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第3話 【平成】上下関係

 部屋のつきあたりの窓から、まぶしい光がさしこむ。水色の薄いカーテンは簡単に日光を透かしてしまう。  小野寺は起き出して梯子を降りた。下段の津和野はまだ眠っている。決められた時間に先輩を起こすのは後輩の仕事のはずだが、津和野が先に起きたことはほとんどない。  寝間着のスウェットのまま、ひげ剃りや歯磨きの入ったプラスチックのカゴを持って部屋を出た。洗面所とトイレは共同だ。三階の洗面台は朝食の時間の直前にはかなり混むのだが、今はまだすいていた  横長のステンレスの洗面台が向かい合わせになっている中で、空いている蛇口の前に陣取った。天井に採光窓があって明るく秋の陽がふりそそぐ。シンクの上の棚には色とりどりのキャップのついたプロテインシェーカーが並んでいた。 「ああ? 床濡れてんじゃねえか」 爽やかな早朝の空気を破って、怒号が飛んだ。  またか、と誰かが嘆息するのが聞こえた。  声のほうを見なくても凶悪な声でわかる。騒いでいるのはラグビー部の三年、葛城壮一郎だ。 「昨日の担当は野球部だろ。野球部の一年、いや二年、いるか?」 該当するらしい一人がびくつきながら片手を上げた。 「……自分です」 「一年になめられてんじゃねえよ。お前らの教育がなってねえから、こんな掃除の仕方すんだろ」  葛城のポジションはナンバーエイト。その突破力から核弾頭とも表される、三年にして修教大の斬りこみ隊長だ。身長百八十五センチ、体重九十キロの数字は大学ラグビークラスでは大きいほうではないが、他の部会生から見れば、筋骨隆々の体躯に十分威圧を感じるだろう。  短く刈り上げた髪、きりりとした濃い顔立ち。太い眉には一カ所傷跡でとぎれた部分があった。 「呼んでこいよ。今すぐ、二年集合させろ。他の部会に謝罪だ」 「あ、あのっ」  野球部の二年生が情けない声をあげる。自分たちのせいで、野球部がほかの部会に頭を下げることになっては、先輩たちに会わせる顔がない。部の恥になった、と部内の上級生からもシメられるということだ。  洗面台に向かう数人は、誰もがうつむいて固まっている。  小野寺は隣を見た。野球部の三年だ。かばってやらないのか、と鏡ごしにちらりと視線をやる。その顔は青ざめて、あきらかにキレた葛城にビビっていた。前の水栓からは水が出しっぱなしになっている。  小野寺はその蛇口に手をのばして、指でふさいだ。  びゅっ。勢いを増した水はねじ曲がり、中心の通路の部分まで届いた。 「ひえっ」  野球部の三年が悲鳴のような声を上げた。 「つめてえっ」 「わりいな。床濡らして」  たいして悪びれずに言うと、さっきまで野球部の二年を威圧していた葛城が、きっ、と小野寺をねめつけてきた。 「小野寺。……今のわざとだろ」  低い声と細めた目が殺気をはらむ。そういう凶暴さは試合だけで見せろ、と言いたくなる。 「どうする葛城? 俺も謝ったほうがいいか?」 「ざけんな」  つかつかと葛城が近寄ってきて、小野寺の胸ぐらをつかんだ。もはや床なんてどうでもいい。プライドの問題だ。  一触即発の事態に、野球部の二年が、息を飲むのがわかった。心配すんな、と目線で告げて、しれっと葛城に言う 「俺が濡らしたからなあ。最初に濡れてたかどうかなんて、もうわかんねえだろ」 「よその下級生甘やかしてんじゃねえよ」 「つまんねえことで騒ぐなよ」  あくまで穏やかに言うと、仕方なさそうに葛城は手を離した。さすがに部内でいさかいは起こしたくないのだろう。  ほっ、と誰かが安堵の息をつくのが聞こえてきた。  身支度を終えて食堂に行く。二年の津和野は配膳の当番があって、あの後あわてて起き出して寝癖がついたまま先に行った。