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第14話 その日は突然に...
私達の別れは突然にやってきた。
二度目の夏が終わり、サンクトペテルブルクの街に冷たい秋の風が吹き始める頃、私が書店から帰ると、ラウルが思い詰めた顔をして私の部屋のドアの前に立っていた。
「どうしたの?」
尋ねる私にやはり口ごもるばかりの彼を部屋の中に招き入れ、いつものようにコーヒーを淹れ、ダイニングのテーブルの上に置いた。カップを両手に包み、鳶色の瞳が私をじっと見上げ、そして伏せられた。
「ラウル?」
黙りこくる彼を促すように顔を覗き込むと彼は今一度、私を見上げた。眼差しが揺れ、彼の唇が小さく呟いた。
「俺......香港に帰ることになった」
「え.....」
私は思わずカップを落としそうになった。彼は震える声で続けた。
「オヤジの仕事の関係で.....。こっちを引き揚げて、香港に戻って楊大人の手伝いをすることになったって......だから俺も....」
「ラウル......!」
中国に返還されてから、香港島が難しい事態になっているのは洩れ聞いていた。統制を嫌う若者と人民政府の間で小競り合いが絶えず、彼らマフィアも組織やその運営に変革を迫られていた。
「俺.....この街に来て.....寒いけど、本当に良かった。ミーシャと会えて、友達になれて嬉しかった。毎日、本当に楽しくて......本当に夢みたいだった」
「ラウル.....」
透明な滴が頬をつたい、カップを握りしめる震える指を濡らした。
「俺......ここに来るまで、何も知らなかった。川や湖があんなに凍ってしまうなんて、冬中、雪が降り続くなんて知らなかった。太陽が沈まない夜があるなんて、知らなかった。ミモザの黄色い花があんなに綺麗で、あんなに待ち遠しい春があるなんて知らなかった」
止めどなく流れ落ちる涙を手の甲で拭い、ラウルはくっ......と顔を上げた。
「『友達』がこんなに優しくて暖かいものだなんて知らなかった。......出来ることならこの街に、.......ずっとミーシャといたい」
ひくっ......としゃくりあげて、だが、ぐっと口許を固く結んで彼は真っ直ぐに私を見て、言った。
「でも.......俺はオヤジに付いていく。.......オヤジは俺を本当に大事にしてくれて......。俺はオヤジのたったひとりの伜だから.....」
「ラウル.....」
「ミーシャ、ありがと。本当に.....優しくしてくれて.....傍にいてくれて、ありがと.....」
涙でぐしゃぐしゃになった顔に精一杯の笑顔を浮かべて私を見つめる彼を引き留める言葉は私には無かった。
「こちらこそ......ラウル。.....いつ発つの?」
私にはそれだけ言うのがやっとだった。
「明日........」
その言葉に私は心臓が止まりそうになった。神様はそこまで残酷なのか.....私は勇気を振り絞って訊いた。
「早いの?」
「ううん......だけど、明日はミーシャは講義の日だろ.....?」
彼は小さく首を振った。なんでこんな時にまで真面目なんだ。私にはラウルより大切なものは無いというのに.....。
私は意を決して彼に言った。
「.明日.........エルミタージュへ行こう、一緒に。.......行ったこと.....無かったろう?」
「うん」
彼はこっくりと頷き、荷造りするから.....と夕暮れの街を帰っていった。窓から見送る私の視界は涌いてくる涙に霞んで、夕陽に呑まれていく後ろ姿も朧気だった。
私はその夜、一睡もすることが出来ず、古びた時計が時を刻む耳障りな音に苛立つばかりだった。いっそあの時計を壊せば、世界中の時が止まるというのなら、木っ端微塵にしてやりたいほどだった。けれど、時は止まらず、時を刻む音は同時に私の胸を切り刻み、私はただただ、地球の自転を呪った。
私は日が昇るとともに、気力を振り絞って最高の私を彼の記憶に残すための身支度を整え、最後の逢瀬に向かった。
彼のアパートまで迎えに行き、メインストリートを経て、女帝エカテリーナの冬の宮殿、エルミタージュ美術館へ向かった。
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