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アリスの秘密#1
二日後、ハイドの事務所に来客があった。
ハイドは緋色の椅子に腰を下ろし、窓の外を見ている若い女の様子をうかがった。現在、午後四時二十八分。本来なら日の入りはまだ先だが、雨が降っているので外は暗かった。おまけに煙突の煙がロンドン中を覆っている。
「ひどい雨ですね」
女が言った。ハイドは窓に視線を向ける。雨粒が当たって、滝のように流れ落ちていた。
「ほんとに。冷えませんか?」
「大丈夫です」
女の口調は静かだった。今になっても、彼女は骨ばった体で突っ張るようにして椅子に腰を下ろしている。顔色が悪く、ドレスもベージュなので、疲れて見える。当然だ。本当に疲れているのだとハイドは思う。飲み物を勧めた。
「熱いうちに飲んでください。今日はメイドがカモミール・ティーを淹れてくれたんです。あったまりますよ」
女はカップを矢のように尖った鼻先に近づけた。いい匂い、とつぶやく。ハイドは膝に置いた書類に視線を落とした。ここには、目の前の女についての情報が書いてある。
「とてもおいしいです。家事が上手なメイドなんですね」
女が言うと、ハイドはうなずいた。
「あなたのうちのメイドも上手だと聞きましたよ。ソニア、でしたか」
「メイドというより、わたしの乳母です。家事はなんでもしてくれますが」
女は少し寂しそうに笑った。そんなふうに笑うと、冴えない、地味な顔立ちがいっそう寂しく見える。父には似ていないな、とハイドは思った。似ているのは、黒髪だけだ。
「これにて身元調査は終了です。ご協力ありがとうございました、ミドルトンさん」
「協力、なんて」
シンシア・ミドルトンは困ったように笑う。カップとソーサーを膝に乗せたまま、痩せた胸を上下させた。
「わたしは知っていることをお伝えしただけです。あの……まさか、思ってもみませんでした。陰からこっそり調べられるものだと思っていましたもの。調べている探偵さんご本人が協力を依頼してこられるなんて」
「おかげで仕事が早く片付きましたよ。ただ、あなたと接触したことは依頼者には秘密にしていますけどね」
「わたしが嘘を吐くとは思わなかったのですか?」
「そんな心配はありませんでした。あなたは正直そうに見えたし――裏は取れますからね」
そう、とつぶやき、凄腕なんですねと微笑む彼女に、ハイドも微笑みを浮かべる。笑うと、シンシアの顔に変化が起こる。生気が生まれ、その目は聖母マリアのようだ。人の強さよりは弱さを見つめてきた眼差し。彼女の母親もまたこんな顔をしていたのだろうか。それなら父の気持ちもわかる気がすると、ハイドはふと思った。
「ところで、ミドルトンさん」ハイドは本題に入った。
「身元調査を完了させるにあたって、少し交友関係をお聞きしたいのですが」
「友人はおりません。たまに占いの会に出席するくらいなんです。でも、そこでも親しい方はいませんし」
「立ち入ったことを伺って恐縮なのですが……恋人などは?」
「おりません」
シンシアはハイドが思った以上に、はっきりと否定した。しかし、口調がきついわけではない。彼女の口調はいつも静かでソフトだ。
「そういったことは、もう調べてらっしゃるのかと思いましたが……」
「ええ。調べたところ、あなたがおっしゃることと一致します。わかりました。では、これで身元調査は終了とします」
シンシアは軽く頭を下げた。腰をあげると、ハイドも立ちあがり声をかけた。
「ミドルトンさん。これからどうなさるおつもりですか?」
「どうも」
シンシアは笑った。鼻筋に皺が寄る。
「母は遺産を残してくれましたから、しばらくそれでやっていくつもりです。いずれは、タイピストになろうと思っています」
「あなたの今後についても、身元調査の依頼人に相談しようと思っているのですが」
