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第2話 初めまして

 だが、彼はひっそりと隠れていたにも関わらず、チャーミングなその姿に目を留めた者も少なくはなかった。  ある日、図書館で本を読んでいるふりの私の後ろで上級生らしい三人連れがヒソヒソと不穏な会話をしていた。 ーなぁ、あの子、ビジネス-スクールの子らしいけど、ロシアに来たばかりなんだろ?ー ー上手いこと誘えば、きっとついてくるぜ。そしたら、呑ませて可愛いがってやろうぜー   ー万が一、騒がれてもロクに知り合いもいないだろうしな。上手いこと言いくるめて、俺達のペットにしようぜー  冗談じゃない。彼は私の仔犬、私の天使だ。私はやにわに向き直り、上級生達に言った。 「聞き捨てなりませんね。彼は私の友人だ」 「お前、誰だよ?!」  上級生のひとりが脅すように私を見上げた。私は思いっきり冷ややかな眼差しでその生徒を見下ろして、言った。 「ミハイル-レヴァントだ」  上級生達の顔が一気に青ざめた。ロシアで、この都会で生まれ育った者で、この国のならず者を仕切るマフィアのボス、レヴァントの名を知らない者はいない。 「マフィアの伜かよ....。あいつもとんだタマだな」    吐き捨てるように言って上級生達は図書館を出ていった。噂はすぐに広まるだろう。だが、やむを得ない。いたいけな仔犬の彼に悪心を抱くことは許せなかった。  私は自分でも気付かぬうちに彼の傍らに歩み寄っていた。  心臓がやけにうるさい。緊張して乾いた口からなんとか言葉を絞り出して、彼に話しかけた。   「こんにちは、君は日本人?」 「うん。混血だけどね」  一瞬、真ん丸な目が私を見上げ、だが彼は屈託なく微笑み、私をまっすぐに見た。不思議な鳶色の瞳。はっきりと強い光を放ちながら、とても優しく柔らかい。 「名前、聞いてもいい?」  私は少し躊躇いながら、だが勇気をふりしぼって訊いた。 「ラウル。ラウル-志築。後にヘイゼルシュタインてつくけど」  彼は最後の部分だけは少し口ごもった。私は手を差し出した。 「僕は、ミハイル。ミハイル-アレクサンドルフ......レヴァント」  私は彼の表情を盗み見た。私の名を聞くと、皆、一様に表情を変える。だが、彼はにっこり笑って.....微笑んで私の手を握った。暖かい、小さいが力強い手だった。 「初めまして。ここの学生?.....なんて呼べばいい?」  可愛い。ちょっと意地っ張りそうなぽってりした薄紅色の小さな唇から、柔らかな声音で紡ぎ出される、ちょっとたどたどしいロシア語がいかにも愛くるしい。  「ミ、ミーシャって呼んでくれ。....良かったらカフェでも行かないか?」  まっすぐに見詰められて鼓動が大きくなった。 「ありがとう。ちょっと疲れてたんだ」 彼はにこやかな笑みを浮かべて、私の隣に立った。日本人なら平均的な身長らしい。それでも、私より頭ひとつくらい小さい。が、鍛えているらしく均整の取れた体格をしていた。  カプチーノを飲みながら、彼は本当に嬉しそうに言った。 「誘ってもらったの初めてなんだ」  彼はビジネス-スクールの留学生で、ロシア語はそれなりに話せるけど、あまり得意ではない....とこぼした。私は思い切って提案した。 「じゃあ、僕と勉強しないか?替わりに僕に日本語を教えて欲しい」 「いいよ。助かる」  彼は満面の笑みを湛えて嬉しそうに言った。私はさっきから一向に止まない胸の高鳴りが一層激しくなるのを感じた。  彼の純真さが堪らなく愛おしかった。  そうして、私達の友情は始まった。  私にとってロシアの寒い凍てついた町で初めて灯った暖かい明かりだった。

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