1 / 29
第1話
俺の名前は松本湊世 24歳。
小柄で華奢で童顔なのがコンプレックスの、どこにでもいるサラリーマンだ。
生活の中心は仕事。
…と言っても、有能な訳でも仕事に意欲的な訳でもない。
人前に出るのと満員電車の通勤だけで疲れてしまって、家では眠るだけ。
これと言った趣味や特技もない。
住んでいるのは借り上げ社宅の2LDKのマンション。
夫婦や子持ち世帯用だけど、単身用が空いてなくて広すぎる部屋で一人暮らし中。
休みもほとんど部屋着でダラダラ過ごす。
今日も二度寝をしていたら、いきなり母親がやってきた。
一人暮らしが淋しいかと思ってカブトムシを連れてきたと。
何、カブトムシって…。
子供じゃないし、世話も大変だからって断ったけど、飼い猫がイタズラしようとするとか何とか言って、俺に押し付けて帰っていった。
どうするんだよ…。
カブトムシなんて飼った事ないし、自分が生きるのに精いっぱいでカブトムシの世話をする余力も興味もない。
恐る恐るケースの中をのぞきこんだ。
ケースの中にはオスとメスの番が一組。
俺の視線も気にせずケースの中を動き回っていた。
住む場所や飼い主が変わった事に気づいてるんだろうか。
飼い主…。
そうか、俺はもう『飼い主』なんだ。
俺に飼う気があろうとなかろうと、カブトムシは生きている。
生きていたらお腹も空くだろう。
自然界じゃないから、俺が与えるエサがなければ飢えてしまう。
…そんなの放っておける訳がない。
母親が『飼育ケースの中は整えておいたし、カブトムシゼリーもたくさん買ってきたから、これを食べさせてあげて』と100個入りのゼリー置いていったから、今すぐ買い物に行く必要はなさそうだ。
俺はじっとカブトムシを眺めた。
ケースの中なら自分に向かって飛んでくる事もないから安心だ。
こんなに至近距離でカブトムシを見るのは初めて。
カブトムシはケースの中をウロウロしたり、木に登ってみたり。
時々ひっくり返ってしまうけどすぐに起き上がる。
ケースに当たるとカツン…と音がするから硬いんだろう。
だんだん面白くなってきて、気づけば小一時間カブトムシを眺めていた。
カブトムシって呼ぶのも不躾な気がしてきて、オスを『カブ太』、メスを『カブ子』と名前をつけた。
「よろしくね、カブ太、カブ子」
こうして新しい家族との生活が始まった。
ともだちにシェアしよう!