「それは、なさらないでください。ご迷惑をおかけしたくないんです。それに、受け入れてもらえるとは思っていません」
「それはわかりませんよ」
可能性は低いことを思いながらハイドが言っても、シンシアは彼を灰色の瞳で見つめたままだった。静かに首を横に振る。
「本当に、いいんです。ありがとうございます、ハイドさん。お優しいんですね」
兄ですから、とハイドは思った。
シンシア・ミドルトンが帰っていった二時間後に、ウィルクスがやってきた。
「ケガ、だいぶましになりましたね」
そう言いながら、ウィルクスは事務所に入ってきた。この日は自分の傘を差してきたらしい。派手に濡れてはいないが、ズボンに泥水が跳ね返った跡がついていた。
「ああ。まだちょっと痛むけどね」
そう言って、ハイドは椅子を勧めた。シンシア・ミドルトンが座っていた白い椅子だ。座面高が低く、ウィルクスは控えめに手足を伸ばした。マーゴットが茶器を持って部屋に入ってくる。熱っぽい視線を、ウィルクスは無視した。
「ケンカって、どうして?」
ウィルクスが尋ねると、ハイドは彼の目の前の椅子に腰を下ろした。
「パブで絡まれてね。なんの前触れもなく『おまえは目障りだ』と言われて、ナイフで切りつけられた」
「え」
「大丈夫。ぼくは若いころからサバットを習っているからね」
構えの体勢をとり、呑気に言うハイドにウィルクスは眉間に皺を寄せる。ハイドが逞しく厚みのある体つきなのは、格闘技を習っているからだとは知らなかった。ウィルクスも警官になったときに護身術を習ったが、意図して鍛えているわけではないので、体つきは筋肉質でありながら、ハイドに比べてひょろっとしている。
「ケンカを吹っ掛けてきた相手は? ノックアウトですか?」
ウィルクスが尋ねると、ハイドは小首を傾げた。
「ん、逃げられたよ。強烈なやつをお見舞いしたんだけどね。ケンカがはじまったらパブがファイトクラブになってしまって、その騒ぎをおさめるのに苦労したよ。そのうえ警官を呼ばれそうになった」
「……大人しく紳士階級の人間御用達のパブで飲んでたらそんなことにはならないんですよ」
「情報収集にはパブがいちばんいいんだ。紳士ばかりが飲んでるパブはおとなしくてね。なかなか情報を落としてくれない」
それでケガしてちゃ意味ないでしょう、とウィルクスはぶつぶつ言った。すぐに口をつぐむ。なんだか説教している気がしてしまう。ハイドも同じことを思ったらしい。悪びれず言った。
「たしかに、きみはぼくの女房役っぽいね」
「……は?」
「そう言われてるんだって。知らなかったか?」
「知りませんよ。陰口ですね」
ウィルクスの目つきがどんどん怖くなるのを見て、ハイドはむりやり話題を変えた。
「それはそうと、わざわざ来てくれてありがとう。仕事で忙しいのに。マクベイン事件の取り調べをしてるのか?」
「ええ。なかなか進展しませんが」
思わず素直に愚痴を吐いた。
「被疑者のレオナルド・エヴァンズが吐かなくて。弁護士はこっちのことを見下してくるし、手強いし。このままじゃ動機不明で裁判になるかもしれません」
「協力できることがあればするから、言ってくれ。ただ、当面は忙しくてね」
「そうだ。おれに用事って、なんですか? あなたの問題のこと?」
ハイドはうなずいた。
「正確には、ハイド家の問題なんだけどね」
顔がふいに引き締まる。狼のようだ。ウィルクスは思わず見惚れた。賢さと強さを感じさせる表情。色っぽい。ハイドはウィルクスの目がとろんとしていることには気づかず、話を進めた。
「……ぼくらの父はそれは女好きだった。それで、昔から問題を起こしていてね。ぼくも生まれる予定のない子どもだったし」
ウィルクスは我に返った。
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