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アリスの秘密#2
「ぼくは、父の女遊びの延長で生まれた子どもだったんだ。私生児にはならなかったよ。結局、父は母と結婚した。アイザックとフレデリックは、先妻との子どもなんだ。父がぼくの母に熱をあげていたとき、先妻はすでに亡くなっていた。だから、それほど問題にはならなかったけれど」
ウィルクスの顔を見る。
「とにかく、そんなふうに父は手が早くてね。で、各所で問題を起こしていたが、これまでは協力者の手でなんとかねじ伏せてきた。……父は病気でね。今はほとんど目を覚まさず、ずっと寝たきりなんだ。ただ、そんな父だから、今になっても問題が生じてね」
「それは……隠し子、とか?」
「そう。父はある女性に手を出していたらしい。夫がいる女性だ」
「つまり、不倫」
「しかも、父はその女性とのあいだに娘をつくった。娘の名前はシンシア・ミドルトン」
ハイドは一呼吸置いた。
「ミドルトンは乳母の名字だ。シンシアさんは、生まれたときからずっと乳母と暮らしている。母親はつい最近亡くなったそうだ。――それで、ある人物がぼくの兄、アイザックに手紙をよこしてきたんだ。あなたの父親ランスロットは不倫していた、と。そしてその相手の名前と、シンシアという娘がいるということも書いてきた。不倫相手の夫と世間にこのことを暴露されたくなければ、金を払えと。手紙には不倫の証拠として、父が浮気相手の女性に書いた露骨な手紙が同封されていた」
「それで強請り屋の情報を探していたんですね」
ウィルクスは深くうなずいた。ハイドは紅茶を一口飲んだ。
「最悪なのは、不倫相手の夫がかなり高貴な立場の人でね。この方に睨まれると、うちの家は破滅なんだ。彼は妻をとても愛していたらしい。暴露されるのもまずい。きみも知っての通り、姦通罪で夫は妻と不倫相手を訴えることができる。妻は亡くなっているが、父は存命だし、スキャンダルはスキャンダルだ。アイザックはヨークシャーで治安判事をしているし。それで、彼がまずぼくに依頼をしてきた。シンシア・ミドルトンが本当に父の娘なのか調べろ、と。結果は『イエス』だ。そこまでは調べがついている」
「大変な調査だったのでは?」
「まあね。でも、白状するとミドルトンさんに手伝ってもらった。彼女の言葉の裏をとるだけだったから、簡単だったよ」
それが簡単ではないということを、日々裏づけを仕事にしているウィルクスはよくわかっていた。警視庁には毎日タレコミがあり、その真偽を判断するのにかなりの時間と労力が費やされている。ウィルクスは憧れのあまり改めてハイドの顔を見ようとして、そうできない自分に気がついた。眩しすぎるのだ。
「それで」ハイドは言った。「きみに頼みがあってね。頼まれてくれるか?」
うなずく。困ったことがあれば力になる、と言ったのはおれなんだから。ウィルクスはそう思う。だが、今さらながら上司に相談せず勝手なことをするのは、と心配になった。
「きみの上司に協力の許可はもらってるよ」
ハイドはあっさり言った。
「きみは恋愛には興味がないと言っていたが、女嫌いではないんだよね?」
「……そのつもりですが」
「よかった。ミドルトンさんと親しくなってもらいたいんだ」
ウィルクスがメモをとるあいだ少し待ち、ハイドは続けた。
「彼女は毎週火曜日と土曜日に占いの会に参加している。そこに、参加者としてまぎれこんでほしい。ミドルトンさんと仲良くなって、交友関係を調べてほしいんだ。親しくしている人、友人、恋人なんかを」
「身元調査ではわからなかったんですか?」
「ああ。ミドルトンさんは友人も恋人もいないと話してくれた。調べてみたら、確かにそうだったよ。友人と恋人の影はない。ただ、必ずいるはずなんだ。彼女に近しい誰か。彼女の秘密を知り得る誰か。そうじゃないと、父がしたためた愛の手紙を入手することはできない」
「泥棒がたまたま盗んだ、そして悪用した、とか?」
「盗みに遭ったことはない、とミドルトンさんは言っている」
「彼女には使用人がいますよね? 召使が主人の金品のありかを犯罪者に売るのはよくあることですよ」
