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第8話
梓はその日から筋トレに励んだ。
梓には、筋肉をつける、ということ以上にとある目標があったからだ。
あの後……アオキと紅鳶の住まいにアザミたちと押しかけ、怪士 に筋トレの方法を教えてくださいと嘆願した後……アザミの許可を得て怪士は梓とアオキに簡単にできるストレッチなどを教えてくれた。
曰く、筋力は一朝一夕で手に入るものではない。
曰く、ストレッチやトレーニングは正しい姿勢で行うべし。
きちんと指先まで意識した動きをすれば、ラジオ体操でも充分にトレーニングになるということだった。
梓は怪士の教えを守り、コツコツと体を動かした。
同室者の漆黒には内緒にしているため、大仰なマシンやダンベルなどの道具を使うことはできない。
だから、体ひとつでできるスクワットなどを、怪士から伝授してもらったのだ。
逞しく男らしい体つきの男衆の言う通り、姿勢に気を付けて手足を動かしていくと単純な動作にもかなりの負荷を覚えて、翌日には筋肉痛まで出現したことで、梓は手ごたえを感じた。
これならイケる。
これを毎日続け……徐々に運動量を増やしていけば、梓にも筋肉がついて……そして……。
自らを鼓舞し続け、筋トレに精を出すこと一週間。
一週間後のその日が、梓が鍛錬を行えた最後の日となってしまった。
梓の行動を訝《いぶか》しんだ漆黒に、ついに問い質 されてしまったからである。
「梓」
と、バリトンの声が梓を呼んだ。
風呂上りの梓は、洗い髪をバスタオルで拭きながら、背すじを少し緊張させた。
漆黒が紅鳶や青藍たちと浮気をした日(つまり、梓が筋トレを始めた日)以降、梓は漆黒からの夜のお誘いを断り続けているのだった。
お腹の調子が悪い、とか、どことなくしんどい、とか、手足が少し痛い(これは筋肉痛だったから嘘ではないのだけれど)、とか。
内心で漆黒に謝罪しながら、梓は適当な口実を作ってそういう雰囲気を回避してきたのだが……この日、漆黒は引き下がらなかった。
「梓、おまえなにを隠してる?」
名前通りの黒い瞳を険しく細めて、ベッドに腰かけた漆黒が探るようにじろりと梓を見てきた。
「な、なにも隠してなんかいません」
と梓は答えたが、嘘を見透かす男の眼差しにじりじりと押されて、最後には項垂 れてしまった。
ふだん、目尻にくしゃりとしわを作って笑うやさしい漆黒を見慣れているせいで、こんなふうに刑事そのもののような目をされると、べつの男を見ているようで……梓の胸はドキドキと騒いでしまう。
「ちょっとこっちに来い」
手招かれ、梓は仕方なく漆黒の前に立った。
身長差があるためあまり見る機会のない男のつむじを見下ろすと、広い肩幅や浴衣の袷 から覗く胸板も視界に入る。
梓とはまったく違う筋肉質な体つきはやはり逞しくて。
梓はこくりと喉を鳴らした。
「梓」
漆黒の指が、梓の両手首に巻き付いてくる。
「おまえ、俺に隠れてなにかしてるだろ?」
確信的に問われ、梓は咄嗟に首を横に振った。
しかしそんなことで漆黒を誤魔化せるわけがない。
「俺に言えないことか?」
ん? と強い眼差しで返事を促され、梓は唇を軽く噛んだ。
「…………体を……」
「え?」
「体を、少し、鍛えてるだけです」
男から顔を背けて、梓はぼそぼそと答えた。
「……鍛えてる?」
胡乱 げな呟きが聞こえたかと思うと、手首の戒めが不意にぎゅっと強くなった。
痛いほどに握られ、梓は驚いて目を瞬かせた。
「梓、おまえもしかして……」
「な、なんですか」
「誰かに襲われたりしたのか? 誰だ。櫨染 か」
櫨染、というのは以前に梓を手酷く抱いたことのある男娼の名前で……もうあれから二年以上は経っているというのに昨日のことのように怒りを滲ませた漆黒に、梓の胸が甘く捩 れた。
と同時に、モヤモヤとした苦い感情も込み上げてくる。
「違います。誰にも、なにもされてません」
「ならなんで急に鍛えたりしてるんだ」
「それは……その……般若さんが」
「般若?」
片眉を跳ね上げた漆黒が、小首を傾げてますます怪訝 な顔つきになった。
「なんで般若が出てくるんだ」
「般若さんっていうか……般若さんといつも一緒に居る、あの怪士のひとに教えてもらって……」
「俺に聞けばいいだろう」
「え?」
「俺だってそこそこ鍛えてるんだし、なにも般若みたいな奴に借りを作らなくても、最初から俺に教えてくれって言えば良かっただろうが」
責めるような口調で言われて、梓は思わず眉を吊り上げた。
「い、言えるわけないじゃないですかっ」
喉から飛び出た声は、自分でも驚くほど震えていて。
漆黒がぎょっとしたように目を見開くのが見えた。
梓は腕を振って、手首に絡む男の指を振りほどいた。
「ぼ、僕、ちゃんと知ってます! 漆黒さんが僕で満足してないって、ちゃんとわかってますっ! だから怪士さんに習って、体を鍛えて……あなたに満足してもらおうと思って……こっそり頑張ろうって……」
話してるうちに感情がどんどんと昂 ってしまい、両目に涙の膜が張った。
漆黒の手が再び梓の手首を捉えようとするのを避けながら、わななく呼吸とともに梓は男を睨みつけた。
「だ、だから、言えるわけないじゃないですか……」
「梓、ちょっと待て」
「もう、無理してもらわなくていいです。僕、頑張りますから……」
「ちょっと待てって!」
手首ではなく肘の辺りを掴まれ、容赦のないちからで引っ張られた。
「わっ」
バランスを崩した梓は、そのまま漆黒の方へと倒れ込む。
体を引きずり上げられ、気づけば男の膝を跨いで向かい合わせに座らされる形になっていた。
背中を抱き寄せられて、二人の間の隙間がなくなる。
鼻先に漂ってくるのはタバコの匂いと交じり合った漆黒の体臭だ。
梓の好きな、匂いだった。
「梓」
バリトンの声が、振動となって梓の内側に響く。
「いまの話、俺はわからないことだらけなんだが」
「……僕、もう知ってますから嘘をつかなくていいです」
「だから、なにを知ってるか教えてくれ」
「……漆黒さんが……」
「俺が?」
梓は漆黒の香りとともに息を大きく吸い込んだ。
そして、覚悟を決めて吐き出した。
「漆黒さんが、本当は抱かれたい立場だって知ってますから!」
語尾が涙で湿った。
漆黒があんぐりと口を開けて……茫然と、ひたすらに茫然と、梓を見つめてきた……。
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