食堂に行くと、当番用のエプロンをしてどんぶりにせっせとご飯を盛っていた。  トレーをとって一列に並び、調理室とつながったディッシュアップ台から料理の皿をとっていく形式だ。  朝食をのせたトレーを持った小野寺が、野球部がいつもかたまっているテーブルのわきを通ると、野太い声をかけられた。 「ビー部の小野寺」  振り返ると、野球部の主将、四年の南条と目があった。堂々と構えた野球部の四年の中心に座っている。大股を開いて腕を組み、たっぷりスペースをとって座っている。下級生にはできない座り方だ。 「今朝、うちの若いモンが世話になったな」  重々しく告げる。 「どこの極道っすか」  思わず苦笑いで答えると、南条も日に灼けたいかつい顔を少しほころばせた。  大学の授業に出て、部活前に一度寮に戻った。  男子錬成館の二人部屋の並ぶ三階の中心には、一カ所ミーティングルームがあり、実質ラグビー部のたまり場となっていた。  机と椅子を置き四十人ほど入れる大部屋で、片側が一段高い演台になっている。DVD再生機材、プロジェクターのスクリーンやスピーカーも完備されていた。廊下をはさんだ正面にトイレと自動販売機がある便利な場所で、月例のミーティングの時以外は、暇になるとここに溜まってしゃべったり、携帯ゲーム機を持ち込んだりするのが部員の日課になっていた。先輩と同室で気詰まりな下級生が集まることが多いのだが、今日はやや不謹慎な煙の臭いがしている。  小野寺が空きっぱなしのドアの前に立つと案の定、例の人が部員たちの中心に座っているのが見えた。元フルバック、曽我亮二だ。だいぶ前に卒業したOBだと聞いている。よほど仕事が暇なのかチームのバックスコーチをひきうけ、しょっちゅう寮にあがりこんでいた。監督はじめコーチングスタッフは選手とのなれあいを忌避して、ミーティング以外に寮に踏みこむことはなかったが、曽我だけは型破りの存在だった。  仕事中に寄っているのか、今日もスーツ姿だった。彼から実践的ラグビー理論をききたい部員たちが周囲をとりまいている。監督の話や雑誌の記事では理屈が難しすぎて理解できない部員も、曽我のはすっぱな言葉で説明されるとすぐ納得できるようだった。  眼光はカミソリのように鋭い。何もなければそこそこ女にモテた顔だと思う。男らしい高い鼻梁は微妙に右側に曲がり、鼻骨の上に一筋の手術跡が残っている。鼻骨陥没骨折の痕だ。相手チームのラフプレーでスパイクを顔面にくらった時のものらしい。痛々しげなそれさえも、今となっては彼の武勇伝だ。  曽我が着崩した上着のポケットから、ホープの箱を取り出す。一本くわえると、さっきから隣を陣取っていた葛城がすかさずライターで火をつけた。朝、野球部の二年をいたぶっていた面影はない。  (おーおー。嬉しそうにはべっちゃって)  小野寺は内心ひやかしたいのをこらえた。 「曽我さん、勘弁してくださいよ。現役の前じゃないですか」 喫煙をとがめると、 「ああ、そうだな。お前らは吸うなよ」 しごく適当な返事が返ってくる。  曽我の年齢なら、社会人チームもしくは地域のクラブチームでまだ現役選手をやっていられるだろう。大学の一部リーグで活躍したのだ、そういう話だって十分あっただろうに、と思う。  今もスーツの胸まわりは見事に張り、腰まわりもきゅっと引き締まって現役と変わらない体型を維持している。  本当はまだ現役に未練があるのだろうか、と時々小野寺は思う。たとえ満身創痍でも、まだラグビーの世界でやり残したことがあるのだろうか。  そしてそれをみずから否定するように、曽我はゆうゆうと煙を吐くのだ。 「あの人、また過去の栄光にひたりに来てる。いいかげん、カッコ悪いんだよ」 そんな陰口も聞いたことがある。  