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第16話 夢のあと
柔らかな春の風が吹く。優しい指先が私の額に落ちた髪をそっと掻き上げ、撫でつける。うっすらと目を開くと、漆黒の艶めいた双眸が、甘やかに微笑みかける。
「うたた寝なんかしてると、風邪をひくぞ」
口を尖らせて窘めるその手が、私の肩にコートを掛け直した。
「夢を見ていた....」
するり、とGパンの硬い生地に隠された膝を撫でると、ぴし.....としなやかな指先がその手を弾いた。
「夢......?」
「昔の夢だ。.........私とお前の若かった頃の....」
あぁ......と薄紅の唇が呟く。
「若かったな........あの頃は」
「お前はまだ若いけどな」
と揶揄かうと、滑らかな頬がぷっと膨らむ。
「誰のせいだよっ!」
「お前が悪い」
私は身体を起こし、指先で彼の顎を捕らえる。尖らせた唇を軽く啄んで、その眼を覗き込む。
「私との約束を守らなかった。......だからこれは天罰だ」
「あのなぁ、お前......」
呆れたように溜め息をつく頬を軽く摘まんで、にッ.....と笑って、またその膝に頭を委ねる。
「ずっとこうしてみたかったんだ。あの頃から......」
怪訝そうに首を傾げる恋人の頭上で、満開の黄色い花房がさわさわと揺れる。
「あの頃は、強請ろうにもいつもお前のほうが先に寝落ちしてたからな」
「活字を見てると眠くなる性質だったんだよ!」
顔を真っ赤にして反論する必死な表情はあの頃と変わらない。思わず笑みが零れる。
「こんな硬い脚で膝枕して、なにが嬉しいんだか.....」
ぶいとそっぽを向いてぶつぶつとボヤく横顔にはあの頃の面影が見え隠れする。私は艶やかな黒髪にそっと手を触れた。
「あの頃のお前は、本当に可愛いかったよ。ラウル......」
引き寄せて耳許で囁くと、彼は途端に不機嫌そうに眉根を寄せた。
「勝手に俺の身体を取り替えたのは、お前だぞ、ミーシャ」
「私の目の届かないところで、オッサンになんかなるからだ。......やり直しは必然だろう」
「訳わかんない我が儘を言うな!」
私はむくれる彼の隣に座り直し、肩を抱き寄せ、頬にキスした。彼はちょっと怒った振りをして、私の肩に頬を寄せた。
「俺は、本当にお前に学者になって欲しかったのに......」
私は小さく笑って、拗ねたように呟く彼の頭を撫でる。
「今からだってなれるさ......。ラウル、お前さえ側にいてくれたら、私には何だって出来る。.....崔にも勝利した。観音菩薩の加護でな」
「だから、そういう頭の沸いた発言は止めろ...!」
綺麗に切り揃えた爪が、私の膝を軽く抓った。ふぅ....と小さく息をついて、彼は頭上を見上げた。木漏れ日が淡い影を落として、揺れる。
「ミモザか......。あの頃も良くアカシアの木の下で陽向ぼっこしたけど、お前の屋敷の庭にも、こんな立派な木があったなんてな......」
「ラウルの木......だからな」
ラウルが、彼がサンクトペテルブルクを離れて直ぐに私はこの木を植えた。彼との思い出を忘れないように、いつかまた、この木の下に二人で憩うことが出来るように、願いを込めて......。
ー十年以上もかかってしまったがな......ー
本音を言うなら、あのままの、以前のままの彼と共に寄り添って同じように年を重ねていきたかった。だが、私達が共に生きるには、世界はあまりに非情だった。
あの時、彼を殺さねば、喪わねばならない苦しみを神は慈悲をもって救い、私が共に在りたかった若い日の彼を私に与えてくれた。
それは私が信じてもいなかった神の最高の恩寵であり『愛』だ。
私が先に老い、先に逝くことを憂うことは無い。魂は永遠だ。肉体を離れても、魂は寄り添っていける。
彼の『変容』はその証でもあった。
少年の淡い夢は終わり、私達は新しい姿で新しい関係を築き上げようとしている。互いに一人の男として背中を預けることの出来る頼もしい相棒、盟友として、誰よりも愛しいパートナーとして.......。
「そろそろ戻るか.....」
愛らしい少年の面影は懐かしい記憶の裡に秘めやかに息づき、観音菩薩そのものの美を顕現させて、彼は佇み私を手招く。
永遠の愛と安らぎに至る、長い道のりを、互いに手を携えて戦い抜くために......。
私達は世界を変える。
神の摂理を超えた唯一無二の相棒(バディ)なのだから。
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