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第3話 可愛い「彼」
「お待たせ」
私が彼のいる図書館の指定席の窓を軽く叩くと、栗色の髪がふわりと揺れてつぶらな瞳が嬉しそうに私に笑いかける。私は煉瓦造りのアーチ型の入り口に凭れて彼が出てくるのを待つ。紅葉したプラタナスの枝が揺れるように癖っ毛の髪が揺れる。
「カフェに行こう」
私達は並んで大学の構内を抜ける。気がついたのだが、彼は決して小柄なほうではない。むしろ東洋人の中では長身なほうだったし、私のように痩せている訳ではない。
「俺はドイツ人との混血だから、大柄なほうなんだってオヤジが言ってた」
日本にいる頃には周りの学生より頭半分くらいは大きかった。
「けどロシアに来たら、みんな俺よりデカきてさ、ショックだった」
マキアートを啜る彼の笑顔は無邪気であどけない。そして、ちょっと小首を傾げて少し寂しそうな顔をして、私を見上げて言うのだ。
「コーヒー代、ご免な」
「私が誘ったんだ、気にしなくていいよ」
彼はアルバイトを探しているのだが、なかなか上手くいかないという。
「まだ言葉も下手だし、やっと見つかったと思ったら、ヘンな奴に絡まれるしさ......」
正しくは男に襲われそうになった、というべきだろう。その事を知った時、私は心臓が止まりそうになったが、それを自力で撃退したと聞いてますます驚いた。
ー俺、功夫(クンフー)習ってたから。ケンカ強いんだぜー
ちっちゃい鼻をふんと鳴らして胸を張る様はやはり可愛かった。
ーでも、油断はダメだよー
私は母代わりの邑妹を通して、歓楽街を仕切るファミリーの幹部に、絶対彼に手を出させないよう通達を出させた。
実際の彼の生活はそう大変なふうではなかった。服装はシンプルだがこざっぱりしたものを着て、学用品にも困った様子はなかった。
彼、ラウルと彼が同居している『オヤジ』は実の親子ではないという。
ー俺の両親は早くに亡くなって、父親の親友だったオヤジが、ずっと男手ひとつで俺を育ててくれたんだ。両親の残してくれたものがあるから、学費は心配いらないから、しっかり勉強しろって.....ー
オヤジは彼をとても大事にしてくれている....と彼は言った。
ーだから、小遣いまでくれなんて言えない。だからアルバイトしたかったんだけど....ー
結局、襲われそうになったことがバレて彼はアルバイト禁止になった。オヤジが小遣いをくれると言ったが、学校の昼飯代だけでいい....と自分で言ったという。
「じゃあ、私の研究を手伝ってくれ」
私は彼に提案した。
「研究?」
「日本文化の研究してるんだ。文献の翻訳をしてくれないか?報酬はだすよ」
「うん」
彼はにっこりして頷いた。
彼は本当に真面目に翻訳に取り組んでくれた。
結果わかったことは、彼は決してロシア語が不得手なわけではない。難しい構文も見事に形成できている。
では、なぜ......?
「話すのが、苦手なんだ。上手く発音出来なくて......もともと人と話すのはあまり得意じゃなくて......」
恥ずかしげに俯く彼は、上目遣いで申し訳なさげに私を見上げるその眼差しは、本当に仔犬そのもので、私は思わず頭を撫でていた。
「大丈夫だよ。私だって、他人と話すのは得意じゃない。.....ラウル、君となら話していても楽しいけどね。.....だから、私と沢山話そう。そうすれば、きっと馴れるよ」
「そうだね」
はにかみながら、ほっとしたように微笑む薄紅の頬が堪らなく可愛いかったが、彼はあまり『可愛い』という形容詞を好まない。私はにっこり笑って言葉を胸の中に隠した。
そして私が彼とカフェで勉強していると聞いた彼の養父が、私がアパートで一人暮らしをしていると知って、夕食に招いてくれた。
「ウチの伜は気は強いんだが、人見知りで.....。いい友達が出来て良かった。ささやかな礼をさせてくれ」
彼の養父が自ら腕を奮ってくれた中国の家庭料理は、美味かった。そう、彼の養父は香港出身の中国人で、ラウルの父親とは、アジアのどこかの片田舎で出会い、意気投合して親友になったという。
ー日本は商売しやすいから...ー
という理由で、貿易商の養父はラウルを連れて日本に居を構えた.....とその時は言っていた。
実際には、もっと深い混み入った理由があったのだが、私がそれを知ったのは、ずっと後の事だった。
それから私は度々、彼の家に招かれ、彼の養父と三人で食卓を囲んだ。実に楽しく充実した時間だった。
帰り際、私の姿が見えなくなるまで手を振ってくれた彼の優しさが、木枯らしに冷えきった胸に沁みた。
その年のクリスマス、私は彼にダッフルコートを贈った。
ーお下がりでごめん...ー
というために、彼のサイズよりほんの少し大きいサイズを買い、私の部屋でしばらく置いた。
深いグリーンのそれは、彼によく似合って、私はとても満足だった。
彼はお返しに......と手作りのシガレット-ケースをくれた。銀の板に打ち出されたアカシアの枝は本物のそれのように細やかで、ひどく感動したのを覚えている。
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