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あなたは化け物だった#1

 翌朝は曇りだった。朝の五時。ウィルクスは思いきり毛布を跳ねのけた。力なく自分の脚のあいだを見る。またやってしまった。情けなさと罪悪感と虚しさで、胃がむかついた。  昨夜の夢はひどかった。相手はまたしてもハイドだ。しかも、彼のモノを口に咥えていた。  最低だ、と自分を罵り、パジャマのズボンを脱いだ。あの、咥えて舐めまわしていたときの感触が今もまだ口の中に残っている気がする。もちろん、フェラチオをした経験などない。バスルームに駆けこみ、口をゆすぐ。それでも、あのイメージは消えない。夢の中で、喜々としてハイドの分身を咥えこむ自分。下品な音を立ててしゃぶりながら、ウィルクスは自分で自分を慰めていた。  頬を平手で強く叩く。若い男が、女の夢を見るのとはわけが違う。その事実に押し潰されそうだった。  早朝に目覚めたそのままの勢いで、朝から煙草を吸いまくった。吸いすぎには注意するんだよ、と言われていたな。居間を兼ねた食堂の固い椅子に腰を下ろし、ウィルクスは煙草を指に挟んだままぼんやりとハイドの言葉を思いだす。灰皿に煙草を押しつけ、もう一本咥える。火をつけて、声がかすれるまで深々と吸った。  スコットランドヤードに登庁すると、ウィルクスはハイドに電話を掛けた。昨夜、電話すると言った手前するしかなかった。緊張して受話器を握り、仕事をしている同僚たちに背を向けて立つ。交換手が繋いでくれるまで、息をひそめて待った。  電話に出たハイドの声は寝起きなのかいつもよりもさらに低かった。それでも、口調はいつもと同じだった。穏やかで、落ち着いていて、聞きとりやすい抑揚で話す。 「ぼくは元気だよ。きみは?」 「おれも元気です。考えを変えてくれたんですか?」 「考え?」 「自殺するつもりだったでしょう?」 「帽子は見つかった?」  ウィルクスは眉を寄せる。 「見つかりました。三十分掛かりましたけど」 「よかった。風邪引いてない? 声、かすれてるよ」 「元気だと言いましたよ。傘は、今日返しにいきます」 「いつでもいいよ。じゃあ、また。仕事お疲れさま」  電話は切れた。  ウィルクスは受話器を戻し、口の中を噛んだ。話をはぐらかされたし、昨日の女が何者かも聞きそびれたままだ。ずいぶん親しげに名前を呼んでいた。そのことが脳裏にこびりついている。そのまましばらくじっとしていた。しかし、電話を掛けに来た同僚が代わってほしそうだったので、脇にどいた。  その日は何事もなく過ぎた。ウィルクスはマクベイン事件の被疑者を取り調べた。被害者がマクベインという名なのでマクベイン事件だ。被疑者はレオナルド・エヴァンズと言う。貿易会社の社長だ。インドに拠点を置き、フランスをはじめとするヨーロッパ一帯、東は日本にまで紅茶や家具を輸出入している。年商千ポンド以上、リージェント・パークの近くに最新設備を備えた邸宅を構えていた。人生の絶頂にいるこの男が、なぜ部下の家の鍵をこじ開け彼を殺害したのか。それはまだ明らかになっていない。  何事もなく過ぎたというのは、なんの進展もなかったということだ。ウィルクスが煙草を吸う回数が増えただけだった。エヴァンズはハンカチで禿頭を拭くばかりで、なにも語らない。おどしてもすかしても、彼がする動作は頭を拭くことだけだ。育ちのいい顔は曇っているが、怯えは見られない。面会に来る人間はいなかった。唯一の家族である妻は、夫が逮捕されたと知るとヒステリーを起こし、現在入院している。  なんの収穫もないまま、ウィルクスは午後九時過ぎにはヤードを出ていた。もう少し粘るべきかと思ったが、弁護士がそれをさせなかった。早口でしゃべる、お高くとまった弁護士だ。ウィルクスの目つきも自然と鋭くなる。それでも、強いてもの柔らかな態度に出ることにした。  雨が落ちてきそうな気配の中、夜道を帰路につく。無数に突き出した煙突から煙がたなびき、空を覆っていた。ウィルクスがその脇を通って帰るテムズ河には、船が幾艘も浮かんでいた。暗闇の中、黒猫が目の前を駆け抜けていってぎょっとする。忙しい一日でつかのま忘れていたが、またハイドのことを思いだした。夢のハイドではなく、電話で話したハイドだ。  結局、自殺することはやめたのかどうか、わからないままだった。明日も電話を掛けたほうがいいかもしれない、とウィルクスは思った。  