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一人ぼっちの男と、まともじゃない男#1

 それから、ハイドはウィルクスに占いを教えこんだ。  まず、占いはいつごろからあってどういうふうに利用されてきたのか、その種類や主なものなどといった基礎知識を叩きこみ、占いをする人間はなにを信ずべきか、なにを疑ってかかるべきかを教えて聞かせた。  ウィルクスは自らの言葉通り、占いにはなんの興味もない。ハイドの説明はわかりやすかったが、内容は込み入っていて、一度ではとても覚えきれなかった。専門用語も多い。メモを取りながら、必死で勉強した。仕事帰りの疲れているときに、気が休まる暇もない。しばし休憩できたのは、マーゴットがカモミール・ティーを淹れてくれたときだけだった。 「飲みながら聞いてくれ。きみが潜りこむ占いの会は、その筋の愛好家たちだ。話を聞いていると全員アマチュアだし、きみもアマチュアとして潜りこんでもらう。だが、占いの基礎を知らないのであれば話にならない。知識と情熱がなければ誰も話をしてくれないし、疑われるだろう。ミドルトンさんだって疑う。だから、そのつもりで」  ウィルクスは先が丸くなった鉛筆で、ハイドの説明を必死に走り書きした。綴りがわからない単語も多い。古代ローマやギリシャの話から天文学、ユダヤ教のカバラまで飛び出すので大苦戦だ。  二時間ばかり講義が続いたあと、実践となった。ハイドが教えたのはタロットカードや手相など一般的なものではなかった。もっと一極集中である。彼はテーブルの上にトランプともタロットとも違う見慣れない絵柄がついたカードを広げて、「〈アダムスの占い〉だよ」と言った。  二十五年前にアダムス氏が考案した占いである。この占いは結果が詳細に出る代わりに、かなり複雑な解析技術が必要とされる。占い好きの人間のあいだで今大流行しているのだが、うまく占える人間は少なかった。どうしても結果に曖昧な点が残る。この占いを、ハイドはかなりのレベルで自分のものにしていた。 「いいかい、教えるよ。まずカードを占う相手に三十回切ってもらってだね……」  ハイドは手本としてウィルクスを占った。ウィルクスは指示されるままにカードを切ったり、めくったりを繰り返す。 「今、いちばん知りたいことは?」の問いに胸の中で答えながらカードをめくるように言われ、口の中でぶつぶつ言った。  おれはどうすればまともになれる?  ハイドはカードを読んだ。 「自らの魂をよく知り、その声をよく聞いて、忠実でありなさい」 「どういう意味ですか?」 「どう足掻いてもそうでしかいられない、自分の姿を見つめてそこに賭けろってことじゃないかな」 「……迷惑をかけてしまう」 「お互いさまってことじゃないか?」 「……呑気ですね」  この人にはわからない。ウィルクスは責めたい気持ちになる自分を抑えた。ハイドはさらにカードをめくる。 「星の数は十一だよ。直感を大事にして、一日を終えるように。……じゃあ、次はきみがぼくを占ってくれ」  ハイドはウィルクスに、「占う相手に向かってこう言って」「これをさせて」と指示する。ウィルクスは自分がなにをしているのかまったくわからないまま、ハイドの指示に従った。占いって、子どもの遊びじゃなかったのか。冷や汗が出てきた。ハイドは厳しかった。「そこは違う」「もっとなめらかな手つきで」「ぎこちないと信憑性半減だ」、とにかく容赦がない。  あまりのスパルタっぷりに、ウィルクスは根をあげそうだった。ハイドが仕事となると一変することを思いだす。  実践三回目、少しはなにをするかがわかってきた。ウィルクスがカードをめくると、ハイドは「違う」と言って椅子から立ちあがった。背後に回る。くっつくほど体を寄せて、手の甲に手を重ねた。 「そっちじゃない。ここだ。星の巡りを読むときはこっちからめくって、次はこれ」  ウィルクスの手をつかみ、導く。ハイドの手はあたたかく、重かった。引力が宿っているようだった。ウィルクスは押し黙った。  ハイドは少ししてから気がついた。手を離し、そっと体を引く。 「すまない。夢中になってしまって」  ウィルクスは目を逸らしていた。子どものころからの癖で照れたり恥ずかしいときは怒った顔になる。ハイドは頭を掻いた。 「男に近づかれてもうれしくないよね」 「……おれは、そうでもありません。おかしいですよね」 「それは人それぞれだよ」  そう言って、ハイドはまた自分の席に腰を下ろした。ウィルクスは目を伏せ、怒った顔でテーブルを見つめていた。  わかってほしい。おれは一人ぼっちなんだってことを。  この人なら、わかってくれるかもしれない。心の内を口走りそうになり、ウィルクスは慌てて立ちあがった。「手洗いお借りします」と言って、部屋を出た。  その日はくたくたになって特訓が終わった。ウィルクスが帰るときは深夜零時近くなっていた。 「よく頑張った」  ハイドは手放しで褒めた。ウィルクスの頭を撫でそうな勢いだ。 「すばらしい飲みこみだった。カードを貸すから、家でも練習してくれ。あと二、三回いっしょに練習したら、占いクラブに潜入できるだろう」  ウィルクスは深い疲労を感じた。だが、ハイドと二人きりでこんなに長い時間を過ごせて、体は軽かった。  そして次の日も仕事がある。 「おいウィルクス、強請り屋の情報を更新したから、ハイドさんに閲覧に来るように言ってくれ」  スコットランドヤードに登庁していきなりストライカー警部に言われ、ウィルクスはうなずいた。紙の束を受けとる。 「おれはこれから捜査に出掛けるから、電話してくれるか?」  噛み煙草をくちゃくちゃ言わせているストライカーに、ウィルクスはもう一度うなずいた。ぎょろぎょろした目が彼を見据える。 「ハイドさんの手伝いをしているらしいな?」 「ええ」 「肉体労働か? やつれてるぞ」 「ちょっと、慣れないことをしてるんです。書類、ありがとうございます」 「深入りしないほうがいいぞ」 「大丈夫です。おれは、ハイドさんにはいつも世話になってるから」 「警官を私物化する根性が気に入らない」 「ハイドさんは困ってるんです。おれが手伝ってもいいと、ヘインズ警視も許可してくれました」 「知っている。いい顔はしてない、とだけ教えてやるよ」  そう言って、ストライカーは去っていった。ウィルクスは書類に視線を落とした。犯罪者の名前と、起こした事件の羅列。現在刑に服している者もいれば、捕まっていない者、すでに釈放された者もいる。  ウィルクスは電話を掛けに行った。ハイドはすぐに電話に出て、「見に行くよ」と言った。  警官を私物化している。ハイドさんにその気はないだろうけど、はたから見たらそう見えるのかもしれないな。ハイドさんの手伝いをしているのはおれの意志なんです、と言って歩きたい気分だった。  じき、ウィルクスは警視に新たな捜査を担当するように言われた。ストライカーからあずかった書類をトルーマン刑事に託し、ヤードを出た。  新しい事件を抱え、マクベイン事件の取り調べも進まなかった。

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