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第1話 【平成】同級生

 午前の講義が終わって一斉に教室がざわめきだす。修教大学多摩キャンパス二階、大きなすり鉢状になった階段教室だ。 「小野寺、昼飯行く?」 近くの席に座っていたラグビー部の連中が小野寺の席のまわりに集まってくる。 「どうする? 食堂? それとも外行く?」 別棟にある食堂では部の下級生がすでに席をとっているだろう。そこに集まるか、と訊かれているのだ。  小野寺秀幸は手早く電子辞書をたたんでテキストを重ね、キューブ型のエナメルバッグにしまった。 「いや、俺は今日約束あるから」 「あ、そっか」 「月曜いつもそうだったな」 部活が休みになる月曜日は、いつも約束があった。約束と呼べるほどきちんと言葉をとりかわしたこともなく、ただ習慣のように会うことになっている相手だった。 「仲いいよな」 「高校時代のダチだっけ?」 「この前寮にも来てたな」 俺は立ち上がった。 「悪いな。じゃ、あとで寮で」 一度振り返って、笑って見せると廊下に出た。  階段を降りて一階の教務室を通り過ぎ、学生課の脇の廊下に向かう。十年前に建てられたばかりの校舎は白を基調としていて明るい雰囲気だった。  小野寺はラグビー選手としてはけっして大型ではなかった。しかし、高校時代からの日々の筋力トレーニングで鍛えあげた逞しい体つきは、服の上からでも十分見てわかるほどになっていた。人中を歩くとなんとなく周囲の人々が道を開ける。  学内の掲示板の前に来た。壁面が大きなホワイトボードになっていて、休講や追試をしらせるA4用紙が、細長いマグネット板でびっしり留められていた。中にはカルチャーセンターふうの生涯学習講座の案内もあった。  すみのほうに春から貼りっぱなしで色あせたサークルの勧誘チラシもあった。彼女や友達作りのためのイベントサークルは、最初からスポーツ推薦で入学し、ラグビー部に入ることが決められていた小野寺にとって未知の世界だった。  廊下の突き当たりは別棟へつながる渡り廊下になっていて、学生がガラスドアを行き来するたびに、秋の陽がきらきら反射して天井や壁にはねた。  学生がひとり、重たげなデイパックを背負ってドアをひいた。ふわ、と乾燥した風が入り、貼られた紙が一斉に壁の上ではばたく。 「小野寺」 嬉しげな声をあげて駆け寄ってくるのは、この大学の法学部に在籍する茅野穂(かやのみのる)だった。  金の輪をはめたような髪の艶が一度風に散り、また茅野の頭上に集まる。ボタンダウンの白いシャツにVネックのコットンセーター。ストレートのチノパンツという、絵に描いたような古典的アイビールックだ。少し気弱に見えるおだやかな表情。キメの細かい清潔な肌。さらさら揺れる髪。彼はいつでも、すみずみまで手入れされた調度品のような上品さをもっていた。  対する小野寺は、スポーツブランドのロゴが背中に大きく入ったウインドブレーカーに、大きめのジーンズというラフな格好だった。  これでも部内ではまだマシなほうだ、と本人は思っている。小野寺の暮らす体育寮は、出身高校の名前入りジャージ、裸足につっかけサンダルでどこへでもいくような連中ばかりなのだ。 「お腹すいた? お昼これからだよね」 「ああ」 小野寺はいつになく優しい声になっていた。茅野と一緒にいると、部内で気を張っている自分とは違う自分になっているのを感じる。 「外行くだろ? ほら、ここどう?」 茅野が携帯の画面に近所のレストランを表示させた。チェーンのレストランの中では高級な部類だ。熟成赤身肉のビーフステーキのフェアをやっているらしい。分厚く切った肉が鉄板の上で霧のようにドリップを飛ばしている写真が、小野寺のすきっ腹を直撃した。  得意げな顔つきでこっちを見上げる茅野の顔を見ると、こいつは本当に俺の好みを把握したなあ、と小野寺はしみじみ思った。 「すげー魅力的。だけど高そう」 「いいよ。僕が出すから。小野寺はバイトもできないし、後輩におごったり大変だろ」 「でも、いつもだしな」 「いいんだよ。おごらせてよ。アスリートなんだからしっかりしたもの食べなきゃ」 目をきらきらさせて微笑まれると、返す言葉もなくなってしまう。 「……小野寺が来てくれるだけで、僕はうれしいんだから」 ほんの少しはにかんで言うと、今度は急に黙って顔を伏せてしまった。  ちくりと小野寺の胸が痛む。  なにかが不自然なのはとっくに気がついていた。本当はこんなふうに彼の好意を利用してはいけないんだろう。そう思いながら、大学に入ってからもう三年もずるずるこんな不思議な関係を続けている。  男と女だったらとっくにつきあうか別れるかして答えが出ていただろう。それでも男同士ということに甘えて、友情という大きなくくりの中に小野寺と茅野は身をひそめている。  そこが二人にとって安全な場所だと思っているからだ。  修教大学多摩キャンパスは都心から離れた緑の多い丘陵の中にあった。伝統ある本校舎から私鉄急行電車で三十分ほど下ったところだ。  十年前にこの新しいキャンパスが建てられたとき、隣接して運動部用のグラウンド、トレーニング設備と寮を兼ねたセミナーハウスも建築された。小野寺はそこで暮らしている。  食事のあと、茅野はグラウンドが見たいと言って寮までついてきた。