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あなたは化け物だった#3
「ウィルクス君、彼はぼくの兄の、フレデリック」
「お兄さん?」
ウィルクスは驚いてフレデリックの顔を見た。色の薄い金髪と髑髏のように痩せた顔は、兄弟と言われても似ているとは思えない。長身ではあるが、身長もハイドより十センチほど低かった。フレデリックもウィルクスの言いたいことを察したのだろう。
「母親は違うがね」と落ち着いた声で言った。
「わたしは次男だ。長兄はアイザックと言う。シドは末っ子でね」
「フレッドはオックスフォードで哲学科の教授をしているんだよ。ロンドンで学会があって、こっちに出てきてるんだ」
ハイドがのんびり口を挟むと、フレデリックはうなずいた。
「よろしく、ウィルクスさん」
「よろしくお願いします。……シドニーさんとお兄さんは、もしかしてアッパー・クラス(上流階級)の出身ですか?」
名門大学の教授と聞いて、ふと思ったことだ。ハイドは「ジェントリの出だよ」と言った。
妙に納得した。貴族のように、大地主であるジェントリ階級も、土地や財産は長男世襲制だ。だから弟たちはなにも継ぐことができない。ぶらぶらしている子弟たちも大勢いるが、手に職をつける人間もまた多い。ハイドも兄もそういう意味では、適職を見つけたということになる。
急に、ウィルクスはなんと話しかけていいのかわからなくなった。ジェントリ階級なら二人とも、きっと子どものころは家庭教師がつき、上流階級の子弟にのみ入学を許されたパブリックスクールに通って、そのまま大学へ進学したのだろう。
ウィルクスは初等教育を受け、中等教育としてグラマー・スクールに通っていた。中流階級としては、満足な教育を受けたことになる。それにウィルクスは十七歳でロンドンに出てからも、本を読み自分で勉強を続けている。初等教育しか受けていない警官も多いし、同僚のトルーマンもそうだ。しかしそれでも、フレデリックやハイドを前に、ほとんど畏怖のような感情を覚えた。
マーゴットがウィルクスに出すお茶を持ってきた。ハイドは座るように促す。ウィルクスは手近にあった、狂気じみて優雅なつくりの椅子に腰を下ろした。肘掛の部分に、シューベルトの『魔王』の一節が彫りこまれている。ゆっくり脚を伸ばし、深く腰掛けようと意識した。傘を椅子の横に立てかける。フレデリックはお茶を飲みながら、ウィルクスの顔をまじまじと見ていた。
「ヤードの刑事だなんて、きつい仕事をしておられるんだね。しかも、うちの弟がなにかと迷惑をかけているんじゃないかな?」
ウィルクスは首を横に振った。
「ハイドさんは、いつも警察の手助けをしてくださいます。自分の名前を出せとは決しておっしゃいません。わたしたちは、とても世話になっているんです」
「驚いた。ものすごく理解がある刑事さんじゃないか」
「おれは、ハイドさんに、その……」
憧れているんです、という言葉を飲みこむ。願わくばこの人のように仕事ができたら、と思うことに、今は素直になっていた。広い視野、情報と情報を繋ぐひらめき、鋭い直観と、ハイドが自分に欠けているものをすべて持っているように感じる。妬ましい、と思うこともある。それでもウィルクスを突き動かすのは、ハイドに対する憧れだった。今度はハイドさんのように仕事をしよう、もっと広い視野を持とう、あの人のように常に冷静でいよう。しかし、結果にはいつもがっかりする。
ハイドの目が輝いていた。
「ウィルクス君はいい子だからそう言ってくれるんですよ。それに、彼は優秀な刑事です。まだ二十代なのに、いくつも事件を解決している」
それはあなたが助けてくれたから、とウィルクスは言おうとしたが、ハイドが言わせなかった。
「ウィルクス君は謙遜しますけどね。全部、彼の実力ですよ」
話を聞いていたフレデリックが笑いだした。笑うと法令線が目立つ。弟そっくりのおおらかな笑顔だった。
「なるほど。おまえがそう言うなら、そうなんだろうね」
ハイドはほっと息をついた。そのとき、ウィルクスは気がついた。ハイドが兄に対して、若干だが緊張しているということに。それは兄に対する目つきや、しぐさや、間の取り方から感じ取れた。いつも堂々としているこの人が珍しいな、とウィルクスはかすかに笑みを浮かべる。
「ところで、シド」フレデリックが急に真面目な顔になった。
「ウィルクスさんがそんなに優秀なら、あの件、相談してみたらどうだ?」
ハイドの顔がわずかに険しくなる。
「でも、アイザックが承知しないと思いますよ」
アイザック。いちばん上の兄の名前だ。ウィルクスは努めて静かに紅茶を口に運んだ。気配を消して、ただ言葉のやりとりを見守る。フレデリックは食い下がった。
「あの件は、たしかにデリケートだよ。だが、相手はよからぬ人間だ。言っては悪いが、おまえが相手をするには荷が重くはないかな。いくら探偵とはいえども」
「探偵だからですよ。ああいった手合いは慣れています」
「だが、危険だよ。おまえは言わないが、そのケガも仕事絡みでやられたんじゃないのか?」
奥さんも心配してるだろう、とフレデリックは言った。
「アリスはいつもどおりですよ。いつだって心配性なんです。もう別れているのに」
「心配してくれる人がいるなんて幸せなことじゃないか」
アリス? ウィルクスはカップをソーサーに戻し、その名前を胸の中で繰り返す。おととい、ハイドさんが死のうとしていると言っておれの前に現れた女性。彼女を、ハイドさんはアリスと呼んだ。
フレデリックは身を乗りだした。
「まずアイザックの意向を聞かねばならないがね。彼が実質、家長だから。だが、ザックがいいと言ったら、助けていただきたいな。どうかなウィルクスさん?」
「犯罪絡みなら、警察に相談するのがいちばんいいと思いますよ」
そう言って、ハイドの顔を見る。なんでも自分でやってしまう私立探偵は、有能なぶん思いあがりがある。ウィルクスは以前、ストライカー警部が言った言葉を思いだしていた。それに、ハイドがこれ以上ケガをするのは嫌だった。ハイドは眉間にかすかな皺を寄せている。ぽつりと言った。
「アイザックに相談してみますよ」
「わたしがしようか?」
「大丈夫ですよ、フレッド。ぼくはもう子どもじゃない」
そう言うと、ウィルクスの存在に気がついたかのように笑いかけた。
「ありがとう、ウィルクス君」
ウィルクスはこくりとうなずいた。
フレデリックはお茶の最後の一滴を飲み干すと、腰を上げた。
「手洗いを借りていいかな?」
ハイドがうなずくと、フレデリックは事務所から出ていった。
二人だけになり、沈黙が落ちた。
ウィルクスはゆっくりと紅茶を飲んだ。この日も、香り豊かで爽やかな風味が引き立つように淹れられている。ミルクも、いつも極上のものだ。ハイドさんがマーゴットを手放さないのもわかるな、とウィルクスは口の中の液体を味わった。飲みながら、もう死ぬつもりがないのか訊こうと決める。談笑したあと、その一時間後に死のうとした。そんな男なら、今だって死にかねないかもしれない。
カップを置き、勇気を奮ってハイドの目を見た。
「あなたが死ななくてよかったと思っています」
「ああ。今のところはね」
「これから先もずっと、ですよね?」
「フレッドにはその話をしないでくれ。心配するからね」
ハイドは手を伸ばした。
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