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探偵と刑事#1
スコットランドヤード(ロンドン警視庁)からまっすぐストランドへ。探偵事務所の扉をくぐると、明るい快活な声が飛んできた。
「やあウィルクス君、相変わらず気難しそうな顔をしているな」
エドワード・ウィルクス巡査は顔に出た疲れを隠そうともしなかった。扉の脇で立ち止まり、マホガニー製の大きな仕事机の向こうに腰を下ろしている、大柄な男の顔を見る。
「こんな顔をしているのはあなたに会うからですよ、ハイドさん」
「うすうす気がついてはいた」
探偵は飄々と言った。封筒に糊付けをしている最中らしいが、視線はしっかり若い刑事の顔に注がれている。シドニー・C・ハイドの青い目が、きらきらと輝いていた。
「座りたまえ。いいニュースか? 悪いニュースか? 単刀直入に要件を言って、きみの健康のために早く帰ることを勧めるよ。どうせあまり寝てないんだろう?」
からかうようなハイドを前に、ウィルクスは視線を泳がせた。結局、その視線は手近にあった真紅の椅子の上の本に留まる。スピノザ著、『エチカ』というタイトルをなんの感情もなくなぞったあと、「寝てます」とつぶやいた。
「このところは。マクベイン事件が解決しましたので」
「そうらしいね。ヘインズ警視に聞いたよ。新聞でも読んだ。でも、存分に寝たって顔じゃない。隈ができてるし、顔色も悪いよ。きっと取り調べや書類作成で休めなかったんだろう?」
ハイドの優しさに、ウィルクスはなおのこと頑なになる。だって、あなたの夢を見てこんな顔になったんだから。自分の汚らわしさに、この場から逃げ出したい気分になった。自分自身からも逃げ出したくて、それができず目を伏せる。
「さあ、座って」
封筒を脇に置いて、ハイドが立ちあがった。一八八センチという並外れて大きな体躯なのに、歩くさまはとても優雅だ。不安定に揺れたりしないし、動きがなめらかで、堂々としている。顔も彫りが深いし、やっぱり零落した貴族なのかな、とウィルクスはぼんやり思う(貴族は大柄で彫りが深いと、相場が決まっている)。
ハイドが歩くと風が舞って、大理石のテーブルの上にうずたかく積み上げられた薄い書類の一枚が床に落ちた。彼はかがんでそれを拾い、また元通りにしたあと、ウィルクスの前に椅子を引っぱってきた。茶色の、背もたれがまっすぐな椅子だ。
「きみはいくつだ?」
「きのう二十七になりました」
「若いな。ぼくは四十一だ。椅子があれば座る」
ハイドはそう言って椅子に腰を下ろした。ウィルクスも対抗するように腰を下ろす。ここの住人の尻はどうかしているんじゃないかと思うくらい、座り心地の悪い椅子だった。彼はハイドに届きそうな一八六センチの長身を折り曲げるようにして、椅子の中に尻を浅く乗せた。
いろいろな種類の椅子がやたら多いことを除いては、ハイドの事務所は殺風景だ。壁には、穏やかな波打ち際を描いた素朴な絵が一枚だけ掛かっている。白いカーテンが開け放たれ、窓から雨で湿った夜気が忍びこんでいた。事務所は電気なので、あたりは明るい。夜は特に、外から来ると目が慣れるのにしばらくかかる。ウィルクスは光源から目を逸らし、単刀直入に言った。
「おれはあなたに礼を言いに来たんです。マクベイン事件ではお世話になりました」
ウィルクスは頭を下げた。ああ、というふうにハイドがうなずく。大きな手で半ば白髪になった黒髪を撫で、「お役に立ててなによりだよ」と言った。
「依頼人も報酬を弾んでくれた。それはそうと、警視から直接礼を言ってもらったんだがね。どうしてきみが来たんだ?」
「あの件で助言をもらっていたのはおれだった。だからお礼を、と思いまして」
「きみは礼儀正しいね」
ハイドはにこにこしていた。その笑顔がウィルクスの胸に風を起こす。そよ風だ。風は胸を吹き抜け、淡い匂いを漂わせながら去っていった。
ここまではいつも通りだとウィルクスは思う。この人の笑顔で風が吹くのも、でも、それでなにも変わらないのも。変わりようがない。あんなばかな夢を見たとしても。
虚ろな口を開けている、大理石の暖炉の中に視線を投げ込む。ふいに、その暗闇に夢の映像がオーバーラップした。
この人がおれの上に乗っかって、腰を振って、おれの中を……。
舌を絡めるキスの感触まで本物そっくりだ。と、ウィルクスは思ったが、本当はそんなキスなど、これまでの人生で一度もしたことがない。ハイドとセックスする淫夢を見て夢精してしまったことが気まずかった。今の、現実のハイドはにこにこしている。どうしていいか、ウィルクスにはわからなかった。
扉にノックの音がした。
赤毛のメイドが顔を覗かせる。銀のトレイを両手に持っていた。手は、水仕事が重なるメイドにしてはましなほうだ。美しい顔に淑やかな表情を浮かべ、テーブルの前にひざまずいた。主人と客の前にカップを置く。白い地に青いサンザシが描かれたバーレイのカップだ。ポットもそれと揃いのもの。きちんと時間を守って淹れたアッサムをカップに注ぎ、ミルクと砂糖が入った銀の器をセッティングする。極上の品なのだろう、紅茶の香りがふわりと立ち昇った。視線を上げた彼女の目が、ウィルクスの姿にほんの二秒ほど注がれる。
茶色い短髪が電灯の明かりに光って見えた。男らしいきりりとした眉が見えるほど、前髪は短い。焦げ茶色の瞳は鋭く、威圧感を孕んでいる。目の下には隈。凛々しい美貌が、今はしょぼくれて、疲労の色が濃い。それでもメイドの胸はときめき、守ってあげたいとすら思う。
彼女はテーブルに手作りのビスケットを置くと、立ちあがった。軽く会釈してきびすを返す。ウィルクスを事務所に案内してきたもう一人の使用人、ホプキンスと同じように、足音もなく姿を消した。ハイドがウィルクスに目配せする。
「きみ、マーゴットに惚れてるんだろう? ぼくのことはいいから、話してきたら」
マーゴットというのは先ほどのメイドだ。ウィルクスは頬を引き攣らせる。どういう思い込みだ。言った覚えがないと思う。
「いいんです」
別に惚れてはいない、と言う代わりに、ウィルクスはこう言った。
「おれは、恋愛は興味ありません」
「ぼくと同じだね」
そう言って、ハイドは微笑んだ。ウィルクスは目を細める。
「結婚生活は一度でこりたんでしたっけ」
「そう。女の本性を知ってしまった。きみが結婚しないのは正解だよ。人生の墓場だからね」
こんなことを口にするときも、ハイドはどこか飄々としていた。手痛い結婚生活だったという噂だが、詳しく知りたいとは思わなかった。おれと同じで孤独なのに、この人はどうしてこう人生愉しそうなのだろう。そんな姿がウィルクスには眩しく映る。思わず、口走りそうになる言葉を飲みこんだ。
おれは、恋はしない。そう決めている。男を好きになると、迷惑をかけるから。セックスしたら法律違反だから。ときどき男と寝る夢を見て、夢精して、それがおれの生きる道なんです。
イギリスでは一八六一年まで、男性間で肛門性交を行えば死刑だった。一八六一年以降死刑の適用はなくなるものの、重罪であることは変わらない。一八八五年、男性間で行われるすべての同性愛行為に刑事罰が適用されることとなった。
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