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第3話
唐突に現れた黒い紬 姿の般若を見て、ちふゆがなぜかカエルがつぶれたような声を上げた。
般若のことが苦手なのだろうか、と梓は首を傾げる。
「おまえたち、元気なのは結構だけれど、騒ぐならドアをきちんと閉めるんだね。廊下まで声が聞こえていたよ」
嫋 やかな仕草で部屋へ入ってきた般若は、そう言って面越しに梓とちふゆを睨んできた。
「す、すみません」
素直に頭を下げた梓とは反対に、扉をちゃんと閉めなかった張本人のちふゆはフイっとそっぽを向いた。
梓は彼を肘で小突き、
「失礼だよ、ちふゆくん」
と年上の友人へ注意を促す。
するとちふゆが短い眉をぎゅっと寄せて、苦々しく囁いてきた。
「だってアイツ、オレのこと雑用係とか思ってるんだぜ。こないだもなんか荷物運び手伝わされたしさ~」
ちふゆの愚痴を、当の般若が甘く笑い飛ばす。
「ふふ……。梓と会うときのおまえはお客様じゃないからね。お金を払って淫花廓 に来ているときは、僕はちゃんとおまえをお客様として扱っているだろう?」
ぐ……とちふゆが言葉に詰まった。しかしいまの話ではちふゆが般若に顎で使われているというのは事実なのだ。
梓はまったく知らなかったのでびっくりしたが……般若を諫めるなどと恐れ多いことなどできるはずもなく、ちふゆの味方をできないことを内心で謝罪した。
「アザ……般若さん、どうしてここに?」
アザミ、と般若の名を呼びそうになって声を詰まらせながらも、梓は彼の用向きを尋ねた。蜂巣や新人男娼の研修のための部屋ならともかく、般若がこのフロアまで立ち入ってくるのは珍しい。
般若は、面をしていてさえ色気のある仕草で艶やかな髪を払い、口を開いた。
「おまえたちが騒いでいるから叱りに来たんだよ……というのは冗談で、梓、おまえにちょっと手伝ってほしいことがあったんだけれど……ちょうどいいからそこのヒヨコちゃんもおいで」
「ヒヨコじゃねぇよっ」
「ふふ……僕からしたら充分ヒヨコだよ」
ちふゆの短い金髪に、戯れのように般若が指を潜らせる。
なぜこのひとの動きは一々蠱惑的なのだろう、と梓は般若に見惚れてしまう。さすが、現代の超高級遊郭で磨き抜かれた、元一番手だ。
梓がこの般若のようにうつくしくなれれば、漆黒はいつまでも梓のことを愛してくれるだろうか。
大人の男に釣り合う自分になりたいと常々思っている梓にとって、般若は憧れであり、密かな目標なのである。
「そろそろ季節の変わり目だからね。こっち の物置で眠ってる掛け軸を、向こう の蜂巣に移すんだよ」
「そんなことまでアザ……般若さんの仕事なんですか?」
「男衆に任せてもいいけれど、僕の趣味に合わないものが飾られるのが嫌なんだよ。梓、おまえは僕が掛け軸を選ぶのを手伝ってくれるかい。そっちのヒヨコちゃんは怪士 の手伝いだ。頭よりも体を動かす方が向いてるだろう?」
甘く笑った般若に、
「だからヒヨコじゃねぇって!」
とちふゆが噛み付いたが、意にも介さず黒い紬がくるりと回り、白い手がひらりと梓たちを招いた。
「おいで」
有無を言わさぬ命令だった。
梓とちふゆは顔を見合わせ……般若の後を追った。
ちふゆは『不本意』とでかでかと書いていそうな表情をしていたが、それでも逃げたりはしないのだから、お人好しだなぁと梓は微笑ましく思う。
そんな梓も、幼馴染の理久 からは『お人好し』と評されるのだが、でも般若に頼りにされるのは梓にとって嬉しいことなのだ。
般若に続いて階段を下り、ゆうずい邸を出て物置(と呼ぶにはもったいない風情のある小屋だ)に向かう。
表側から回るよりも、中庭を抜けたほうが近道のため、土の感触が楽しめる足元を踏みしめながら三人は歩いた。
庭はいつもきれいに手入れされていて、池に掛かる石橋や灯篭もうつくしい。
しかしいまはふだんは通るのことのない、客はもちろん男娼たちもあまり足を踏み入れないだろう場所を通っているため、いつもとは違う景色が楽しめた。
「こんな場所があったのか……」
キョロキョロと周囲に視線を走らせながら、ちふゆが呟いた。
折り重なる木々が建物を隠して、別世界のようにも思えた。
「ほんと……きれいだね」
頷いた梓に、ちふゆが子どものように目を輝かせて前方を指さした。
「あそことか、めっちゃ隠れ家っぽい」
彼が示した先には、ひっそりと佇む四阿 がある。
緋毛氈 の敷かれた数段の階段と、小さな人口の池にせり出す建屋。茅葺 屋根も相まって、なるほど隠れ家のようだった。
しかしそこには先客が居た。
階段脇には、片膝をついた能面の男衆が控えている。
そして、壁面のない柱の陰に座っているのは……三人の男だった。
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