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一人ぼっちの男と、まともじゃない男#3
ウィルクスは占いの会に通った。変装にも慣れてきた。付け髭をつけるための糊で顔のまわりが痒かったが、我慢した。シンシアはいつもテーブルの隅に腰を下ろし、自分から会のメンバーに話しかけることは少なかった。
彼女の家庭環境を知っている人はどれくらいいるのだろう、とメンバーに探りを入れてみる。みんな、父親はシンシアが幼いときに亡くなったと思っていた。そして、乳母のソニアを母親だと信じていた。
それからハイドに言われた通り、シンシアの交友関係も探った。確かに、占いの会に親しい人間はいないようだ。いっしょに帰ることはなかったし、手紙のやりとりもないようだった。彼女の家を知っている人間もいなさそうだった。もちろん、占いの会がないときに、陰で会っていたらわからない。
ハイドはシンシアに金で雇った尾行をつけているらしく、彼女の私生活は監視されていたが、これといって変わったことはなかった。占いの会が終わればまっすぐ家に帰り、あとは図書館に行ったり、近所を散歩したり、ミサに出たりする。そういうときはたいていソニアがいっしょだった。
占いの会は、月に一度講演会を催している。ホテルを会場に、盛大にするのだ。そういうときは会のメンバーでない者も講義を聞きに訪れるし、講演の内容に応じて外部から講師も来るという話を聞いた。ハイドと協力して、これまで来た講師も徹底的に洗う。ここからもなにも出てこなかった。
ウィルクスは占いの会で人気者になった。〈アダムスの占い〉がよく当たると評判だったのだ。ハイドのスパルタ教育と、ウィルクスの頑張り屋の性格のたまものだった。
シンシア・ミドルトンはいつも控えめで、あまり自分から占ってほしいとは言わなかった。それでもウィルクスと組むことになると、やり方を教えてほしいと頼んできた。
「やっぱり、占いがお好きなんですね」
ウィルクスがそう言うと、シンシアは微笑んだ。
「自分の未来がわかるのって、楽しいでしょう?」
「ぼくは勇気がないから、先のことを知る気にはなれません」
思わず素直に本当のことを言う。シンシアはまっすぐにウィルクスを見つめた。
「わたしも、勇気がないからです。だから、未来を知りたいと思うの」
最近はよく目を合わせてくれる。それがウィルクスにはうれしかった。
その日はいっしょに帰った。シンシアは大英博物館の近く、ブルームズベリ地区に住んでいる。家は母親が与えたものだとハイドから聞いていた。
「今日はいい夜ですね。月がきれい」
そんな会話を交わすようになった。
「あなたが来てから、みんな〈アダムスの占い〉に夢中になっています。あれだけ自分のものにするの、大変だったでしょう?」
「凝り性なんです。今も、家で練習しています」
「あなたが教えてくれたこと、うれしかった」
ウィルクスが不思議な顔をした。
「『邪悪な黒い犬』が対になる存在を見つける、って」
シンシアはそう言って、骨ばった手を薄い腹の前で組み合わせた。
ハイドからまた呼び出しがあった。星の巡りを占うのが苦手そうだから、特訓をするという。月に二回の貴重な公休日だったが、ウィルクスは昼過ぎからやってきて、黙ってハイドの前に座った。
ハイドがカードを切る姿を見守った。大柄な体躯をゆったりと椅子の中にあずけている。気配に厚みがあった。ランプで照らされる顔は、神経を集中していて引き締まっている。目が鋭い。眼窩の窪みが優雅だ。カードに触れる手つきはもっと優雅だった。長く逞しい指が、撫でるようにカードを繰る。この人は女性に触れるとき、こんな手つきなんだろうか。
触ってほしい。そう思ったことに気がついて、ウィルクスの顔から血の気が引いた。頬を力いっぱい叩くと、ハイドが目を丸くした。ウィルクスはカードを受け取りながら言った。
「おれ、もう結婚したいなと思うんですよね」
ハイドが瞬きする。
「好きな人がいるのか?」
「いないけど……もう、二十七だし」
「結婚はしたいときにするのがいちばんいいよ。遅い早いはない」
「でも、今しないと、一生できない気がして」
そうか、とハイドは言った。ウィルクスはカードをテーブルに並べる。
「これまでつきあった人はいたのか?」
ハイドが尋ねる。ウィルクスはうなずいた。
「二人いました。女性です」
わざわざ女性と付け加える。
「一人はとても明るい人、もう一人はおとなしい人だった。どちらも、あまり長続きしなかった。しっくりこなくて。向こうも、おれといると気づまりだったと思うんです。笑わないし、気の利いたことも言わないし」
「きみは自分を卑下する癖があるんだな。そんなことないよ。だってきみはいつも一生懸命話を聞いてくれるじゃないか。ぼくはよくフレッドに言われるよ。もっと相手のことを考えてしゃべれって。きみの前なら、安心してしゃべってしまう」
「それは、おれは聞くくらいしかできないから」
ウィルクスはカードをめくった。
「でも、あなたの話をほんとに全部理解できてるのかはわからない。自信がないんです。あなたは頭がいいし、大学も出ている。おれはグラマー・スクールを出ただけだし……。刑事になって、まだ三年だし」
