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第18話
「……いつまで僕の口を押えてるつもりだい」
アザミの口を塞いだままで、怪士 があまりに動かないものだから、アザミは首を振って男の手を外させた。
「も、申し訳ありません」
ごつごつと大きなてのひらが、銃を向けられた人間のようにホールドアップする。
アザミはくるりと体の向きを変え、黒衣の男と正面から対峙した。
宙に浮いた手は、アザミの背中には回って来ない。それをちらと睨んで、アザミはずれたお面を元の位置に戻した。
「いいところで邪魔してくれたね」
ツン、とそっぽを向いて、アザミが紬の袖を整えていると、訥々とした呟きが落ちてきた。
「あれは、さすがに妬 きます」
その苦い声を耳にして、アザミは男の胸にドンとこぶしを叩きつけた。
「おまえが言えた義理かい。トレーニングにかこつけてデレデレしてたおまえが」
厳しい声で男を詰 ると、怪士面の下から戸惑う気配が伝わってきた。
アザミはハッと我に返って、自分がいま居る場所を思い出した。
ここはゆうずい邸の廊下で……先ほど紅鳶たちが来たように、いつ誰が通りかかるかわからない。
下っ端の男娼ならいざ知らず、楼主にでも目撃されようものなら最悪である。
カラリ、と下駄を鳴らしてアザミは足を踏み出した。
当然のように怪士が後を付いてくる。
声を掛けようか掛けまいか迷っているのが、背中を向けていてもわかった。
アザミは早足で受付の前を通り過ぎ、磨き抜かれたガラス戸から中庭へと降りた。
そのままずんずんと足を進め、蜂巣の奥の、木々の茂る閑散とした場所でようやく立ち止まり、無言でついてきた男を振り向いた。
手を伸ばして高い位置にある男の顔から能面を外してやると、その下から太い眉を困惑に寄せた怪士の素顔が露 わになった。
「アザミさま……あの、意味がよく」
わからないのですが、と言いかけた男の胸に、アザミは両のてのひらを押し付けた。
怪士が何事かと体を硬直させる。
「硬いじゃないか」
「……はい?」
「なにが、筋肉って柔らかいんですね、だよ。アオキや梓にベタベタ触られて、ご自慢の筋肉がさぞ喜んだだろうね」
アザミがそう吐き捨てると、鈍い男もなにを言われているか悟ったようで、ハッと息を呑み込んだ。
そう、アザミはこの度、手痛い代償を払う羽目となったのだ。
筋トレに並々ならぬ意欲を燃やしたアオキと梓が寄ってたかってアザミの怪士に教えを乞い、基本的にひとの頼みを断れない男は懇切丁寧にアオキたちにトレーニング方法を教えていたのだが……。
怪士の、服の上からでもわかる鍛えられた肉体に、
「触ってみてもいいですか」
と梓が言い出して。
アオキと梓は男の上腕や胸板などを触り、筋肉がこんなに柔らかいなんて、と感嘆の声を漏らしていたのだった。
アザミは少し離れた場所からそれを横目で見ていたのだが……ひとのものに無遠慮に触れているアオキや梓にもイライラしたし、ベタベタ触らせっぱなしにしている男にも立腹した。
怪士の表情は能面に隠れて見えなかったが……可愛らしい梓や花のように美麗なアオキに触られて悪い気はしないのだろうなと思うと、いますぐ彼らを引き離したくなって……。
けれど元をただせば焚きつけたアザミにも非はあるのだ。
だからアザミは悶々としつつも、あまり意識しないようにしていたのだけれど……。
いまてのひらの下にある胸筋はみっしりとした弾力があって、柔らかくはなかった。
それがなんだか無性に悔しくて、アザミは男の胸を突き飛ばした。
しかし、ウエイトに差があるため巨躯の男は微動だにしない。
「アザミさま……」
「うるさい」
「アザミさま。俺は、あなたのものです」
怪士が、低い声でそう告げてきた。
アザミが男を見上げると、彼の手が両脇からそっと般若の面を包み、丁重な仕草で奪い去っていった。