「乳母以外の使用人はいないし、ソニアは忠実な女性らしい。ミドルトンさんの母親に代わって彼女を育てたんだからね」
「ミドルトンさんが自分で手紙を利用したということは? 強請るために」
年下の青年の鋭さに、ハイドはかすかにうれしそうな顔をした。
「その説は保留にしてある。ありえないことじゃない。だが、当面はミドルトンさんと関係が深い人間がいないか探ろうと思う」
「おれは、占いには疎いのですが」
「教えるよ。したことあるか?」
ウィルクスは首を振った。そういえば、母親が一時期占いを趣味にしていたことを思いだした。しかし、父がやめさせた。クリスチャンは占いに頼ってはならないと言って。
父親のことを思い出すと、ウィルクスの心は冷えていった。あの厳格な顔を頭の中から追い出す。
「占いはしたことがありませんし、信じてもいません。でも、頑張って覚えますよ」
そこで、勇気を出してハイドの目を見た。
「おれにできることならなんだってします。頬のケガ、あなたが抱えている問題と関係があるんじゃないですか? もう、あなたがケガをしたり、命を狙われるのは嫌だから」
ハイドは目を丸くし、それから笑った。ウィルクスは赤くなる。耳まで真っ赤だ。思わずハイドを睨みつけていた。
「それに、だれかがあなたに死ねと言ったんでしょう? だからあなたは死のうとした。それも関係あるのでは?」
「まあ、関係あるな」
「誰がそんなこと言ったんですか?」
「アイザックだよ」
ハイドはさらっと言った。ウィルクスにはそんなふうに見えたが、本当は、ハイドのまぶたは痙攣していた。
「強請り屋は、金の代わりにぼくの命でもいいと言った。だから、兄は電話でぼくに死んでくれないかと打診してきたんだ」
「打診、って。いくら家名のためとはいえ、お兄さんにそんなことを命じる権利はありませんよ」
ハイドは目を丸くした。ウィルクスはムキになる。
「おれは当たり前のことを言ってるんです」
「……きみはいい男だな、ウィルクス君」
そう言って笑うハイドに、ウィルクスはますます赤くなった。そんな自分を心の中で罵る。ハイドは真面目な顔になった。
「きみに不倫相手の名前や、その夫が誰かは話せない。アイザックの意向でね。すまない」
「……いえ」
名家の家長なら、家を守るためには仕方ないことなのかもしれない。しかし、利用しておきながら隠し事をするアイザックに、ウィルクスは反感を覚えた。ハイドさんとは大違いだ、と思う。
ハイドはまた快活な表情に戻っていた。笑うと、可愛い。そう思ってしまった自分に、ウィルクスは内心蹴りを入れる。
「ぼくが教えようとする占いは、かなり難しいよ。でも、きみは覚えると言ってくれたし。これから教えるけど、楽しみだな」
「……頑張ります」
本音だった。もうハイドに傷ついてほしくない。思うことはそれだけだ。
そこでふと沈黙が流れた。ハイドは紅茶を口に運んでいる。雨脚は、少し遠くなったようだ。ウィルクスは雨の音を聞きながら話題を探し、思いだした。
「あの……あなたが元気で、ほっとしています」
ハイドは首を傾げた。
「きのう、あなたに電話したでしょう?」
「ああ、そういえば。いきなり『大丈夫ですか?』って訊かれて驚いたよ」
ウィルクスは照れくさそうに笑った。
「じつは、おとといあなたの家から帰っているとき、アリスさんの姿を見て。あれからもときどき見るんです。通勤のとき、道の反対側にいたり、ヤードのオフィスから下を覗いたとき、立っていたり。あなたに危険が迫っているのかと思って尋ねてみたけど、答えてくれなくて。でも、何事もなくてよかったです」
そのときハイドが浮かべた表情の意味が、ウィルクスには理解できなかった。
そうか、ウィルクス君は知らないんだな。ハイドは言い聞かせるように言った。
「アリスは激烈な女性でね。すぐ対抗するんだ」
「対抗?」
やっぱり、あの話を知らない。
アリスはぼくに恋愛感情を持っている人間の前にだけ、姿を現すっていうことを。
「なにがですか、ハイドさん?」
「いや」ハイドは微笑んだ。「なんでもないよ」
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