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探偵と刑事#2
一九〇五年。ウィルクスが生きているのはそんな時代だった。
青い目が興味深そうに見つめてくる。
「恋愛に興味がないとしても、きみみたいな男前、女性たちが放っておかないだろう? きっと苦労してるんじゃないか?」
「おれはモテませんし、別にハンサムでもない。自分の顔は嫌いなんです」
「ぼくは好きだけど」
ハイドは自信をもって言う。
「美っていうのはたしかな価値の一つだからね。きみは男前で、凛々しくて、騎士だ」
「……褒めてくださりありがとうございます」
からかわれているのだと、ウィルクスは思っていた。おれはなにをしに来たんだっけ。当初の目的を思いだそうとする。礼を言って、そして……少しでも話がしたい。なぜそう思うのか、自分でもわからなかった。用意してきたことを言う。
「ストライカー警部が錠前破りの道具を貸してくれたんですよ。マクベイン事件で使われたものと同じ道具です。ベテランの刑事は、鍵穴についた傷や手口からたちどころに犯人を割りだすという。おれもそんな刑事になれるように、まずは自分でやってみろと。でも、なかなかうまくできなくて」
「教えてあげようか」
ハイドは予想通りのことを言った。彼が錠前破りを得意としていることは、ウィルクスも知っている。「あの探偵、まさか悪用しないよな」と刑事仲間は半ば囃し、半ば陰口をたたいている。そんなことを知ってか知らずか、ハイドは腰を上げた。
大きな影がウィルクスの上に覆いかぶさった。
「道具、今持ってるか? 貸してごらん」
ウィルクスは黙ってスーツの内ポケットを手探りし、革のケースに包まれた道具を差しだした。
十月十八日。ウィルクスにとってはいつもと同じ一日になるはずだった。ハイドの笑顔にそよ風は吹いても、距離が近づく時も、関係が変わる時も、来ないと思っていた。
ウィルクスはハイドに、事務所の玄関の鍵を相手に錠前破りを説明してもらった。外灯のわずかな明かりの下、扉にかがみこんでごそごそしている二人を、道行く人々が妙な顔で見たのは言うまでもない。ウィルクスが三度目の挑戦で鍵を開けると、ハイドは「よく頑張ったね」と誉めそやす。ウィルクスはますます仏頂面になった。
帰るころになると、ハイドはウィルクスを玄関まで見送って、こう言った。
「よく食べて、よく寝て。煙草の吸いすぎには注意するんだよ。きみは立派な刑事だ。自信がなくて、自分ではそう思えないときがもしあったとしても、みんなきみを頼りにしてるんだよ。じゃあ、元気で」
そう言って手を振られ、ウィルクスは曖昧にうなずいた。大げさな別れの挨拶だと思ったが、どうせすぐに顔を合わせるつもりだった。マクベイン事件の犯人を逮捕したとはいえ、これから裁判の準備を進めなくてはならない。書類作成にはハイドの協力がいるし、裁判にも証人として出廷してもらう必要がある。
ウィルクスは探偵事務所をあとにした。
その一時間後だ。彼の前に、運命を変える女が現れた。
午後九時十八分、ウィルクスはスコットランドヤードを出たところだった。闇の中で、かすかにビッグ・ベンの尖塔と国会議事堂に掲げられたイギリス国旗が見える。雨がひどくなっていたため、旗は降られるままに重くうなだれていた。テムズ河の水面も空から叩きつけられる雨粒で波立っている。風はなく、ただ雨の音だけがウィルクスの耳に届いていた。
傘はなかったが、ハンサムキャブ(辻馬車)を拾いたくても車体の影が見えない。降りだして一時間は経つが、出払っているようだ。官僚たちの帰宅が重なったのかもしれない。
ウィルクスは肩を回した。体が重い。錠前破りの道具をストライカー警部に返そうと思いヤードに戻ってきたはいいものの、すでに帰宅したあとだった。机の上に置いて帰ろうか。そう思案していたところで同僚の刑事に呼びとめられ、重い書類を抱えて資料室へ続く階段を三往復することになってしまった。
疲れた体を引きずって、ミルバンク地区にあるテイト・ブリテン博物館の近くの下宿に戻ることにした。徒歩二十分ほどの距離だ。早足ならもっと早く着くかもしれないが、体が言うことを聞きそうになかった。ウィルクスはヤードの玄関扉の脇に立ち、赤煉瓦の庁舎の前で、歩きだす前の一服をしようとした。ポケットから取りだした煙草をくわえ、マッチに火をつける。
