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第1話
「僕、手伝います」
少しはにかんだ笑顔はまだ十代のように見えた。久我大介は、しばらくその顔に見とれていた。
半袖のTシャツに黒いジャージのズボン。色素の薄い短い髪をしていて、体にはほどよく筋肉がついている。少し幼い顔は、如才なく笑っているのに、どこか臆病で人慣れしていない動物のような、そんな繊細な感じがした。
「ああ、どうも」
ゴールの支柱にクッションを巻きつけ、ベルトでしめる作業の途中だった。弾力のあるクッションを細い支柱にそわせて、ベルトで固定するのは少し力がいった。
ラグビー用のH型のゴールには、選手があたってケガをしないように試合の前にクッションを巻く。
久我は取引先の知り合いに誘われて、七人制ラグビーの試合に選手として呼ばれていた。キックオフは午後二時。三十分前にはだいたい選手がやってきてストレッチやウォーミングアップを始めるのだが、土手の上にあるクラブハウスにまだ人影はない。
多摩川の川辺には、さわやかな秋の風がふいていた。河原を覆う背の高い草がさわさわと揺れている。気持ちよく乾燥した空気。澄んだ高い空にはうろこ雲の群れ。
大介は、久しぶりに学生時代に親しんだラグビーの練習場を見て、郷愁に似た気持ちに胸を締めつけられた。しかし、まだ誰も試合の準備をはじめていないことに気づき、懐かしさにひたっている場合ではないと、あわててベンチに荷物を置いて走り出した。
学生時代は、試合会場の準備は試合に出ない下級生やマネージャーの仕事だった。しかし、ゆるい社会人チームでは、とくに決まった役割分担もないのだろう。「誰かがやってくれるだろう」という甘さがこういうところに出る。
久我はあわててグラウンド脇の倉庫の中から、ラインカーとコーナーフラッグ、ゴール用のクッションをひっぱりだして準備をはじめたところだった。
一人の青年が四角いエナメルバッグをかけて、大介に走り寄ってきた。相手チームの選手だろうか。
「君、アローズの選手?」
「あ、いえ、僕は、タッチジャッジのために呼ばれたんで」
この大学生のような若い子が、今日の線審だというのか。大介は驚いた。
「え? そんな若いのにプレーしないの? 君だってラグビー経験者なんだろ?」
「あ、ええ。でも僕は、組み込み部門で働いてるので、アローズのチームのみなさんとは職場も違いますし」
青年は恥ずかしそうに笑った。
「組み込み?」
「物流倉庫でトラックに商品を積み込む仕事をしてるんです。アローズのみなさんは、本部のオフィスワーカーの人たちですから」
今日の試合相手は、食品卸業の会社の社会人チームだった。
「じゃあ、今日はどうして?」
「ラグビーのルールがわかる人が足りないって、声がかかったんで」
大介はあきれてため息をついた。
「わざわざ部外者呼び出して、自分たちの試合のタッチジャッジさせるなんて勝手だよな。君だって、ほんとは試合に出たいよな」
「いや、僕は」
下をむいてはにかむ。そうしながらも、手際よくベルトをしめていく。腕の筋肉はしなやかで、Tシャツの生地ごしに美しい曲線を描いていた。
「ポジションはどこだった?」
「フランカーです」
フォワードの中でもパワーと走力が求められるポジションだ。大介は感嘆とともに、彼の体つきをながめた。細くひきしまった腰は、普段からよく走り込んでいることを証明している。それでいて、肩と太ももには、しっかりと太い筋肉がついていた。
久我には彼の若さがまぶしかった。
「ああ、わかる。しっかり体できてるもんな」
「あの、あなたはどこですか? ポジション」
青年は上目使いにおずおずとたずねた。
「俺はフルバック。でももう、ずっと昔のことだから、すっかりなまっちゃってるなあ」
久我はもう三十を超えた自分の年齢を思って苦笑した。
そうですか、と青年がうれしげに笑った。
「僕もわかる気がします。フルバックは守りの要ですもんね、頼りになる感じしますから」
目を輝かせて言った。けっしてお世辞ではないようだった。彼のあまりにも素直な賛辞に、大介はちょっと戸惑い、同時にくすぐったいようなうれしさを感じていた。
