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第1話 出逢い
私が、彼を初めて見たのは、秋も深くなり始めた昼下がりだった。研究生としての私のコマ数は極めて少なく、週に三日の講義も午前中の時間にまばらにあるだけで、その他の時間を私は荘厳な佇まいのこの図書館で過ごしていた。
覗くつもりはもうとう無かったのだが、仏教の幾つかの経典を抜き出した書架の隙間から、ふわふわした栗色の癖っ毛が日の光をまとって小さく揺れているのが見えた。眼をこらすと、そこには可愛らしい面差しをした東洋人らしい少年ー私には少年に見えたーが、一生懸命、字引きとテキストとを捲りながら、ノートを取っていた。
大きな明かりとりの窓から差し込む陽の光に包まれて、その姿は天使のようにすら見えた。
ひょこっ.....と顔を上げて、榛の実のような真ん丸な眼をしばたたかせて、またテキストに向かう。ノートを書き込んでいる間にも、額の髪を掻き上げ、唇を尖らせ、あるいは満足げに微笑み....実に表情豊かだった。
ー仔犬だ.....ー
つん....と上を向いた鼻と小ぶりな口元は、レトリバーと言うより、我が国の大統領が贈られた日本の仔犬に良く似ている。
図書館のよく日の当たる片隅で一生懸命勉学に励む彼の姿は、日溜まりの中の無邪気な仔犬によく似ていた。
ー可愛い.....ー
それから、私は図書館の日溜まりの中に彼の姿を探すようになった。退屈な午後は、私の可愛い仔犬の姿を眺めるのが、サンクトペテルブルクでの私の日課になった。
彼は講義の後であろう時間を、毎日ずっと図書館の同じ席で過ごしていた。特に声をかけてくる者の姿も無い。
一心不乱に勉強して、時に居眠りもしつつ、日が傾くまで、その席で過ごし、日没が近づくと、旧市街にあるアパートに帰っていく。
「オヤジ、ただいま」
と言いながら彼がドアを開けると、年輩の父親らしい男がーお帰りーと笑顔で迎えた。漏れ聞こえてくる会話は、日本語と中国語と英語が混じり、国際色豊かだが、他の人間の声はしない。
おそらく彼は父親と二人暮らしでロシアにも来たばかりなのだろう。図書館を出て家路に着くまでの間、彼はひどく顔を強張らせて、精一杯威嚇の気配を漂わせながら道を急いでいた。
私は私の出自のこともあり、当初は彼に声をかけるつもりはなかった。私の名を聞くと、たいがいの人間は態度を変える。急に避けるようになったり、逆に媚び始める。私は彼のそんな姿を見たくはなかった。だから、物陰から、こっそり眺めるだけのつもりだった。
それから私は週に三日の研究所の講座が終わるといそいそと図書館へ足を運ぶようになった。そして決まってあの席でテキストと格闘している仔犬のような青年...彼を文献を探す素振りをして眺めていた。
時には大きな机のいちばん遠い角に席を占め、小さな声で呟くようにフレーズを復唱するのをこっそり聞き耳を立てていた。彼の声は高からず低からず、柔らかいそよ風のようだった。
時にふっと目を上げてこちらを見たが、目が合うと恥ずかしそうに顔を伏せてテキストに目線を戻してしまう。
その仕草が愛らしかった。
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