暗闇の中、目の前に女の姿が浮かび上がった。
ウィルクスは体を強張らせた。見えなかった。まるで無から突然現れたように見える。降りしきる雨の中、女は微動だにせず佇んでいた。黒いベールをかぶった女だ。ベールが厚いため、顔はわからない。肌は闇の中でもわかるほど白い。きめの細かさすら感じとれる。結い上げられた金色の髪がひどく眩しく見えた。燃えるマッチを持ったまま、女の顔を凝視した。
火が指を焼いた。
女は一歩、足を踏み出した。ウィルクスはマッチを足元に捨て火をもみ消したが、視線は女に注いだままだ。庭に植えられた樹が風にさざめいた。女はさらにウィルクスに近づいた。光沢のある鮮やかな青いドレスが揺れる。流行おくれの古臭い服だ。闇を跳ねつけるようにたたずむ小柄な体に、意志の強さがみなぎっている。
「来て」
突然、女が言った。ウィルクスは瞬時に女のほうに踏みだした。
「どうかしたんですか? なにかトラブルですか?」
手を差し伸べると、女はその手を握った。華奢で、あたたかい手だった。左手の薬指に金の指輪がはまっているのが見える。女は甲高い声で叫んだ。
「シドが大変なの」
「シド?」
「シドニー・C・ハイド。ミスター・ハイドよ。来て。死ぬかもしれない」
体に電流が走った。手を離して駆けだしたウィルクスのあとを、女がすべるようについてくる。
「事故? それとも、だれかに襲われているとか?」
「自殺よ」
ウィルクスの顎が強張った。水たまりに踏み入れてしまい、靴もズボンもしとどに濡れる。雨粒が顔を打った。闇の中に飛び出し、ストランドの方向に駆けだす。
闇の中を疾駆し、ホワイトホールを越え、チャリング・クロス駅を横目に通り過ぎる。胸が苦しく、鼓動がうるさい。女はついてきているだろうか? 姿が見えない。
広大なトラファルガー広場を右に曲がり、ストランドに入った。大きな病院がある。道に面して並ぶ窓ガラスの向こうは黒々としていた。ウィルクスは病院の窓を見上げ、そこで呼吸を整えた。肺が痛い。しばらく立ち止まり、またハイドの事務所目指して走りだす。
石畳を駆ける。いつもは通行人でいっぱいの通りは、土砂降りのせいか歩いている人間など一人もいない。ただ、怯えた野犬に出会っただけだ。道の両側に並ぶビルや家の窓にはカーテンが降りていた。ふくらはぎが攣りそうになり、それでも走る。帽子が飛んだが、拾っている時間はなかった。ハイドの事務所の前まで来ると五段ある階段をのぼり、玄関にたどりついた。
ドアノブを回した瞬間、ウィルクスの背中に冷たいものが走った。鍵が掛かっている。がちゃがちゃとノブを回し、扉を叩く。
「ハイドさん? ハイドさん、開けてください!」
上階を見上げた。灰色の煉瓦が積まれたテラスハウス。事務所にしている二階の窓には明かりが灯っている。しかし、家の中はしんとしていた。
力づくでドアノブを回すが、開かない。諦めて、裏口を探しに行こうとした。突然、後ろから女の声が聞こえた。
「あなた、開けられるでしょう? 道具を持ってるはずよ」
ウィルクスは気がついて、スーツの内ポケットを探った。あった。ストライカー警部に借りた錠前破りの道具。幸運に震えながら扉の前にひざまずいた。鍵穴に、細長い針金のような道具を差しこむ。手ごたえを探すが、うまく掴めない。手が震えていることに気がついて、自分を叱咤する。落ち着け。いつものように、冷静にやるんだ。自殺者なんて毎日たくさんいる、そうだろ?
「主は乗り越えられる試練しかお与えにならないわ」
女がささやく。ウィルクスは集中しようとした。目元に力を入れ、指先で道具が返してくる微妙な手ごたえを掴もうとする。一分が経ち、二分が経った。二、三度手ごたえがあったが、うまく開かない。それでも手を動かし、耳をすませた。
確かな手ごたえがあった。かちっ、とかすかな音が鳴る。ドアノブを回し、力を込めると、拍子抜けするくらいあっさり開いた。家の中に飛びこむ。
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