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第4話 春節
年も開けて、ラウルの試験も終わり、私は大学院の修士論文の仕上げに入っていた頃だった。
私は立場上、モスクワ大学の大学院で経営学を修めてはいたが、はっきり言ってそれはあまり私の興味を引くものでは無かった。サンクトペテルブルク大学の東洋文化研究所に通う時が、私にとって一番楽しい時間だった。好きな東洋美術について学生や教授と議論し、終われば私の可愛い仔犬ラウルとの楽しいレッスンの時間が待っていた。
「試験、上手くいった。ありがとうミーシャ」
いつものカフェで、私のプレゼントしたグリーンのコートを着てホットチョコレートをふうふうと吹きながら、ニコニコと笑う彼に私はとても和んでいた。寒さも極限のロシアの真冬に、こんなに暖かい気持ちでいられるなどとは思いもしなかった。
が、ホットチョコレートを半ばまで飲んで、彼は言いづらそうに私に告げた。二月に入ったら、二週間、レッスンを休みにしよう....というのだ。
「なぜ?」
と訊くと、彼は
「春節だから.....」
と答えた。『春節』というのは中国の正月で外に出ている者達も、みんな故郷に帰るのだという。
「日本にいた時も、春節の時期はオヤジは香港に帰るんだ。俺も毎年ついていくんだ。今年も......」
だから......と彼はちょっと口ごもった。
「本当はミーシャも招待したいんだけど、ミーシャは今年は論文で忙しいだろう?」
「大丈夫だ」
私は躊躇がちに言う彼にきっぱり言い切った。
「出発はいつだ?それまでには仕上げるから、私も連れていってくれないか」
「来月頭には出発するよ?」
「任せろ!」
私はそれから死ぬ気で頑張って十日で論文を仕上げ、ラウル達と共に香港に旅立つことに成功した。
ー香港?ー
邑妹(ユイメイ)と父と私の世話役のコルサコフは眉をひそめたが、しぶしぶと了解してくれた。
初めて降り立った香港はどぎついほどの華やかな色彩に溢れていた。行き交う車も人も賑やかで、たぶん彼らは彼らなりに寒いのだろうけれど、私は南の島の熱気に気圧されていた。中国本土への返還がなったばかりで、まだまだ様々な国籍と人種の人々で活気に溢れていた。
その景色より何より私の心に刺さったのは、彼のラウルの弾けるような笑顔だった。サンクトペテルブルクでのはにかんだような、どこか遠慮がちな様相とは異なり、暖かいこの島では、彼の心までコートを脱ぎ捨てたかのようにイキイキと自由に振る舞っていた。
ーミーシャ、こっちこっち!ー
新年の祝いの爆竹が打ち鳴らされる中、彼の養父とその知人達の祝宴に招かれ、老酒を開けて新年を寿ぎ、挨拶を交わした。
宴もたけなわになった頃、宴席の主が、そっと私を手招きし、ー父上によろしくー
と囁いた。その時、私はラウルの養父の本職が香港マフィアであることを知った。
だが、その時の私にはそんなことはどうでも良かった。
春節の休暇の間、彼の養父の古い知人の家に滞在した。彼は張り切って様々な名所を案内してくれた。それは東洋美術を愛する私には非常に興味深く、強く心を惹かれた。がそれ以上に旧知の人々に千切れんばかりに手を振り、心の底から笑い合うラウルの姿にひどく胸が傷んだ。私以外の人間に向けられる朗らかで快活なラウルの様子は私には耐え難いものだった。
そして、私は彼との香港の休暇を楽しみながら、秘かに心の底で誓った。
ー香港の街から、ラウルを奪うー
彼の笑顔は、あのサンクトペテルブルクの由緒ある街に、私の傍にさえあればいい。
もっともそれは、儚い夢であり、叶う筈の無い野望だった。その頃の私にとっては......。
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