「だから頑張ってるんじゃないか」
「それくらいしかできないから。いつも、ちゃんとしようと思ってきました。警官になったら、だめなおれでも人の役に立てる。居場所があるんじゃないかと思ったんです。でも……おれはやっぱりだめだから」
ウィルクスの声がどんどん低くなる。ハイドはしばらく黙っていたが、そっと手を伸ばして頭をぽんぽんと叩いた。
「前も言ったね。ぼくはきみのいいところ、たくさん知ってる。そんなふうに、きみのいいところをわかってくれる人、きっとどこかにいるよ」
「そんな人、いるかな」
つむじにハイドの手の重みが残っているような気がする。ウィルクスは顔を上げて笑った。
「そんなこと言ってくれるのはあなたくらいですよ……」
そうかな、とハイドは言った。
「めくって」
ウィルクスの動きが止まった。
「ほら、ここだよ。そっちは三番目だ」
ハイドの声を聞きながら、思った。
脈なんかあるわけないんだ。気持ち悪いと思われた。それがつらかった。そして、ウィルクスは自分を気持ち悪いと思った。
そのとき、電話が鳴った。ハイドがすぐに出る。
「もしもし? ……こんにちは、アイザック」
ウィルクスは思わず耳を澄ませた。ハイド家の長兄、アイザックだ。
「どうしたんですか? ああ、もちろんそうですよね。強請り屋の話ですね。まだはっきりとしたことはわかっていません。そうですか。あと二日以内に金をよこさないと暴露する、と言っていると」
ハイドの声は落ち着いている。でも、なにか変だ、とウィルクスは思った。
「ええ、そのことはわかっていますよ」
気配がないのだ。いつもの、厚みのある気配。それが消え失せて、ハイドは机や椅子と一体化していた。
「ウィルクス君が来ていますよ。前にお話ししましたよね。彼は警官です。仕事をしながら好意で手伝ってくれるのは、大変なことなんです。……ええ。そうですね。ご存知ですよね」
そのとき、ウィルクスはふいに思いだした。この人が言ったのだ。ハイドさんに、死んでくれないかと。
「できるだけ、急ぎますよ。いえ、他人事だとは思っていません。……はい。それじゃあ」
ハイドは電話を切った。はあ、とため息をつく。振り向いた。その顔が急に緩んでいる。まるで固い雪が溶けて、柔らかな地表が見えたかのようだ。伸びをして、「昔から、アイザックは苦手でね」と言った。
「それは、苦手にもなりますよ。死んでくれないかなんて言ってくる人。いくら兄でも」
「アイザックがぼくを憎んでいるとは思わないでくれ。軽蔑はしていると思うけどね」
「あなたは軽蔑されるような人じゃない」
「ぼくが父と母に似てるから、だと思う。二人とも好色だったって兄は言うんだ。確かにね。ぼくは婚前交渉もするし」
さらりと出た言葉に、ウィルクスの胸がぎしりと鳴った。ハイドの口から性的な内容の話を聞くのは初めてだ。
「若いころはね。兄はぼくのそういうところが我慢できないんだろう。無責任に見えるところとかね。アイザックは父に似た絶世の美男なんだが、性格は正反対で、ものすごく責任感が強くて、律儀でね。それに頭もいいし」
ハイドは首を回した。
「うちの家を強請っている犯罪者の目的は金ではなくて、ぼくの命ではないか、とアイザックは言うんだ。本当に金が欲しいなら、父の不倫相手の夫を強請ればいい。高貴な家柄で隠し子もいるとなれば、絶好のスキャンダルだ。支払える金も多い。彼は妻を深く愛していたらしいし、妻の名誉を守るために金を出すはずだって」
「……そうなんですか?」
「その線からも調査している。きみは気にしないでいい」
気にします、という言葉を、ウィルクスは飲みこんだ。ハイドは椅子に腰を下ろした。
「アイザックとは、昔から馬が合わなくてね。でも、彼は家族の中では多数派なんだよ。ぼくは、家族からあまり興味を持たれない子どもだった。母は優しかったけど、父のことだけ見ていたし、父は気まぐれだ。でも、フレデリックは大人になってからは好意的だし、乳母にはとても愛された。彼女はぼくが大学生のときに亡くなってしまったけど、でも、つらい子ども時代ってわけでもなかったし」
「アイザックさんがあなたを傷つけるようなら、言ってください」
思わず、ウィルクスは鋭い目になっていた。そして、「言ってください」なんて、おれになにができるのだろうと思った。ハイドは目を丸くして、そして笑った。
「ありがとう。騎士は例え敵わない相手であろうと闘う。きみは本物のナイトだ」
ウィルクスは赤くなった。
「あなたの笑顔が好きだから。いつも笑っていてほしいんです」
「でも、ぼくの笑顔はおかしいよ」
ハイドはぽつりとつぶやいた。
「昔から、まともになりたいと思っていた。でも、どうしてもこんな笑顔になる」
ウィルクスの脳裏にストライカーの言葉が甦る。なにがあっても動じないし、いつもにこにこしている。冷静とはまた違うよ。神経がないんだな。
「おれの目にはまともに見えますが」
ストライカーの言葉を振り捨ててウィルクスが言うと、ハイドは黙って微笑んだ。
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