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あなたは化け物だった#4
「傘。返しに来てくれたんだろう?」
ウィルクスは黙って傘を差しだした。ハイドは身を乗りだして受けとり、にこっと笑った。
「あの日はひどい雨だったな。でも、きみに傘を貸してすぐに止んだね。濡れなかったか?」
「……あなたは、自殺しかけてもいつもと変わらないんですね」
ハイドが黙る。おれはなにを言おうとしている? 責めるような口調になっていたことに、自分でも驚く。だが、鋭い目を和らげることはできなかった。ハイドはふと微笑んだ。
「ああ。ぼくは感受性が死んでるからね。だが、きみを傷つけていたら、すまない」
傷ついている? ウィルクスは頬を撫でた。どっと疲れを感じた。話を変える。
「あなたの別れた奥さん、アリスさんって言うんですね。あなたが危ないとおれに言いに来た女性ですよね? おれがこの部屋に入ったあと、すぐに帰ってしまわれたんですね」
「帰ったわけじゃないよ」
そう言って、ハイドは視線をウィルクスの後ろに移した。ベールをかぶった青いドレスの女が、茶色い椅子に腰を下ろしている。
「振り向いてごらん。そこに彼女がいるから」
ウィルクスは弾かれたように振り返った。しばらく黙る。
「誰もいませんが」
「きみには見えないよ。アリスは、死人だから」
ウィルクスはもう一度背後を振り返った。ハイドのほうに向き直り、「死人?」とつぶやく。
「死人、とは?」
「そのままの意味だよ。死んだ人。アリスはもう死んでるんだ」
背中の産毛が逆立った。ウィルクスの後ろで、アリスは背筋を伸ばし、深く椅子に腰を下ろしていた。
「あなたと結婚したあと、亡くなったということですか?」
「いいや。ぼくが結婚したときからすでに死んでいたんだよ」
「意味がわからないんですが」
「ぼくは死んだ人間を妻にした。ただ、それだけだ」
ハイドは内緒話をするように言った。
「きみは知らなかったんだな。この話、ちょっと有名なんだよ」
フレデリックが戻ってきた。押し黙っているウィルクスに視線を向けたがなにも言わず、そのまま弟に向き直った。なにか話しかけているが、ウィルクスには聞こえていない。
アリスは、死人だから。ハイドの言葉が頭の中をぐるぐる回っている。死人と結婚した、の意味がウィルクスには理解できなかった。死体と結婚したということか? ハイドさんはネクロフィリアなのか? だが、それなら彼が危ないと言っておれの前に現れたアリスは? あれは死体じゃなかった。じゃあ、幽霊?
ウィルクスはフレデリックの声で我に返った。
「いっしょにステーキを食べに行こう。わたしもシドも気に入ってる店があるんだ」
そしてウィルクスがハイド兄弟にディナーに連れてこられた場所は、〈クローズコート・クラブ〉というレストランだった。元は劇場だったところを改装していて、吹き抜けの天井から巨大なシャンデリアが吊り下がっている。様々な酒のボトルが並び、マカロンのタワーが輝き、盛りつけられた果物が磨かれたボールのようにつやつやしている。ウェイターたちは忙しくも優雅に歩き回り、客たちはみんな淑やかに、しかし目に情熱を灯しておしゃべりしながら、フォークを口に運んでいる。
クリスマスを別として、こんな賑やかな場所があるんだ。ウィルクスは初めてイギリス一の玩具屋、ハムレイズに連れてきてもらった子どものように、店の中に立ち尽くしていた。
ハイド兄弟はウィルクスを二階の個室に案内した。そこで、三人は柔らかなステーキを食べ、サラダをつまみ、ワインを飲んだ。「ここのステーキソースがロンドンでいちばんうまいと思う」と兄弟は口をそろえた。
二人は五年ぶりに会ったらしく、話は弾んだが、そのほとんどが議論だった。兄はカントの道徳哲学の問題点について話し、弟は仏教で言われる「無明(むみょう)」について一席ぶった。ウィルクスは黙って拝聴したが、途中から頭が痛くなっていた。フレデリックがウィルクスを話に混ぜようと気を遣ったので、なおさらだった。集中していなくてはならない。だが、ウィルクスがどんなコメントをしても、フレデリックはうながすように聞いていた。「なかなか目のつけ所がいい」と褒める。若者を教育し慣れているのだった。
