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一人ぼっちの男と、まともじゃない男#2
それから三度探偵事務所で占いの特訓をし、自宅でも練習を重ねて、やっとハイドから「潜入して大丈夫だ」という許可が出た。
十月末の土曜日、午後六時。ウィルクスは変装してシンシア・ミドルトンが出席している占いの会に顔を出した。顔の下半分を覆う付け髭をつけ、眼鏡をかけていた。長身のせいで目立つのは仕方ない。
事前に言い含められていた会の主催者のはからいで、ウィルクスはごく自然にメンバーたちに紹介され、溶けこむことができた。彼はジョセフ・グレイという名前を名乗った。参加者は女が三分の二、男が三分の一だ。あとで聞くと、出入りが多いクラブではないが、顔見知りではない者もいい口利きがあればメンバーに迎え入れるという。ウィルクスは「いい口利き」をされていたのだ。
みんなウィルクスにいろいろ質問し、彼も愛想よく返事をした。ロンドン郊外に住む勤め人ということになっている。独身で、平凡な家庭に育ったと言いふらす。会の参加者は中流階級の人間が多い。ただし、裕福だった。
けばけばしいドレスを着たある女が言った。
「あなたの職業がなにか、占ってみてもいいかしら」
ウィルクスはぎくっとしたが、うれしそうなふりをしてうなずいた。
女は生真面目な表情でカードを繰り、うなった。
「秘密多く、死に近い」
結果を聞いてメンバーのあいだに一瞬どよめきが走ったが、ウィルクスは如才なかった。
「当たっているようですね。ぼくは保険会社に勤めているんです」
みんな笑って、あたりの雰囲気は和やかになった。
ウィルクスは焦らず、シンシア・ミドルトンと接触できる機会を待っていた。シンシアは自分から話しかけてくるタイプではないと事前にハイドから聞いていた。やがてメンバーが全員席について、それぞれ自分が研究している占いについて報告したり、メンバー相手に実践しようという段になって、主催者が目でウィルクスに合図した。テーブルの隅に一人座る女を紹介する。
「ミドルトンさん、新入りのグレイさんです」
その言葉に、彼女は顔をあげた。微笑みを浮かべる。ウィルクスはシンシア・ミドルトンの隣に腰をおろした。
「占いは好きなのですが、こういうところは初めてで」ウィルクスは小声で言った。「緊張しますね」
「みんないい方ばかりです」
シンシアも小さな声でそう言った。
ウィルクスは彼女の笑顔に好感を抱いた。晴れた秋の日のようだった。
「グレイさんはどの占いに凝っていますの?」
けばけばしく着飾った女がまた尋ねた。ウィルクスは微笑みを浮かべ、「〈アダムスの占い〉です」と答える。メンバーの何人かから歓声があがった。
「〈アダムスの占い〉か。あれをマスターできたら凄いぞ。きみは占えるの?」
「今勉強中なんですが、少しは占えると思いますよ。そうだ、ミドルトンさん。占ってみてかまいませんか?」
親しくなるチャンスだ。ウィルクスは手堅い解釈でシンシアについて占った。
「運命に動きがあるようです。『邪悪な黒い犬』が対になる存在を見つけます。流れに注意してください。星の数は六。朝起きるときは必ず一日の終わり方をイメージしてからはじめるように」
占ったウィルクス本人はなにを言っているのかよくわかっていなかったが、シンシアは目を丸くしていた。そして少しだけ嬉しそうに、「まあ」とつぶやいた。メンバーはウィルクスのやり方を見ていて、ある部分についてやや拡大解釈をしているだの、いや誠実な読み方だのと意見を述べた。
「そうとう勉強したね」とメンバーの一人がにこにこしながら言って、ウィルクスはハイドとの厳しい特訓を思いだし、苦笑した。
「今度はわたしもあなたを占わせてください」とシンシアは言った。「ありふれたカードの占いだけれど。かまいませんか?」
ぜひお願いします、とウィルクスは答えた。こうして二人は知りあいになった。
それからあとも、ウィルクスはハイドの元に占いの特訓に通った。そのたび、彼を練習台にしている。
