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第17話

 あ~あ、とアザミは般若(はんにゃ)の面の下であくびをひとつ漏らした。  カラコロと下駄の音を鳴らしながら、退屈さに辟易(へきえき)とする。  少し前までは、娯楽があった。  このゆうずい邸の敷地に暮らす、梓やアオキといったニャンコたちが斜めの上の言動を見せて、それをアザミは楽しみながら愛でていたし、ちふゆという名のヒヨコが決意を込めたような表情で青藍を連れて蜂巣へ入ったときには、これはもうひと遊びできるのではと期待をしたのだが……。  なぜか事態はアザミの知らぬところで収束し、ゆうずい邸には元の平穏が訪れていたのだった。  アザミは気怠げな視線を漂わせながら、なにかまた楽しいことはないだろうかと邸内を探った。  現代の遊郭であるこの淫花廓では、仕事は山のようにあるけれど娯楽には乏しく、先だってのようなお祭り騒ぎににも似た愉しみなど、そうそうあるものではなかった。  アザミは石畳の回廊から邸内へと入り、受付や廊下に活けられている花のチェックをしながら奥へと進んだ。  ゆうずい邸は訪れる客が主役だが、川向うのしずい邸は迎え入れる男娼をより華やかに見せるため、内装にも趣向を凝らしている。  だからそれぞれの邸の雰囲気はまったく違っており、地下通路を使って二つの建物を行き来しているアザミは、そのたびに別世界に来たかのような錯覚を覚えるのだった。  廊下を進むアザミの腕が、不意に背後から掴まれた。  鼻腔にふわりと清涼な香りが漂ってくる。  足を止めて眼差しだけを振り向けると、そこにはゆうずい邸の一番手である紅鳶が、雄の色香を振りまくような涼しげな目元を険しくしてこちらを見下ろしていた。 「なんの用だい」  アザミは黒い紬の袖を揺らし、男の手を払った。  一度宙に浮いた紅鳶の指が、今度は肘の辺りを掴んできた。 「先日は、うちのアオキが世話になったようだな」 「僕はなにもしてないよ」 「なにもしてないのにアオキからおまえの名が出るのか」  詰問されて、アザミは鼻で笑った。 「醜態を晒したのはおまえだろう、紅鳶? 僕に責任転嫁するなんて、みっともないよ」 「責任転嫁? まさか」  くすり、と紅鳶が唇の端に笑みを刻んだ。さすが売れっ妓なだけあり、見惚れそうなほどの男ぶりである。 「おまえのおかげで俺もいいになってる。その礼を言おうと思ってな」  その紅鳶のセリフにかぶって、別の声が響いた。 「おい、そのままそいつ捕まえとけ」  ふとそちらを見ると、紅鳶の背後から漆黒と青藍が歩み寄って来ていた。 「おい般若。おまえよくも梓で遊んでくれたな」 「般若さ~ん。勘弁してくださいよ。危うくちふゆがボーボーになるとこでしたよ」  アザミを取り囲んだ男たちが、口々にクレームを述べてきた。  アザミはため息を零し、 「だから僕はなにもしてないって。おまえたちが勝手にしたことで、自業自得だよ」  と、紅鳶に掴まれていない方の手をひらりと動かして言った。 「ありゃ確かにそこのバカたちが酔っ払ってしたことだけどな」  漆黒がものすごく嫌そうに眉を寄せて、自身の顎鬚をざらりと撫でる。 「だが、それがなんで筋肉をつけるとかそんな突拍子もない話になるんだ」 「うちのちーなんて植毛するとか言い出したんすよ」 「おまえの馴染みは若いのに薄毛なのか?」  紅鳶が首を傾げて、気の毒に……と言わんばかりの表情で青藍へそっと尋ねた。青藍はそれに慌てて手を振って、 「違います違います。陰毛の話ですよ。ちー、パイパンだから」  と、ちふゆが居たら憤死しそうなことをさらりと暴露した。  おい、と漆黒が青藍を肘で小突いて(たしな)める。 「客のプライバシーだぞ」 「おっと。すみません」  両手で口を押えて青藍が素直に謝罪した。    肘に巻き付く紅鳶の指は緩んでいない。アザミは離せとアピールするべく腕を揺らして口を開いた。 「アオキも梓もヒヨコちゃんも、僕は無関係だよ」 「どうせおまえが焚きつけたんだろ」  漆黒が半眼になり、犯人を追い詰める刑事のごとく決めつけた。  確かに、彼らがあの場所で飲み会をすることを男衆からの情報網で予め知っていたアザミが、なにか面白いものが見れるのではないかと期待して梓たちを連れて行ったのは事実だし、予想以上に衝撃的なできごとを目撃して狼狽するニャンコたちの反応を愉しみ、焚きつけたのも事実だったけれど。  勝手に見たくもないキスを繰り広げたのは紅鳶たちだったし、明後日の方向に思考を飛ばして体を鍛えようと言い出したのはアオキたちで。  アザミが特別に具体的な指示をしたわけではないのだ。  そのせいでアザミだって、地味にダメージを受ける羽目になったのだから……。  不意にイライラがこみ上げてきたアザミは、ふふっと唇を綻ばせた。 「僕がなにかするなら、これぐらいするよ」  アザミは面を上にずらし、口元を露わにした。  色っぽいとよく言われるほくろを晒し、顎をくいと仰のかせた。  一番手近に居た紅鳶の、襦袢の襟をぎゅっと掴み。  背伸びをして、笑みの形の唇を彼の形のいいそれに近づけた……。  「あっ」と青藍の悲鳴のような声が上がる。  アザミの意図を察した紅鳶が、アザミを避けようとするが間に合わない。    アザミが、純粋なる嫌がらせの気持ちを込めて、紅鳶にキスを…………しようとした直前。  突如として割り込んできた手があった。  大きなてのひらが、アザミの唇を覆い。  そのままぐいと後ろに引かれた。  紅鳶から引きはがされたアザミの後頭部が、どん、と分厚い感触に当たる。  それは、黒衣をまとった胸板だった。 「……怪士(あやかし)」  彼の手に塞がれた唇で、アザミは男を呼んだ。  怪士の胸元が忙しなく上下している。アザミを見つけて、走ってきたのだろう。   「不意を突かれるところだった」  ふぅ、と嘆息を漏らした紅鳶が、アザミの腕をようやく解放してくれた。 「おい、おまえ。おまえの飼い主ちゃんと管理しておけよ。金輪際梓に変なこと教えさせるな」 「ちーにもよろしくお願いしまっす!」  漆黒と青藍が怪士へと口々に述べ立てて。  三人は揃って引き揚げていった。    

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