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探偵と刑事#3

「事務所よ」と女が後ろからささやく。 「シドは本気よ。死ねって言われたから、死ぬつもりなのよ」  ウィルクスは二階へ続く階段を駆け上った。肺が痛い。雨で濡れた拳で事務所の扉を叩き、返事を待たず押し開けた。扉は吸いこまれていくように開いた。  仕事机の向こうで、椅子に腰を下ろしたハイドが銃口を覗きこんでいた。 「ハイドさん!」  ウィルクスが叫ぶと、ハイドはバネが切れた人形のように顔を上げた。 「きみか」  つぶやくハイドに、ウィルクスは一歩にじり寄った。 「拳銃を下ろしてください」 「ずぶ濡れじゃないか」 「そんなことどうでもいい。死ぬ気ですか?」  ハイドは黙った。しかし、ウェブリー・リボルバー、Mk‐Ⅳを構えたままだ。ウィルクスはまた一歩、ハイドに近づいた。ハイドは弾かれたように銃口を向けた。黒く虚ろな穴が刑事を見つめる。ウィルクスは睨み返した。自分とハイドのあいだにある椅子やテーブルを目の端にとらえる。もし発砲されたらこいつで弾を防げるだろうか? いや、それは無理だ。そのくせ止めに走り出すには邪魔だった。 「どうしたんだ? なにか用事か?」  なんだ、その言い方。穏やかな口調に、ウィルクスの胸がざわつく。ハイドの目を見つめた。 「止めに来たんですよ。ある女性が教えてくれたんです。あなたが死のうとしているって」  そう言いながら、ウィルクスは背中で女の気配を探す。振り向いて探したかったが、目を離すとハイドが発砲するかもしれないと思い、できなかった。気配は、今はない。ウィルクスの背後では、ただ扉が開け放たれているだけだ。 「ある女性?」ハイドがつぶやいた。「ああ、アリスか」 「アリス?」 「彼女のことは気にしなくていい。そうか、錠前破りの道具を今もまだ持っていたんだな。それを見ていたから、彼女はきみを連れてきたのか」  見ていた?  ウィルクスはハイドの顔から視線を外し、その手に注意を集中する。考えるのはあとからだ。ハイドの指は引き金にかかっている。撃鉄は起こされていない。それで、ウィルクスの体からわずかに力が抜けた。しかし、すぐに気を引き締める。止めに入るよりも速く、ハイドが撃鉄を起こして自らを撃ち抜くことは可能なのだ。  この人がいなくなった世界は想像できない。ウィルクスはそう思った。それは「ありえない」からではなく、本当にどうなっているのか想像がつかないのだ。誰もいない探偵事務所。疎んじながらも利用しようとする刑事たち。妬む刑事たち。警察にひしめく、自分のように野心的な仲間たちの視線の先に、ハイドがいなくなる。  それがどういうことなのか、ウィルクスにはわからなかった。突然視界が奪われる、そんな感じかもしれない。ハイドを見据えたまま、一歩踏み出す。 「死なねばならないほど、大きな悩みがあるんですか? おれでは、力になれませんか?」  ハイドは無言だ。黙ってウィルクスの目を見返している。しかし、リボルバーを持つ手がかすかに下がった。ウィルクスはそれを見逃さなかった。心を閉ざしているわけじゃない。それを確信したとき、震えるほどうれしかった。ハイドは黙ってウィルクスの顔を見ている。ウィルクスはじりじりしながら、さらに言った。 「安請け合いはできないけど、でも、もし困っているなら話してくれませんか。なにか、力になれるかもしれない。あなたに死んでほしくない」  言い切ってしまうと、体が軽くなった。狼のような顔を見つめる。無表情の中に、わずかに感情が見える。どこかおもしろがっているような。 「きみは本当に騎士だな。見た目だけじゃない。その魂が」 「ハイドさん。ふざけてる場合じゃないんですよ」 「ふざけてなんていないよ。きみは救世主になれる。あるいは、ヒーローに」  その言葉が皮肉なのか、ウィルクスにはわからなかった。説得することしかできない。しかし、ハイドは真剣に聞いていないように思える。 「自殺したら、主が喜ばれませんよ」  試しにそう言ってみると、ハイドはただ微笑んだだけだった。ウィルクスの額に冷や汗が浮かぶ。 「あなたらしくないですよ。誰かに死ねと言われて死ぬなんて」 「そのこと、アリスが教えたのか? でもね、人間にはしがらみがあるからな」 「しがらみなんかで死ぬことはないんです」 「きみの言うことはもっともだ」  二人は見つめあった。  ハイドさん。死なないでください。あなたが死ぬと寂しい。  叫びたかった。しかしなぜか言えなかった。  ハイドはリボルバーを机の上に置いた。ゆっくりと腰を上げる。椅子が軋んだ。静かな足取りでウィルクスに歩み寄る。今このときも、体の使い方がとても優雅だ。ハイドは年下の男に向かい合い、スーツのポケットから取り出したものを手渡した。  薄いブルーのハンカチだった。 「それ、使いなさい。今、タオルを持ってくる」  そう言って、ハイドは事務所から出ていった。あとを追わなきゃ。ウィルクスはそう思うのだが、体に力が入らない。手の中のハンカチを見つめた。  ハイドはすぐに戻ってきて、ウィルクスの頭にタオルをかぶせた。彼が髪を拭いている姿を、ハイドは少し離れて立ったまま眺めていた。 「今日は死なない」  ハイドが言った。ウィルクスはなじるように返す。 「明日は?」 「明日も死なない。……たぶんね」 「ずっと死なないでください」 「誰だって、いつかは死ぬんだよ」 「自分では死なないでください」 「約束はできない。ぼくは、できない約束はしないんだ」 「でも、約束してくれなくちゃ困る。おれが家に帰れない」  ハイドは微笑んだ。 「真面目だな。それに、黄金の心を持っている。きみはいい警官だね」  ウィルクスはタオルを持ったまま固まった。嘘だろ。目に涙がこみあげそうになっていることに驚く。突っぱねるようにタオルを差しだした。 「とにかく、死なないでください。約束ですよ」 「……きみはしつこいね。まあ、それもいい警官の条件ではあるか」  ハイドはタオルを受けとり、「傘、貸してあげるよ」と言った。 「懐中電灯も貸そうか? 帽子を落としてきたんだろう?」  この人はなんでもお見通しなのか。ウィルクスは目元に力を込めた。 「いりません。見つけられます。また明日の朝、元気かどうか電話しますからね。出てくださいよ」 「はいはい」  そう言って、ハイドはタオルを手の中でたたんだ。 「気をつけて帰るんだよ」  帰り道、ウィルクスは借りた傘を手にとぼとぼと闇の中を歩きながら、ハイドと別れた二時間ほど前のことを思いだしていた。 「よく食べて、よく寝て。煙草の吸いすぎには注意するんだよ。きみは立派な刑事だ。自信がなくて、自分ではそう思えないときがもしあったとしても、みんなきみを頼りにしてるんだよ。じゃあ、元気で」  あれは別れの言葉だったんだ。あの人は、死ぬつもりだったんだ。  ウィルクスは振り向いて、青いドレスの女を探した。あの女なら詳しいことを知っているはずだ。話がしたかった。しかし、女の姿は今はどこにもない。  重い体を引きずり、下宿を目指した。ふいに帽子を失くしたことを思い出した。帽子は手持ちがあと一つしかない。ウィルクスは帽子を探しに夜道を引き返した。

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