ハイドは楽しそうだった。
ウィルクスはなんとか話についていこうと頑張った。それに手持ち無沙汰もあって、ついついワインをいつもよりも多く飲んでしまった。
レストランを出るころには、ちょっとまずいなと自分でも思うほど酒がまわっていた。
「楽しかったよ、ウィルクスさん。きみは見所がある」
フレデリックは心底感心していた。
「シドにつきあう根気があるとはね。この男はときどき独特でね。でも、あなたが見ていてくれると安心だ。じゃあ、おやすみ」
おやすみなさい、とハイドとウィルクスが答える。颯爽と去っていく背中を見送って、ハイドが振り向いた。
「酔ってるのか? ウィルクス君」
「……少し」
「うちに戻ろうか」
ウィルクスは黙ってうなずいた。月の出ている夜だった。街が明るかった。
二人は事務所へ戻ってきた。ハイドはウィルクスを事務所の椅子に座らせて、グラスに注いだ水をやった。ウィルクスはおとなしく受けとって、一口飲んだ。ぬるい水だが、臭みがなくうまかった。続けてもう一口あおる。顔が熱く、頭が少しぼんやりする。
ハイドは背を向けて、サイドボードの上でウィスキーソーダをつくっていた。まだ飲むつもりなのだ。ウィルクスはぼんやりと広い背中を見た。言葉が勝手に口から流れ出ていた。
「奥さんと別れて、寂しくないですか?」
ハイドは背中を向けたまま答えた。
「寂しくないよ。別れたとは言っても、彼女はいつもぼくのそばにいるし」
「それって別れてないじゃないですか」
「気持ちの上ではもう別れているよ。アリスは可憐で美しくて、愛らしい人だ。しかしとにかく、なんというか激烈な女性でもあってね。毎日修羅場の結婚生活だったよ。だから、決めたんだ。恋には左右されない。もう恋はしないと。きみもだろう?」
「おれは、寂しくなります」
そうか、とハイドは言った。ウィルクスはさらに水を飲んだ。喉ではなく、体の芯に渇きが走った。
ハイドはいつの間にか、ウィルクスのすぐそばに来ていた。向かいの椅子に腰を下ろす。ウィスキーソーダのグラスを片手に、一口飲んだ。ウィルクスは虚ろな目を向けた。
「よく死人と結婚する決心がつきましたね」
「恋は盲目だったんだよ。ぼくもどうせいつかは必ず死ぬ身だから、かまわないと思ったんだ」
「変わってる」
「よく言われる」
「怖くなかったんですか?」
「怖くなかったよ」ハイドは微笑んだ。「好きだったからね」
そのとき、ウィルクスは思った。この人は、そうと決めたら超えていく人だ。生死の境界も、常識も、タブーも。
おれにはできない。いつも怯えているだけだ。ウィルクスにとって、ハイドはウィルクス自身の闇を切り裂いて現れた化け物だった。
グラスをテーブルの上に置き、ハイドは微笑んだ。
「きみのいいところ、ぼくはいっぱい知ってるよ。そんなふうにきみのいいところ、わかってくれる人が現れるといいね」
ウィルクスは目を伏せた。グラスを握りしめ、うつむいたままつぶやいた。
「おれにはいいところなんてなにもない」
顔を上げ、笑った。
「飲みすぎましたね。もう、帰ります」
グラスを手渡し、立ちあがる。足元はふらつくことなくしっかりしている。ハイドは彼を見上げ、なにか言おうとした。しかし、ウィルクスが部屋を出ていったので言えないままだった。
ウィルクスはエンバンクメント駅から地下鉄に乗って、下宿の近くのウェストミンスター・ブリッジ駅まで帰るつもりだった。月は雲に隠れている。わずかに雲間から覗いたとき、その周りを、かすんだ淡い光の輪が包んでいた。明日はまた雨かもしれない。
夜気は湿っていた。煙突の煙の臭いや、土埃の臭いがする。歩道は煙草の吸殻でいっぱいだ。ウィルクスはとぼとぼと夜道を歩いた。
ふと視線を感じた。振り向く。
歩道の反対側に青いドレスが見える。
アリスがベールの向こうから、ウィルクスのことをじっと見つめていた。
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