ姿で、上着は車に置いてきたのか、ワイシャツにネクタイだった。おれがあげた、くすんだブルーのストライプのネクタイ。
隣に座ると、了介さんは人目を気にせずおれの手を握った。耳元で、低く豊かな声がささやく。
「体調、大丈夫か?」
「ちょっとムカムカするけど、大丈夫です。あの……ごめんなさい」
「え?」
了介さんは心底驚いたという顔をした。
「なんで謝るんだ?」
「おれが避妊してって、言わなかったから……」
うつむいて、自分の膝を見る。
「りょ、了介さん、負担になるよね……」
だからそういうとこがダメなのよ、と妹の一澄 には言われるだろうけど。そういう、卑屈になるとこ。
でも、おれのせいだよ。ほんとは、ほんとは、おれ……。
子ども、欲しかったから。
「そのことなんだけどな、征治」
了介さんはおれの頭を撫でて、静かに話す。
「おれ、子どもできたこと、うれしいよ」
おれは顔を上げられないでいる。ずっと自分の膝を見ている。
了介さんの膝がしらが、おれの膝にこつんと当たった。大きな手が、おれの頭を撫でる。
「男体妊娠症候群の人で、子どもができるのは、四百人に一人だそうだな。それで、子どもを授かった。凄いことだ。おれは、産んでほしい」
「……堕ろしてほしいって……」
「ん?」
「お、堕ろせって、言わない……?」
了介さんの逞しい腕がおれを抱きしめた。厚い胸に顔を埋め、息が止まる。
了介さんの匂いだ。包みこんでくれる、大きな匂い。おれにとっては、安全な麻薬だ。
おれを抱きしめたまま、了介さんははっきり言った。
「言わない。産んでほしい」
「う……」
ずび、と鼻が鳴る。了介さんの背中に腕を回して、きつく抱きしめて、あたまの中が光でいっぱいになる。
「うれしい……。おれ、ほ、ほんとは、子ども、欲しかったから。うれしい」
人目を忘れて泣くと、「ん」と了介さんはおれの体を抱え直した。
もし堕ろせって言われたら、どうしよう。怖かった。電話ではうれしいって言ってくれたけど、ほんとの気持ちはどう? すごく不安だった。
了介さんはおれをしっかり抱きしめて、「産んでほしい」って言ってくれた。
うれしかった。夢を見ているみたいだった。
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