「あなたを脅かすものを見つめることで、あなた自身を知ることができます。なかったことにするのは簡単です」
ウィルクスは自分でなにを言っているのかやっぱりよくわかっていなかったが、ハイドは黙ってうなずいた。彫りの深い顔立ちが、狼の表情を浮かべる。その顔に、ウィルクスは黙って見惚れた。
占いの特訓をしに訪ねていくと、ハイドは自分が抱えている「問題」の進展もざっくばらんに教えた。強請り屋はもの柔らかな声の男だ。電話で連絡してくる。しかし回線は使い捨てだ。そして、犯人だと思われる男を見つけたという。
「追い詰めて、警察に引き渡したよ。しかし、翌日亡くなった。腎臓が悪かったらしく、心不全でね」
ハイドがこの件で内務大臣から感謝状をもらっていたことを、ウィルクスは知らなかった。男は強請りの常習犯で、大勢の貴族たちが餌食になっていたそうだ。
「この線は消えてしまったからね。まだ探っている。それから、ぼくをパブで襲ってきた男についても探している」
ハイドはカードを切った。
「たぶん、あの男も強請り屋の差し金だと思う。だが、逃げたままでまだ見つけられない」
それでも、ハイドは諦めていないようだった。パブの主人に金をつかませて話を引き出したり、常連たちに一杯ふるまって、あの日の目撃情報を収集しているらしい。アイザックから大金を支払われているらしく、ハイドは捜査に金の糸目をつけなかった。
そんなやり方が、警官たちには目障りに映るらしい。ハイドが捜査を進めていることをC・I・Dの刑事たちはみんな知っていて、陰口を叩いている。ときに嘲笑し、ときに露骨に悪口を言い、ときに下品な冗談のネタにする。だが、ウィルクスが聞いているとわかったら、みんな口をつぐんだ。
唯一、ストライカー警部は隠さなかった。
「よう、ミセス・ハイド。うまくいってるか?」
ウィルクスは反射的にストライカーを睨んだ。「睨むなよ」と警部は言う。
「心配してるんだ。また強請り屋について調べたが、もういいか?」
「ハイドさんに聞いてみます。……警部、おれはハイドさんの妻じゃない。わかってると思いますが」
「わかってるよ。あの男と結婚したってろくなことにならない。もしきみが惚れてるなら、諦めろ、と忠告してやるところだ」
「その必要はありません」
冷たい汗がにじむ。
「惚れてるわけがないでしょう」
「もし惚れてたら、法律違反だ。いや、寝なきゃ罪には問われないがな」
「惚れてもいないし、寝てもいませんよ。当たり前じゃないですか」
ウィルクスは視線を合わせたままつぶやいた。否定しているはずなのに、逃げようもなく肯定しているような気分になりながら。
「あの探偵は変わり者だぞ」と警部が言う。
「なにがあっても動じないし、いつもにこにこしている。気持ち悪いくらいにな。テンパってるところを見たことがあるか?」
「冷静なんですよ」
「冷静とはまた違うよ。神経がないんだな」
ハイドの言葉を思いだした。ぼくは感受性が死んでるからね。
「たしかに物に動じているところは見たことがありませんが、だからと言って、間違ったことをする人ではありません」
「そうムキになるな。それに、妙な噂があるしな」
幽霊につきまとわれてるんだってな、とストライカーは言った。ウィルクスは目を細めた。アリスのことだ。ストライカーは薄い唇をねじった。
「ハイドさんに惚れてる人間の前にだけ姿を現すらしい。見たか?」
ウィルクスは無表情だった。ただ口が少し開いた。空気が抜けるように息を吐く。
「そうなんですか? 信じられません」
「じゃあ、まだ大丈夫だな」
警部は顔を歪めて笑った。去っていく後ろ姿を呆然と見送ったまま、ウィルクスは胸の中でつぶやいた。
嘘だろ。
ハイドの言葉が脳裏にこだまする。
アリスは激烈な女性でね。すぐ対抗するんだ。
あの人は、わかっている。おれがあの人を好きだということを。
ウィルクスはその場にへたりこみそうだった。
それでも、彼には使命があるのだ。
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