それでもあの狂犬のような葛城がコロっとなついたのは、昨年腰を痛めて試合に出られなかった間、ひたすらここでグチを聞いてもらったからだろう。  現在活躍中のチームメイトにはみじめで聞かせられない。それでいて、二本目以下の選手に甘えることもできない。曽我はそんな行き場のないいらだちや弱音をさりげなく受けとめ、さらりと聞き流してくれる、ここでは唯一の大人だった  今時、特殊なタテ社会。排他的で閉塞感ただよう密な人間関係。部員たちはここで生活し、大学の授業も一緒にとって夜遅くまで一緒に練習する。ここにいる部員たちは、小野寺もふくめ強化校で練習につぐ練習の日々を過ごしてきた。地方では中学や高校からすでに寮生活という者も少なくない。  異性どころか部外者との接触も、遊んだ経験もほとんどない。世間知らずで、厳しい上下関係にまったく疑問を持たない。そして忍耐力は人一倍鍛えられている。世の企業が体育会系の学生を雇いたがる理由もよくわかるというものだ。そしてそんな組織第一の人間の倫理観は、ひどく危うい。  この寮でも過去にいろいろな事件があったらしい。小野寺は一年の頃、同室の四年生からそっと教えてもらった。納会のあと酔っぱらった女子マネージャーを何人もで輪姦したとか。先輩の執拗な制裁に我慢できなくなった後輩がトイレで首を吊ろうとしたとか。それらはひっそりと噂になり、やがて忘れ去られていく。 『はみだせなくなるんだよ』  高校を出たばかりの小野寺にとって、四年の先輩はひどく大人に見えた。彼は疲れたように言った。 『ここにしか仲間も友達もいないから。部が生活の全てになっちまうから。みんなでやろうってなったとき、それが間違っていることでも、なんにも言えなくなるんだ。ここにしか居場所がねえのに、それを失うの怖いもんな』  そこで彼は小野寺の顔をじっと見た。 『でも、それじゃだめだ。部外にダチがいるなら大事にしろ。チームが自分の全てだって言ったって、四年間なんて一瞬だぞ』  そう言って、にがにがしげに笑った。彼の四年間に何か後悔するようなことがあったのかもしれない、と思ったが、小野寺はその時尋ねることができなかった。  ただ反射的に茅野のことが頭にひらめいた。茅野は自分の聖域だと思った。  あの時、四年生が語っていたこの寮の人間が抱えている危うさ。曽我にはそれがよくわかっているのではないかと小野寺は思うのだ。だから彼は現役を引退しても、この寮の学生たちから目が離せないのではないか、と。 「小野寺ちゃん、今日八時からここで首脳会議だってさ」  どうせ自分が収集したくせに、他人事のように曽我が言う。 「俺、メンツに入ってんすか」 「人望厚いバックスリーダーが何言っちゃってんの。来年は主将か副将確定だろ」 「修教は毎年、主将はフォワードから出してるじゃないですか」  小野寺はバックスだ。 「うん、じゃ、副将か。欲がねえなあ、小野寺ちゃん」 「俺、今、それどころじゃねえんで」 「膝か」  自分の不調を見抜かれていたことに少し驚いた曽我は目つきだけではなく、洞察力も人一倍鋭いようだ。 「痛えの?」 「もうちょっとかかりそうなんで」 「公式戦、始まっちゃうよ」 「大丈夫です。津和野が育つまでは、俺が修教のトライ決定率守りますんで」  きっぱり言うと、曽我が、ひゅうと口笛を吹いた。 「ほら、な。俺だったら小野寺主将にするわ。今の監督は昔のやり方にこだわりすぎだっつの」  好き勝手言う曽我の言葉に、そばにいる下級生たちが一斉に尊敬のまなざしで小野寺を眺めた。 「そういう背負っちゃってる奴、俺、好きよー」  からかうように言う曽我の横で、ただひとり葛城が顔をゆがめて妬心をにじませている。  内心苦笑した。 (お前、全部だだもれじゃねえか)

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