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第2話 【平成】男子寮

 小野寺はラグビー雑誌をめくりながら時折、眠っている茅野の様子を見ていた。  修教大学男子体育寮の一室だ。八畳ほどの二人部屋には、ドアから入って右側に特注サイズの二段ベッドがある。スポーツ推薦で入学した学生たちの立派な体躯を支えるため、鉄支柱を使用した大型のベッドだった。小野寺は反対側の壁に並んだつくりつけの勉強机の椅子に座り雑誌を読んでいた。  同室の津和野はまだ講義があって、この時間部屋にはいなかった。普段小野寺が使っている上段で、今は茅野が布団にくるまって眠っている。横向きになった色白の顔は無防備に寝息をたてていた。ベッドの脇には彼のデイパックが立てかけてある。  小野寺の手元の雑誌には、本シーズンを目前に控え選手名鑑が別冊付録でついていた。主要な社会人チーム、大学チームの選手のプロフィールが写真入りで紹介されている。大学リーグ戦グループ、第一リーグ、修教大学。やはり一番にそのページを開けてしまう。  チームメイトたちのモノクロの顔写真が並ぶ。普段気やすい連中がやたらとかしこまった顔をしているのを見て、思わず笑ってしまう。そして、そこに自分も並んでいるのをくすぐったく思う。実家の母親はとっくに買って親戚に配っているのだろう。 『小野寺秀幸、WTB(ウイング スリークオーター バックス)三年。身長177センチ、体重72キロ。スピードと器用なステップワークが評価され、二年次から一本目(一軍)入りした有望選手。高校ジャパン候補経験者。今シーズンではバックスリーダーをまかされ、チーム幹部の重責も担う』  ベッドの上の茅野が、もぞりと寝返りをうった。さっきからドアの向こうが騒がしいのだ。  何か寮内でトラブルがあったのかもしれない。いつもなら確認に行くのだが、今はただ少しでも静かになってほしい、と願いながら仰向けになった端麗な顔をみつめていた。  やがてこんこん、と遠慮がちにドアをノックする音がした。 「なんだ?」 「小野寺さん、俺っす」  同室の津和野が大学の講義から帰ってきたのだった。 「自分の部屋にノックとか」 「だって先輩がお取り込み中だったらやばいじゃないですか」 「まだ昼間だぞ」  津和野友輔は同じラグビー部の一年後輩だ。ポジションは同じWTB。ウイングとしては小柄だが、千葉の強豪校からやってきた期待すべき後輩だった。上の両犬歯を折っているので前歯ばかりが目立って、ビーバーとかハムスターとかそういうたぐいの動物を連想させる。丸っこい目と人の良さそうの顔つきともあいまって愛嬌がある顔だった。同じ部屋に起居してもう二年目になる。 「さっきからなんの騒ぎだよ」 「ああ、体操部の一年がひとり夜逃げしたみたいで。みんなが授業に出てる間に荷物ごといなくなったって」  話しながら、チームロゴの入ったエナメルバッグをどさっと床におろした。 「どうせ二年がいじめたんだろ」 「部屋に退部届け置いてあったって話で」 「バカだな」 「大学でみつけたら連れてこいって、体操部の上級生いきり立ってますよー」  怖ええ、と津和野は肩をすくめて見せた。 「お前はどうだ?」 「なんすか」 「うらやましいとか、思ってないか?」 「なに言ってんすか。俺はずっと小野寺さんについていきますですよ」 「おい、日本語おかしくなってんぞ」  信じてくださいよー、とこぼした津和野がベッドを見てかたまった。 「あ、茅野さん、ちーっす」  眠っている茅野にへこっと頭を下げると、小野寺をふりかえった 「あの、小野寺さん、ほんっとうにこの人とデキてないんすか」  声のボリュームをしぼりつつ、納得行かない口ぶりで津和野が言う。 「茅野は男だぞ」  小野寺はラグビー雑誌から目を離さずそっけなく答えた。 「いや、でも、この状況、俺どう理解したらいいのかわかんないっす」 「高校時代からのダチだって、だいぶ前に説明したよな」  小野寺は雑誌からちらりと目をあげた。少し険のあるのあるその視線に、津和野はとりつくろうように言った。 「あの、でも、茅野さん、この顔じゃないですか。もういっそのこと小野寺さんとデキてても俺、ぜんぜん驚きませんよ」 「へえ。じゃ茅野が起きたら教えてやろうか。津和野が好みだって言ってたって」 「いやいやいやいや、やめてくださいよ。絶対話がややこしくなるでしょ」  否定するくせに、微妙に耳が赤くなるのが小野寺はどうも気にくわない。 「茅野さん、なんで毎週ここで眠ってるんですかね」 「勉強で疲れてるんだよ。こいつ法学部で。家族もみんな法曹界のエリートで。司法試験に現役で合格しないとなんないらしくて、今から大学と法科学校のダブルスクールなんだよ。睡眠時間、足りないんだろ」  ほえ、と津和野が変な声を吐いた。自分たちの所属している商学部と、文系一人気の高い法学部との偏差値の違いを知っているのかもしれないと思う。 