「そんな頼りがいありそうに見える?」
大介がからかうように笑いかけると、彼はほんの少しだけ頬を赤らめてうなずいた。
大介は取引先のチームなんかではなく、彼と試合がしたかった、と思った。「若い頃はすごかった」と自慢したいおじさんばっかりが試合を楽しんで、彼のような青年に活躍の場面がないことがひどく理不尽なことに感じられた。
「俺はさ、アローズよりも、君と試合がしたかったなあ」
素直にうちあけると、彼はちょっと真顔になって、それから少しさびしげに笑った。
「や、でも僕は」
「名前は?」
「純平です」
「苗字は?」
「ああ。清永純平(きよながじゅんぺい)です」
「じゅんぺーって呼んでいい?」
大介がなれなれしく笑いかけると、純平は苦笑した。
「僕いちおう、審判のひとりなんですけどね」
「ああ、もちろん。試合中は清永レフェリーに敬意をはらいます」
大介はきゅっと口元をひきしめて、急にまじめくさった顔になる。一瞬ののちに、二人は同時に笑いだした。
それから大介と純平はふたりで準備をした。半分枯れた芝生の上にラインカーで白線をひきなおし、コーナーフラッグを立てた。
そうこうしているうちに、川縁の駐車場に車が並び、だんだんと今日試合をするメンバーが集まってきた。
「久我! もう準備してんのか、はえーなあ」
川沿いの道路から手を振っているのは、元仕事仲間の加納だった。駐車場に車を停めてきたのだろう。ラルフローレンのボストンバッグを背負い、鍛えた体格を見せつけるようにサイズの小さなTシャツを着ている。となりでランチバスケットをさげているのは彼の妻だ。笑顔で大介に会釈した。絵になる二人だった。
加納がグラウンドまで土手を降りてくる。ヒールのあるブーツを履いている妻は、石段のあるところまで移動するようだ。
今日の試合に大介を誘ってくれたのは加納だった。食品卸会社のチーム、アローズと、加納が所属しているチーム、ヘルベチカの親善試合だ。「ヘルベチカ」はグラフィックデザインに使用するアウトラインフォントの名前だった。加納のいる会社は、トリニティという中規模の広告代理店だ。相手チームの会社から、食品のパッケージデザインや、チラシやポスターの作成を請け負っている。そのトリニティから外注で仕事をもらっているのが、フリーのグラフィックデザイナーをしている大介なのだ。今日は得意先「ヘルベチカ」の助っ人として試合に呼ばれていた。
「おーい! 久我、きてやったぞ!」
ハイテンションな女性の声が響いた。土手の上から腕を組んで偉そうに見下ろしているのは、石井美佳。ストレートの長い髪を風なびかせている。高身長にマニッシュなトレンチコートがよく似合っていた。彼女も、トリニティの制作チームの一員で、大介と会社とのツナギ役をやってくれている。大介の仕事上のマネージャーともいえる存在だった。
「私が見てんだから、かっこ悪い試合なんかしたら、許さないからなー!」
楽しそうに声を張っている。
大介は苦笑して、応じるように片手をあげた。
午後になって、ほんの少し陽が傾いてきた。大介は配られた試合用ジャージに着替え、スパイクにはきかえた。ウォーミングアップにフィールドの外周を走り出す。
ちらりと内側に視線を送ると、純平はTシャツの上にタッチジャッジ用のビブを着て、メインレフェリーと打ち合わせをしていた。腰に手をあてて、真剣に話をきいている姿を見て、やっぱり真面目なんだな、と好ましく思った。
隣のグラウンドからは、甲高い声がしていた。ぶかぶかのラグビージャージを着た子供たちが集まっている。ショートパンツの腰にベルトをしているところを見ると、これから子供向けのタグラグビーの教室が始まるようだった。幼稚園から小学生の低学年くらいの子供がヘッドキャップを被って集まっている。
大介はそれを見て、ぼんやり幸太郎のことを思い出した。もうすぐ保育園の運動会だった。雛子に連絡をしなくては。
「幸太郎くんのパパ」。今年もまた、会場ではそう呼ばれることになるのだろうか。大介は複雑な気持ちで考えた。
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