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愛の力#1
その翌日、ハイドはスコットランドヤードに姿を見せた。マクベイン事件のことを調べたいと言う。トルーマンが応対に出たことを、捜査で不在にしていたウィルクスはあとから聞いた。
「前も、マクベイン事件のことを調べに来てたよ。でもなにを調べてるのか教えてくれない」
トルーマンは困った顔をしていた。あの事件を調べてること、聞いてないぞ。ウィルクスはそう思ったが、同僚を責めるわけにはいかない。刑事たちの、ハイドを見る目が冷ややかさを増していることに気がついた。
次の日は占いの会の日だった。ウィルクスはいつもどおり会に出席した。だんだんこの会に顔を出すことが楽しくなっていた。未だに信じてはいないが、カードをめくり宣託を口に出すと、その場は静まり返った。ウィルクスはそれが不思議で、楽しかった。みんなが憧れる、しかし誰も持っていない玩具をもらった子どもに似ていた。
シンシアとは、いっしょに帰るようになっていた。会話はほとんどない。それがかえって互いに心地よかった。いつも靴が砂利を踏む音や、犬が吠える声を聞きながら、ゆっくり歩き、黙って帰った。
その日は深い霧が出ていた。ウィルクスは手探りをし、シンシアの手を握って、一歩一歩歩いていった。地上は黄色い霧に包まれて、街灯の明かりだけがかすかに丸く浮かびあがって見える。パルテノン神殿を思わせる、広大な敷地に建つ大英博物館も霧に沈み、海底の沈没船のようだった。夜は冷える。
ウィルクスのあとをついていきながら、シンシアが言った。
「誰に占いを教えてもらったんですか?」
「自己流ですよ」
ウィルクスは笑ってとぼけた。シンシアは聞こえなかったらしい。
「その人に会ってみたいわ。今週の土曜日は講演会だって聞いておられますよね? あなたの占いの先生と、ぜひ来てください」
そこでウィルクスは、もしやと思った。ミドルトンさんはおれの正体を知っているのではないかと。それで、わかりましたと答えた。シンシアは優しく微笑んでいた。
その日、ウィルクスはシンシアを送り届けると、やっと下宿に帰りついた。霧のせいで息苦しいが、煙草を吸いたくてたまらなくなった。占いの会は禁煙なのだ。ヤードではしじゅうふかしているので、我慢がつらい。激務と、ハイドへの協力が重なってストレスが溜まっているのでなおさらだ。
煉瓦造りのフラットの共同玄関から中へ入る前に、扉に背をもたせかけ、煙草を咥える。付け髭を外し、マッチに火をつけた。
そのときだ。
「火を貸していただけませんか?」
突然声が聞こえてぎょっとした。霧の中、目の前に男の姿が浮かび上がっている。
若い男だ。ほっそりした体つきが上品で、黒い帽子のつばの下に、見事な金色の巻き毛が覗いている。その顔を見て、ウィルクスは息を飲んだ。
まるで天使だ。教会に飾られた宗教画から抜け出てきた天使。金色の睫毛が、フラットの外灯で白く光って見える。瞳は珍しい菫色だ。整った顔立ちが清らかで、優しげだった。ウィルクスは我に返って、男にマッチを差しだした。男は煙草を咥え、先を火に近づける。火が男の顔を照らす。ふっと煙を吐き、微笑んだ。
「髭は暑いですね」
「……え?」
ウィルクスは顎に手をやった。糊で赤くなった跡がついているだけだ。男を引きとめようとした。しかし、もう姿はない。霧の中に紛れてしまったのだ。
「待ってくれ」
腕を突き出し、あたりを探る。どこにも姿はない。対岸の人間に訴えかけるように両腕を大きく振った。しかし、気配はすでになかった。遠くで靴音が響き、すぐに消えた。
ウィルクスはフラットに駆けこむと、階段の脇に置かれた共同電話に飛びついた。もう空で覚えている、ハイドの事務所の電話番号を回す。交換手が繋いでくれるまで、鼓動がうるさかった。
はい、と声がすると、ウィルクスは勢いづいて言った。
「ハイドさん。さっき、下宿の前で、おれが付け髭をつけていると知っている男が現れました。逃がしてしまいましたが、おれたちが探っているミドルトンさんの関係者なんじゃ――」
「旦那様はご不在でございます」
ホプキンスが言った。