しかし翌日、電話をかけそびれてしまった。刑事たちは年間三十件ほどの事件を一人で担当する。ウィルクスもマクベイン事件を手掛けていたが、別の捜査もしろと警視から命じられたところだった。フリート街で、老婆が強盗に遭って殺された事件だ。盗みはストライカー警部の得意分野だが、彼が休暇をとっているため、ひとまずウィルクスが現場に向かうよう命じられた。午前中はそれで潰れ、昼いちばんにストライカー警部が登庁したので、バトンタッチとなった。  すでに体が重い。ウィルクスは昼食もそこそこに、オフィスでマクベイン事件の捜査記録を読み返していた。隣のデスクのトルーマン巡査が覗きこんでくる。ふだんは優しい顔に疲労の色を浮かべて、捜査から戻ってきたところだった。眼鏡の位置を直しながらウィルクスに声をかける。 「ハイドさんがいたぞ」  ウィルクスは目を丸くした。 「どこに?」 「下に。受付の前をうろうろしてた」 「……なんでそれをおれに言う?」 「ハイドさんはきみの友達だろ?」 「……そういうんじゃないよ」 「いや、そうだったな。友達というよりかは……」  そこでトルーマンは言葉を切った。椅子から腰を上げたウィルクスを見上げ、にこっと笑う。 「まあまあ。でも、様子を見てきたら? いくら警察の協力者とはいえ、ここの職員にはあんまりいい顔されないから」  ウィルクスはかすかにうなずいて、オフィスを出た。  受付がある一階に降りる。庁舎の南側に別館を建てる工事のため、外は賑やかだ。ウィルクスはあたりを見回した。ハイドの大きな背中が見える。彼の前に立っている事務職員は平均身長なのだが、はるかに小さく見えた。職員は、ウィルクスの視線に気がつくと明らかにほっとした顔になった。ハイドが振り向く。片手を挙げた。 「やあ、ウィルクス君」  ウィルクスは近づいていって、はっとした。ハイドの顔に、殴られた痕がある。頬骨のところも派手に擦り切れて、かさぶたになっていた。 「やあ、じゃないですよ。ケガ、どうしたんですか?」 「ケンカに巻きこまれてね」  そう言って、ハイドは職員のほうを向いた。 「彼ならどうだ? C・I・D(犯罪捜査部)のウィルクス巡査」 「ウィルクス巡査なら、かまいません」  ウィルクスのほうを向き、「よろしくお願いします」と頼む。ウィルクスが怪訝な顔をすると、ハイドは気楽に言った。 「資料室で資料を見させてもらうのに、警官が同伴でなくてはいけないと言われたんだ。きみならもってこい」 「おれだって仕事があるんですよ」 「迷惑か?」  ウィルクスは目を逸らした。 「ちょっとくらいならいいでしょう」  よかった、とハイドが笑う。ずんずん歩いていくので、そうだこの人、場所はとっくに把握してるんだよなとウィルクスは思った。ハイドは階段を上がり、廊下の突き当りにある資料室にたどりつくと、職員から借りた鍵で錠を開けた。ウィルクスに鍵を渡すと、中に入り名簿に名前を書く。ウィルクスもその下に名前を書いた。資料室は鉄製の棚で埋まり、そこかしこにファイルされた資料が並んでいる。空気が冷たい。ハイドは立ち止まることなく奥から三番目の棚の前に歩いていった。ウィルクスが後ろから声をかける。 「なにを知りたいんですか?」 「強請りの得意な犯罪者について知りたいんだ」  ハイドは大きな体をかがめて床に膝をつき、いちばん下の棚からファイルを取りだした。  ページをめくって読みはじめる彼に、どこになにがあるかもわかっているんだなとウィルクスは舌を巻く。ふと、おれはどうすればいいのだろうと思った。とりあえず、ハイドの隣に立って書類を覗きこんだ。比較的、最近の事件記録について調べているらしい。ハイドは立ちあがって、さらにページを繰った。斜め読みし、ぱらぱらとページをめくる。また床にひざまずき、別のファイルを取る。ウィルクスは突っ立ったままでいる。居心地が悪い。  ハイドはページをめくっていたが、手を止めてファイルを元の場所に返した。それをあと二度繰り返す。「うーん」とつぶやいた。 「これじゃわからないな。強請りに詳しい刑事は誰かな?」 「ストライカー警部です。まだ戻っていないかもしれませんが、見てきましょうか?」 「頼むよ」  ウィルクスは廊下を早足で歩きだした。ハイドが資料室の扉の外に出て待っていると、背後に気配を感じた。振り向く。青いドレスの女が立っていた。

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