ほかの部会はそろそろ練習の準備が始まっていたが、ラグビー場はひっそりとしていた。 「芝、刈ったんだね。いよいよ本シーズンかあ」 二つのH型ゴールの立ったグラウンドを感慨深そうに見回す。芝生は所々はげて土の色が見えていたが、まだ冬枯れにはなっていなかった。  視線を上げると、野球のグラウンドとの境目に植えられた銀杏並木が見事な黄金色になって背景を飾っていた。 「毎週来てるだろ」 思わず笑うと、茅野もくしゃっと微笑んだ。 「うん、でも、見られるとうれしいんだ。小野寺はここでいつもキツイ練習頑張ってるんだっなあって思うと、なんだか僕もパワーがもらえそうな気がするんだ」 グラウンドのサイドに設けられたベンチに二人で座る。茅野はよっこいしょ、とデイパックをおろした。 「相変わらず、すごい荷物だな」 「うん。ミニ六法全書とか判例集とか。あ、あと、これ」 一冊の本を取りだした。抹茶色の布で装丁された古そうな本だ。  茅野はその表紙を愛しげになでた。 「これね、本校舎の図書館でみつけたんだ。室生犀星が北原白秋や森茉莉、当時の詩人、文筆家と交換した書簡がおさめられててすごく興味深いんだ。ずっと前に絶版になってて、もう読めないんじゃないかって思ってたんだ」 頬を紅潮させてまくしたてる。近代詩人の話をする時、茅野は無邪気な子供が遊びに夢中になっているような顔になる。 「やっぱり、文学部に進むべきだったんじゃないのか」 口に出してしまってから、しまった、と思った。茅野がとたんに口をつぐんだ。ごくん、と細い喉が鳴る。 「でも、もう、それは決着がついたことだし……」 高校時代、大学の文学部への進学を希望した茅野は、家族、とくに兄の強い反対を受けて断念していた。司法試験を受けて家業の弁護士事務所を支えるため、法学部に進学したのだ。 「僕は、いいんだ。あの家族の末の甘やかされっ子だし。せめてみんなの期待に応えるよ」 あきらめた顔で力なく言う。  高校時代、茅野は小野寺に自分の家庭のことをこう説明していた。 「僕の両親は、最初の子供が生まれて嬉しくってね、ものすごい一生懸命教育したんだ。言葉も話さないうちから英会話教室に通わせたり。建設的な思考やリーダーシップを育てるっていう有名なプレスクールに入れたりして。少し大きくなってからは、教育に悪そうなテレビは一切見せないようにして、ゲームもまったく与えなかった。兄は法科大学院を出てすぐに司法試験に合格して、地方裁判所の検事になった。今は公務員をやめて両親の弁護事務所で次期所長として働いている。僕はそんな兄を尊敬してる。――でも、もうずっと兄が心から笑うのを見たことがない。兄はたぶん、自分でも気がつかないまま大事な何かを犠牲にしちゃったんだ。両親が兄に隠れて言うんだ。だからお前のことは勉強させずに自由に育てたんだって。あの子はちょっと優秀に育ってしまいすぎて怖いって……両親が言うんだ」 そこでまた、ごくん、と茅野は喉を鳴らした。自分の家のことを話しだすと、やたらと唾を飲みこむのが癖だ。 「兄は――そのことが許せないんだ。幼稚園受験もせずにのびのび育った僕が、友達と楽しく学校生活送ってるのを見ると、胸をかきむしりたくなるんだろう。成果主義にならって必死で周囲の期待に応えてきた自分の人生が、まるっきり徒労だったみたいでやりきれないんだろう。だから僕にも頑張れって言う。同じように司法試験を受けるべきだって言う。両親も兄の気持ちがわかるから止めようとしない。――僕は兄と同じように苦しんで努力して、兄の生き方は間違ってなかったって証明しなきゃいけないんだ」  グラウンドを見下ろしていると、秋の風がどこからともなくキンモクセイの香りを運ぶ。うつむいた茅野は、そのまま小野寺の肩に寄りかかってきた。上半身を横向きにかたむけて肩の上に頬をのせる。 「……小野寺、いい匂いがするね」 声は少しぼんやりしていた。  支えるように押し返してやると、茅野はさらに大胆に小野寺の背中に頭を預けてきた。 「薬、飲んでるか?」 「今日は飲んでないよ。僕、小野寺といると気分がいいから……何もいらなくなるんだ」 声のトーンが下がって、発音が不明瞭になってくる。 「眠いんだろ?」 のぞき込むと、茅野は生気のスイッチが切れてしまったように無気力な顔をしていた。 「……デパス、欲しかったのに。もう出してもらえないんだ。これ以上強い薬出すと、僕が、依存症になる危険があるって。だから最近……」 「家で眠れてないのか?」 「……弱い薬しか出してくれないんだ、先生が」 もう眠気を我慢できないように、茅野は目を閉じた。 「きっとストレスだ。勉強が厳しすぎるんだろ」 「僕が、弱いんだよ」 か細い声がする。 「寮で寝てくか?」 「いい? ああ、でも、もったいないな。……せっかく小野寺といるのに」 そう言いながら、もう睡魔にあらがえなくなって酔眼のようになっていた。  エナメルバッグを斜めがけにし、片方の肩に茅野のデイパックを背負った。もう片方の肩を茅野の脇にさしいれて細い腰を抱き抱える。八十キロ以上もあるチームメイトを肩車してスクワットする普段の練習から考えれば、茅野を重いとは感じない。 「ごめん。ごめんね……」 謝る声は、もう夢の中にいるようにとろんとしていた。

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