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あなたは化け物だった#2
「アリス」
アリスはこの日も厚い黒のベールで顔を覆っていた。きんきんする声で言う。
「わたし、ミスター・ウィルクスのこと、好きになれないわ。あなたを見る目がおかしかった」
「ぼくは民間人だからね。信用できないんだろう」
アリスはなにも言わなかったが、ベールの奥で青い瞳が鋭くなったのが、ハイドにはわかった。
「でも、きみを助けてくれた人なんだよ。ぼくが危ないときみが言ったら、素直についてきてくれただろう?」
「わたしを助けた、じゃなくて、あなたを助けた、でしょ?」
「ぼくがいなくなったら、きみはダメージを受けるだろう。生きていけないほどのダメージを」
「うぬぼれてるのね。それに、どのみちもう死んでるもの」
「ウィルクス君はいい子だと思うけどな」
アリスは華奢な手で裾を払った。
「あなたは知らないのね。彼がどんな人間なのか」
「真面目で、職責を果たそうとする刑事だ。警官っていうのは、常に上司や市民がその素行に目を光らせている。不祥事を起こせば監獄で重労働ののち免職だ。捜査にも犯人逮捕にも一人で乗りこまなければいけないから、危険も多い。ストレスが溜まるきつい仕事なのに、ウィルクス君はめげずに頑張ってる。頑張り屋さんだよ。それに、可愛いし」
「可愛い?」
鋭いハイドも、このときのアリスの語調の変化には気がつかなかった。微笑んで言った。
「そう。一生懸命で可愛いよ。親元を離れて一人、寄宿学校で頑張ってる男の子ってかんじだ」
ベールの下でアリスの目が光った。足音に、ハイドが振り向く。ウィルクスが小柄な男を連れて廊下を戻ってくるところだった。
「ありがとう、ウィルクス君」
ハイドが声をかけると、ウィルクスは目でうなずいた。背後にいる男を紹介する。
「ストライカー警部です」
ストライカーは噛み煙草をくちゃくちゃ言わせながらうなずいた。枯れ木のような男だが、ぎょろぎょろした目と折れ曲がったのをむりやり修復した鼻に凄みがある。警部は血管が浮きあがった鼻筋を指で掻いた。鋭い目が探偵の頬に走る。ハイドも目礼した。あまりにも身長差があり、ストライカーのひ弱な体はハイドのがっしりした体の前では柳に見えた。
「マクベイン事件では手柄だったそうだね」
ストライカーが口を開くと、ハイドは「少し、お手伝いしただけです」と答える。
「謙遜だな。あんたの助言がなかったら解決しなかった。まあ、動機は未だ不明だが。それはウィルクスが解明するだろう」
「ウィルクス君は優秀な刑事ですからね。安心していいと思いますよ」
そう言って、ハイドはストライカーの背後にいるウィルクスに微笑みかけた。ウィルクスは長い睫毛を伏せる。おれに振らないでくれと思う。背筋を正して年上の二人に言った。
「わたしはオフィスに戻っています」
ストライカーはうなずき、ハイドは片手を振った。ウィルクスが背中を向けて歩き去ると、警部は薄い片眉を上げた。
「おれになんの用事だ? ウィルクスは、あんたが強請り屋について知りたいんだと言っていたが」
「上流階級を相手に仕事をしている強請り屋が誰か知りたいんです」
「その傷も探し人に関係があるのか?」
「さすがに鋭いですね。いえ、まだはっきりとはわからないんです。ただ、ちょっとしたごたごたに巻きこまれていましてね」
「警察に相談してはどうかな?」
ハイドは考えこむようにストライカーを見た。警部の皮肉には慣れている。
「それがいいのかもしれませんね。ただ、ぼくは探偵です。依頼人の意向を守らなければなりません」
「警察に言うな、というのがそいつの意向か?」
「答えることはできません。秘密を守るのも仕事ですから」
ストライカーは鼻を鳴らした。ハイドに背を向ける。
「教えてやってもいい。あんたには世話になってるからな。それは事実だ。それに、ウィルクスはあんたの女房役だって言われてるしな」
ハイドはきょとんとした顔になる。
「知ってるか? そんなふうに言われてるのを」
「知りませんでしたね。ウィルクス君がぼくの女房役?」
「我らが仲間の旦那様には、協力してやらないとな。それが礼儀だ。そうじゃないか?」
そうですね、とハイドは答えた。ストライカーの背中についていく。
「嫌味ったらしい人ね」
ハイドの後ろでアリスが憤然とつぶやいた。
その日、ウィルクスが仕事をしているあいだに、ハイドは話を終えて帰っていった。ウィルクスはオフィスに戻ってきたストライカーになんの話をしたか聞きたかったのだが、警部はすぐに捜査に出掛けてしまった。
頬のケガは、強請り屋と関係があるのだろうか、とウィルクスは書きかけの書類を睨みつけながら考える。それとも、彼に死ねと言った人物と? ハイドがなにも言わないことに胸がひりひりした。暗い顔で考えこんでいるウィルクスを、トルーマンは心配そうな顔で見ていた。
結局、取り調べがうまくいかないまま、この日も終わった。弁護士はあからさまに見下すような態度をとり、ウィルクスの顔が険しさを増しただけだった。
その夜、ウィルクスは疲れた体を引きずり、傘を持ってハイドの探偵事務所を訪れた。
ベルを鳴らし、待つ。扉が開き、白髪の使用人、ホプキンスが顔を覗かせた。七十歳を迎えているという噂だが、伸びた背筋となめらかな所作で二十歳は若く見える。今日も使用人らしく慎ましい無表情を浮かべていた。
「少々お待ちください。ご来客中でございます。ご都合を伺ってまいります」
「邪魔しちゃ悪いな。おれは傘を返しにきただけだから」
しかし、ホプキンスはウィルクスを玄関ホールに招き入れると扉を閉じて、二階にあがっていった。壁に掛けられた金縁の鏡でタイが歪んでいないかチェックする。鋭い目が見返してくるので、がっかりした。もっと可愛い顔だったらよかったのに、と思う。
ホプキンスがすべるように階段を降りてきた。
「おあがりくださいとのことです。お帽子をおあずかりいたします」
ウィルクスは一度失くした茶色いボウラー・ハットを皺だらけの手にあずけ、階段をのぼっていった。
事務所でもある居間の扉をノックすると、すぐに入るよう声がかかった。ウィルクスが扉を押し開けると、椅子に腰を下ろしているハイドの前に、見知らぬ男がいた。ディナー・ジャケットで正装している。男はウィルクスのほうを振り向くと、目礼した。ハシバミ色の目が印象的だ。落ち窪んだ眼窩に覗く目つきが鋭い。まるで薄い刃のようだ。その刃のような目が、ウィルクスの目にまっすぐ飛びこんでくる。ウィルクスはぎくっとしたが、目礼を返した。
「フレッド、ヤードのC・I・Dで刑事をしているエドワード・ウィルクス君です」
こちらもまた正装したハイドが、二人を引きあわせた。
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