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第15話 エルミタージュの別離(わかれ)
エルミタージュ美術館は、ロシア帝政時代のロマノフ王朝の宮殿だった建物を何代目かの皇帝が美術館にして、それからずっと美術品や工芸品の収蔵場所にしていた場所だ。
荘厳な造りの回廊を巡り、世界的に著名なダ-ヴィンチやティツィアーノの名画を見るともなく眺めながら、ふたりで無言で歩いた。
私は胸の内に渦巻く思いを伝える言葉を持たず、それは彼も同じようだった。
静謐の中に大理石の床に刻む足音だけが、やけに大きく耳に突き刺さり、私は 発狂しそうだった。
様々な展示室を無言のまま経巡り、そして私達はとうとうその場所に辿り着いた。
「これを見せたかったんだ.....」
私が彼の不在の度に見つめていた、観音菩薩の立像。あまり有名な画家の作品ではなかったけれど、端正で優しい筆致で指先まで丁寧に描かれていて、何よりその目元や口許が彼のそれを彷彿とさせた。
「...君に似ている.....」
私の言葉に彼は青ざめた顔で、小さく首を振った。
「止せよ、似てないよ」
「なぜ?観音菩薩は男なんだろう?」
「だけど、俺はこんなに『たおやか』じゃない。俺がなりたいのは、こっちだ』
側には誰だかは忘れたが、四天王の立像があった。彼は養父にボスを支える男になれと言われている....と洩らしていた。だから、その勇ましい姿に憧れるのは間違いではない。だが、それは本来、彼のあるべき姿ではない。
私達はしばしその画幅の前に佇んでいたが、それ以上の何かを語ることもできず、展示室を出て庭を散歩することにした。私は日に透ける彼の髪の揺らぎに、ふと幻を見た。ヒラヒラと揺れる天女の比礼、あるいは彼の背からふいに大きく開く虹色の翼.....。
「羽衣......か」
「え?」
思わず洩らした呟きに彼の眸が怪訝そうに私を見た。
「君のその背中の刺青は、君の羽衣なんだね」
「え?意味がわかんね....」
大きな杉の木の下で、天女を、天使を逃がさないように、覆い被さるように立ち、丸い目をいっそう丸くして私を見詰める彼に、私はかろうじて、私の願いを口にした。
「きっと、また帰ってきて。ここに、サンクトペテルブルクに帰ってくるって約束して」
所詮、叶わない願いかもしれない。だが、彼は俺はきょとんとした眼差しのまま、黙って頷いた。
「約束だよ。....じゃないと僕は君の羽衣を取り上げるからね」
私はこわごわと顔を寄せて、立ち竦んだまま呆気に取られる彼の唇にそっと私の唇を重ねた。彼は顔を背けることも、私を突き離すこともしなかった。
ただ、溢れだす思いに震える私を優しく受け止めて瞼を伏せて、私の唇が離れるのをじっと待っていた。
「ごめん......」
ふと我れに返って項垂れる私に、彼は小さく首を振った。
「行こう......」
掠れた声で囁く私に小さく頷いて、彼は私の差し出した手をそっと握った。
美術館の門の外まで、手を繋いだまま植え込みの中を彷徨い、そして門の外で私達は別れた。
私は遠ざかっていく彼の背中が見えなくなるまで、プラタナスの葉陰に隠れて見つめていた。
私の白夜が沈まぬ太陽が遠ざかり、私の心にまた暗い夜がやってくる。
その私の太陽の最後の煌めきはあまりにも眩しく私の胸に突き刺さった。
.....そうして私とラウルの青春の日々は終わった。私の胸は以前よりなお一層固く凍りつき、愛しい面影を抱き締めたまま永久凍土となった。
ー欲しいものは、何があってもどんなことをしても力づくで手に入れる......ー
私は学者の道を絶ち切り、父の跡を継いだ。誰もが恐れるロシアンマフィア、レヴァント-ファミリーのボスとなり、魔王に変化した。
私の観音菩薩、私の天女、私の可愛い仔犬を、この手に奪還するために......。
ー男は強くなくちゃいけないんだ.....ー
私は誰よりも強い男になる。天地の全てを焦土と化しても、彼をラウルを手に入れる......それが凍てついた氷河の下に眠る私の心の唯一の願いとなった。
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