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第5話 アパート
香港から帰った後、私は無事に大学院の修士課程を終了し、サンクトペテルブルク市内にアパートを借りることにした。父やファミリーの者達は、セキュリティ上の問題から最新の防犯設備の整ったマンションを購入して住まわせると言ったが、私はそれは断固として断った。
私はレヴァント-ファミリーを継ぐつもりは毛頭無かったし、何より父の汚れた金で未来を買いたくは無かった。
私は国からの奨学金で十分に学費をまかなえたし、その一部で始めた投機で充分な利益を得ていた。そう、快楽を求めるのが人の本能だとしても、人身売買や麻薬などという人間本来の尊厳を破壊するような遣り方で利益を得ようとするのは下品極まりない。私はそういう『事業』に手を染める気はなかった。
それでも心配性の邑妹(ユイメイ)の進言で、父がアパートを買い取り、アパートの他の部屋にファミリーの子弟を護衛がてら住まわせていたことは後から知った。
もっとも彼らは父やファミリーの援助でサンクトペテルブルク大学や他の近隣の大学に籍を置いていたから、純粋に学生専用アパートの体を成していたし、MIT から帰ったばかりのニコライが、最新のセキュリティシステムの開発モデルとして万全のセキュリティを整えていた。
私は邑妹(ユイメイ)にー過保護だーと怒ったが、ー親孝行だと思ってーという言葉に退いた。何より、
ーあなたに何かあれば、ファミリーは黙っていないし、そうなれば多くの人を巻き込むことになるー
という言葉に口をつぐまざるを得なかった。自由なようでいて、決して自由ではない。それが私の事実だった。
ともあれ、私は彼の近くで過ごしたかったし、彼が招待してくれたように、私も彼を招待できる家が欲しかった。レヴァントの屋敷ではなく、ミハイル-アレクサンドロフの家が......。
それは、ラウルが私とのレッスンでロシア語の会話にも慣れ、自信を着けてきたことにより、彼の周囲に友人らしき学生の姿が頻繁に見受けられるようになったこともひとつの理由だった。
講義の合間や昼食時も、彼の周囲には数人の学生の姿があった。
私のレッスンの無い休日に、彼のアパートの近くで彼が女子学生と談笑しているのを見かけた時、ひどく胸が傷んだ。
後でさりげなくその事を話題にした私に、彼は、
「交際を申し込まれたんだ」
と言った。私は胸が潰れそうになった。が、彼は続けて困ったような顔をして言った。
「俺、恋愛とかってまだする気ないし......この国の女子あんま得意じゃない。美人過ぎるし、なんか大胆過ぎて......引くんだ。.....なぁ、なんかいい断り方無いか?」
私はその言葉にひどく安心した。そうだ、彼は擦れっ枯らしの女学生などに煩わされてはいけない。彼は心を惑わされることなく勉学に励むべきなのだ。だが、そうは言っても、彼には彼の友人関係もある。
「好きじゃないなら.....それははっきり言った方がいい。その.....恋愛感情が持てないなら、ひきずったら、彼女にも気の毒だ」
「そうか......でも俺、そういうのどう言ったらいいかわかんないんだ、ロシア語で」
彼は、う~ん......と唸って頭を抱えた。私は仕方なく、あくまでも仕方なく彼に提言した。
「じゃあ、今回は私に任せて。......その代わり、晩御飯を奢ってくれないか。君の父上の回鍋肉が食べたい」
「ありがとう、恩に着るよ!オヤジに言っておくから、今夜、家に来て!」
ラウルはほっとしたように笑顔を見せて、ぱんっ......と両手を叩いた。そして、ぽそり....と無意識に呟いた。
「本当に、俺、恋愛って解んないんだよな~。日本にいた時もそうなんだけど、『好き』って、みんな好きだから友達なんだろ?....って思うんだけど、違うのかなぁ~」
いかにも、本当に腑に落ちないと言った顔の彼に私は吹き出しそうになった。なんで、彼はこんなに無邪気で可愛いのだろう。
「違わないさ」
私は微笑み、彼の頬に触れた。
「私は君が大好きだ。だから一番の友達でいたい」
彼は一瞬、ドキリとした顔をしたが、にっこりと天使のように微笑んで、言った。
「うん。俺もミーシャ大好きだよ」
私は最高に幸せな気分だった。彼に言い寄っていた女学生は、真剣に彼が好きだったようだが、
ー彼は今は恋愛をする気は無いそうだ。君だけじゃなく、他の女子とも付き合う気はないそうだー
と言ったら、やっとしぶしぶ諦めた。が、変わらず彼の友人でいたいという言葉までは私は否定できなかった。
何故なら、彼女がラウルを好きになったという理由は、私にも関わっていたからだ。
ーある生徒に....その....あなたがマフィアの関係者だと言われた時、彼は本気で怒ったの。『ミハイルは本当に優しくていい奴なんだ。偏った偏見で彼を貶めるのは許さない』って真っ赤になって一生懸命、あなたを庇ってたー
彼女が言うには、ラウルと件のその生徒は直後、取っ組み合いの喧嘩になったが、ラウルの圧勝だったという。
それから『優しくて、強い』ラウルは、みんなの人気者になったという......。
私はサンクトペテルブルクのアパートに住まいを移し......それは彼ら親子の住むアパートからほど遠くない場所にあり、毎朝、彼が元気に大学に急ぐ姿が見られた。と、同時に香港マフィアの関係者らしき者に混じって、怪しげな....普通には分からないかもしれないが、一癖ありそうな男が、彼の留守に彼のアパートを訪ねているのを何度か目撃した。
私にはそれがロシア諜報局の人間だと気づくのにそう時間はかからなかったが......。
とにかく、私は彼の近くにいられる事が何より嬉しかった。レッスンの日には夜遅くまで小説の読み解きをして、感想を語り合ったし、彼のレポート作成の手伝いや、私の論文の助手もしてもらった。
そればかりか、風邪をひいて寝込んだ時にはラウルが付きっきりで看病してくれた。
ーミーシャは身体が弱いんだから、ちゃんと食べないと......。男は強くなきゃいけないんだぜー
それからラウルは時々、家で料理を作ってくれるようになった。
ーオヤジが忙しかったから、ガキの頃からよくやってたんだー
養父仕込みの彼の作る料理は、かなり美味くて、私はその度に幸せな気分になった。
何より嬉しかったのは、彼の養父が商用で家を空ける時には、必ず彼は家に泊りに来て、夜明けまで色々な話が出来たことだった。
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