「でも、小野寺さんと会ってるのに、ここで寝ることないじゃないですか」 「黙ってろ」  津和野がいつになく神妙な顔になった。深刻そうに眉間にしわを寄せて、俺に顔を近づけてきた。耳元でささやく。 「……小野寺さん、俺、口かたいんでそろそろ本当のこと言ってくださいよ」 「あらたまってなんだよ」 「……クスリ、盛ってんすよね」 「はあ?」  ぱらぱらと雑誌のページが閉じていった。 「お前何言ってんの?」 「ほら、媚薬とか誘淫剤とか。昼飯にやばいクスリ盛ってどっかでサカったあと、抜けるまでここで寝かせてるんですよね」  はああ。小野寺は深くため息をついた。あきれてしばらく言葉も出ない。 「じゃ、お前はそんなあぶない性犯罪者と暮らしてんのか」 「そうでも思わないと、納得できねえっす、俺~」  津和野が芝居がかった動きで頭を抱える。 「茅野は毎週毎週俺にクスリ盛られてんのに気がつかないってか」 「いや、そこんとこは……茅野さんのほうももう小野寺さんとのキメセクの虜になってて、逃れられないとか……」  二度目の深い深いため息をついた。 「お前の頭の中って、エロマンガとアダルト動画しかねえの?」  ねえです! とキメ顔で答える頭を軽くはたいた。 「お前ほんと茅野いなかったら、あと何本か歯折れてっからな」  冗談だとはわかっているが、津和野もそろそろはっきりしてほしいのだろう。毎週寮の自室に仮眠をとりにくる先輩の友人をどう取り扱っていいのか、困惑しているのは十分伝わっていた。 「デキてねえから。でも、ここで寝かしてやりたいんだ。いつも悪いな」  小野寺が謝ってやると、津和野は不思議そうにまた茅野の寝顔に視線を戻した。 (クスリ盛ってる、か)  他人の目の前でこれだけ爆睡できれば、そう思われても仕方ないのかもしれない、とも思う。  相変わらず眠り続ける茅野の清らかな寝顔をながめる。育ちのよさのにじみ出る、傷ひとつないなめらかな肌。少年のような柔和な曲線を描く頬。長い睫。  「デキてても驚きませんよ」  さっきの津和野の言葉が頭の中でリフレインする。  わざわざ言われなくても、この可憐な外見でまっすぐに好意を向けられて。とっくに劣情などわいている。いっそのこと抱いてしまえばいいのかもしれない。  でも。  これほど必死で頑張っているのだから、あくまで純粋な努力家でいさせてやりたいのだ。息苦しい家庭で生きている彼に、ストレスの元になるような隠し事を抱えこませたくない。  ――同性愛なんて。  これ以上、周囲と摩擦を起こしたら、彼の心は壊れてしまうかもしれない。  恋人同士のように触れなくていい。自分と会っている間だけ守ってやれればそれでいい。そう小野寺は自分に言いきかせている。今の状態のまま、よくわからない関係のまま。ずるずるかたちばかりの不純な友情のままで。それでも彼がひととき心から笑い、安らいで眠ってくれるなら、俺はそれでいいのだと。 「津和野、これ読み終わった。やる」  閉じてしまった雑誌を投げてやると、 「ゴチでーすっ」  嬉しげな声とともに津和野は体をひねって見事にキャッチした。反射神経はいつも文句なしだ。  男子錬成館。それが修教大学体育寮の名前だった。十年前に新しいグラウンドとともに建てられたセミナーハウス内の男子寮だ。  鉄筋コンクリートの立派な建物は一、二階が会議室や研修室。地下にカフェテリア形式の食堂を持ち、三階から五階までは体育部会の男子寮になっていた。ラグビー部、硬式野球部、陸上部、体操部。四部会が共同生活をしている特殊な空間だ。  一人部屋は陸上、体操など個人競技の部員に優先的にわりあてられ、団体競技の部員たちは二人部屋だった。ラグビー部は旧寮時代から、同じポジションの先輩後輩を組み合わせる伝統があり、小野寺は一年目は四年の先輩と同室だった。次の年には津和野が入学して、ちょうど入れ替わりになった。  その頃から、時々寮の自室で茅野を寝かせるようになっていた。三階の寮の出入り口には守衛の詰め所があって、女性の出入りには気を使うが、男はほぼスルーだった。  午後六時の夕食の時間にそっとゆりおこしてやると、茅野は会った時より少しばかりさっぱりした顔で起きあがり、帰り支度をする。 「ごめんね、でも、来週も休講掲示板の前で待ってていい?」  寝起きのどこかまだ無防備な顔で、それでも懸命に何度も尋ねながら。 「いいよ。また来週な」  そう言って寮の玄関まで見送るのが、小野寺の月曜日の全てだった。  茅野の姿が暮れていく道路に見えなくなると、どうしようもなく胸がきしんだ。  本当にこれでよかったのか。もっとほかにしてやれることがあったんじゃないのか。そんなことをぐるぐる考えながら、その夜は茅野の体にしみこんだデオドラントの匂い――爽やかなウッド系の香りの残るベッドに入って、もんもんと火曜の朝を迎えるのだ。

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