さらり、とアザミの長い髪が流れる。
「僕のものと言うのなら、あんな簡単に触らせるんじゃないよ」
つん、と顎先を上げて傲慢な言葉を発するアザミへと、怪士がほろりと苦笑いを浮かべた。
「俺はあなたのものなので、そのあなたがアオキ様たちに俺を貸し出したのだと思い、迂闊 なことはできませんでした」
「…………それは……」
正論を述べられ、アザミは言葉に詰まる。
この男の言う通りだ。今回の件に関して怪士に落ち度などなかった。
「……悪かったよ。ただの八つ当たりだ」
アザミはひとつ吐息して、謝罪の言葉を口にした。
そして、男の手にある般若面を取り返そうと伸ばした、その指先を。
「アザミさま」
ひたむきな声とともに、やわらかく包まれた。
「アザミさま。俺は、あなたのものです」
「わかったよ。だから僕が悪かったってば」
「いいえ、あなたはわかっていない」
くっきりとした音で、否定して。
怪士が、顔を近づけてきた。
右の眉の端にある、古い傷跡を少し引きつらせるようにして、男が笑った。
「俺があなたのものであるのと同じように、あなたも俺のものだ」
囁く音が、アザミの鼓膜を揺らした。
思いがけぬ男の主張に、アザミは目を見開いた。
まばたきを忘れたアザミの下唇を、怪士が親指の腹でゆっくりと辿って。
「だから、先ほどのようなことは、もうしないでください」
男の懇願は、ほとんど命令であった。
いつもアザミに優位を譲ってくれる怪士が、いまはアザミに覆いかぶさる体勢で、いつものように武骨な口調で、それでも紅鳶に戯れに唇をゆるそうとしたアザミへと、はっきりとした所有欲を提示してきたのだった。
アザミは体の奥から湧き上がる歓喜に、一度ぶるりと震えた。
うっすらと唇を開き、怪士の太い親指を舐める。
男の目に情欲が灯るのを、アザミは見た。
肉厚の唇が下りてきて、自分のそれと深く合わさった。
呼吸ごと舌を吸われて、脳髄が甘く痺れた。
アザミは束の間、怪士とのキスに溺れた……。
そのまま外での性交になだれ込むかも、と思ったアザミだったが、怪士の理性は鉄よりも硬い。
元来より我慢強い性格の男は、このときもなんとか自制心を取り戻し、アザミから体をもぎ離すとエレクトしている己の下腹部を意思のちからで鎮 めにかかった。
アザミの中にもたまらないような熱は籠っていたけれど、そこは元男娼、己の欲望をコントロールする術は怪士よりも上だ。
唇から熱い吐息とともに劣情を逃がして、アザミはこちらに背を向けている男の腕に触れた。
「い、いまはさわらないでください」
怪士はそう言いつつもアザミの手を振り払ったりはしない。
それを知っているアザミはてのひらを腕や胸元に押し付けてみた。服の下に感じる肉体は、やはり硬い。
アザミは首を傾げ、
「おまえの筋肉が柔らかいなんて、僕はあまり感じたことないけどね」
と感想を口にした。
怪士面を被りなおした男が、くぐもった呻きを漏らして。
アザミから目線を逸らせて良く晴れている空を仰いだ。
「それは、いつも緊張しているからです」
ぼそり、と返事が落ちてきて、アザミはきょとんとしてしまう。
「緊張? おまえがかい?」
「……はい。あなたをまもるために気を張っているというのももちろんありますが……あなたが近くに居ると、やはり緊張してしまいます」
もう何年も一緒に居るというのに……まだアザミの存在に慣れないのだという男の存外可愛い告白に、アザミは思わず声を上げて笑ってしまった。
くつくつと肩を揺らすアザミの隣で、怪士は。
少し居心地が悪そうに身じろいだが、離れていったりはせずに。
アザミの笑いの発作が収まるまで、隣に居てくれたのだった。
『ゆうずい邸のニャンコたち』・終幕
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