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第6話 刺青
日を追うごとに彼を囲む学生の数は増えた。が、そういう時の彼は楽しそうでもあり、なにか窮屈そうでもあった。
学校の帰り道、窓越しに私の姿を見つけると、満面の笑みで手を振ってくれるのだが、それは何か群れの中でやっと水面に顔を出して呼吸を取り戻した魚のようにも見えた。
それはサンクトペテルブルクに遅い春が訪れ、皆が分厚いコートを脱ぎ始めた頃にいっそう顕著に窺われた。
どうしたことか.....と怪訝に思わなくはなかったが、私とのレッスンの時には以前と変わらず楽しそうであり、彼の外の友人達との関係には、特段、言葉を差し挟む気はなかった。
だが、ある日の午後、彼はとても寂しそうな顔をして現れた。
私の部屋の入口で立ち竦む彼を何とか部屋に入れ、いつものダイニングの椅子に座らせた。
すると彼は思い詰めた顔で、もう会わない方がいい......と切り出した。
「なぜ?」
私はその時、彼が他の友人達のように、私の素性を知って、私との関わりを絶ちたいと言い出すのかと思った。それはとても悲しいことだが、私は覚悟していた。だが、彼の言葉は、私の予想とは違っていた。
彼はうっすらと涙ぐみながら絞り出すように言った。
「俺は、本当はヤクザの倅なんだ。オヤジは貿易商はしてるけど、香港のマフィアで...俺も刺青してる」
私は俄には信じられなかった。が、自分でも意外な言葉が口をついていた。
「見せて....刺青」
彼は力なく頷いて背を向けてシャツを降ろした。象牙のような滑かな肌に鷲が大きく翼を拡げていた。私は息を呑み、無意識に彼に強請っていた。
「触ってもいいかな」
『構わないよ』
私は彼の背にそっと指を触れた。生き生きとして今にも飛翔しそうな大きな鳥。力強く羽ばたこうとする彼にはとても良く似合っていた。
私は、思わずその背に口づけしていた。
彼はピクリと背を震わせて.....だが振りほどきはしなかった。
シャツを羽織直した彼の背を抱きしめて、私は言った。彼が私の側から飛び立っていかないように.....。
「大丈夫、僕も似たようなものだから...」
他の学生達から私が『ロシアンマフィアの関係者』だとは聞いた....と彼は言った。
「でも、ミーシャは学者になるんだろう?俺みたいな半端者が傍にいたら.....」
「そんなことない。......私の一番大事な友達じゃないか。そんなことを気にしてはいけない」
「ありがとう、ミーシャ.....」
私は改めて彼を椅子に座らせ、うっすらと涙の滲んだ彼の瞳を見つめて訊いた。
「急にどうしたんだ?」
「実は......」
友人に休暇に海に誘われたのだという。
「外で遊ぶのは好きだけど、刺青、見せたくない......」
彼の切なさは痛いほど良くわかった。養父を慕っていても世間に憚らねばならないのは、辛いことだ。
「じゃあ、休暇は私と、ボリソヴォ湖に釣りに行こう。そうすれば、他に約束があるって言えるだろう?」
「ミーシャ......」
「私はアウトドアはあまりしたことは無いが、教えてくれるかい?釣り」
「もちろんだよ」
ラウルの顔に笑顔が戻り、私はほっと胸を撫で下ろした。暖かいコーヒーを淹れ、いつものようにレッスンを始めた。
私はその日、私の彼に対する思いが友情ではないことに気付いた。
彼が帰った後、私は寝床の中で彼の刺青の背中を半べそ顔を、笑顔を思い浮かべながら、ズボンの中に手を伸ばしていた。
ーいけない......ー
そう思いながら、手を止めることができなかった。そして、それでも彼の良き『友人』であることを、心に誓った。
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