「戻られましたら、掛け直すようお伝えいたしましょうか?」
「……ああ。いつからいないんだ?」
「午後にヤードにお出かけになられてからです。そのあと、お戻りになられておりません」
そうか、とつぶやいて、ウィルクスは電話を切った。
ふと、背後に気配を感じた。振り向く。玄関ホールの奥の暗がりにハイドが立っていた。
「ハイドさん! どうしたんですか? ケガをしてるじゃないですか!」
駆け寄って見ると、目の下にアザがある。唇が切れ、血が固まった筋が顎まで伸びていた。裂傷ができた手をウィルクスの頭に乗せ、そっと撫でた。
「ぼくがいなくなってもがっかりしないように」
ウィルクスの体が固まった。ハイドの手を跳ねのけて詰め寄る。
「どこかへ行くんですか?」
「行くかもしれない」
「おれも連れていってください」
「それはできないよ」
ウィルクスは傷を負った右手にのろのろと視線を向けた。
「もしかして、また命を狙われているんですか? なら、いっしょに行きます」
「いや、だめだ」
「ワトスンだって、ホームズがモリアーティ教授に命を狙われているときは喜んでついていきました。おれも行きます」
「だめだよ、ウィルクス君」ハイドは言い聞かせるように優しくささやいた。
「たぶん、もう遅いんだ」
ハイドの体をつかもうと手を伸ばす。しかしするりとかわされ、背後にまわられた。ウィルクスが振り向いたとき、そこには誰もいなかった。
電話のほうを振り向く。アリスが立っていた。ウィルクスの手をぎゅっと握る。
「来て。ヴィンセント広場よ! 急いで!」
体がばらばらになりそうなほど駆けた。心ではそうだった。しかし、霧が邪魔をする。走ることはできなかった。心が急いているのに、ゆっくりしか進めないことが地獄だった。前を行くアリスの後ろ姿さえ見えない。ただ、ときおりちらちらと鮮やかなブルーのスカートが見える。
「こっちよ。早く!」
アリスは狂ったように叫び、ウィルクスの手を引いていく。彼女は見えているんだ。それがわかった瞬間、うれしかった。ウィルクスはアリスの手に自分をゆだねて走った。なにも見えない霧の中を、彼女の導きだけを頼りに全速力で駆ける。ウィルクスはヴォクスホール橋通りを越え、ヴィンセント広場に向かった。正確に言えばその裏手に、探している家があった。
門を乗り越えて中に入る。家はしんとしていて、ひと気はない。黄色っぽい煉瓦が積まれた、ありふれていてこぢんまりしたテラスハウスで、窓にはすべてブラインドが降りていた。そっと玄関のドアノブを回す。鍵はかかっていない。慎重に踏みこむ。壁に絵も掛かっていなければ、花瓶があるわけでもない。玄関ホールは真っ黒な口を開けていた。
アリスが手招きする。
「こっちよ」
ウィルクスは彼女のあとを追った。悪しき者が身を潜めているかもしれない。怯える暇はなかった。それに、アリスが来いと言うなら、危険はない気がした。全神経を集中し、素早く階段を駆け上がる。ハイドのテラスハウスより手狭で、もうずっと空き家になっているらしい。どこにも異変はなく、誰もいなかった。拳銃があればいいのにと思ったが、職務で使うそれはヤードに保管していて、持ち帰ることはできない。二階の廊下に出た。左右に扉があった。
左の扉がわずかに開いていた。
そっと中を覗いてみる。闇の中で、なにかが動いている。天井から吊るされた黒い塊が自らの重みで揺れていた。
扉を開け放つと、ウィルクスは部屋に飛びこんだ。首吊りの真下に倒れている椅子を起こし、そこに飛び乗って、力のない体を抱きかかえた。
「ハイドさん!」
掠れた声でハイドの名前を呼び、さらに大きな声で叫んだ。
「ハイドさん! ハイドさん!」
ハイドの首を絞める縄を指で引っ掻く。そして、それでは外せないことに気がついた。天井から照明器具を吊るすための太い鈎針に縄が引っかかっているのを見つけて、そちらを外した。ハイドの体を支える腕は激しく痺れ、痙攣していた。
ハイドを床に下ろすと、首の縄をほどき、名前を呼びながら呼吸を確かめた。呼吸が止まっていたので、すぐに心臓マッサージと人工呼吸をおこなった。いくら息を吹きこんでもハイドは目覚めない。闇の中、かろうじて見えた表情は穏やかだった。
「ハイドさん、ハイドさん」
ウィルクスはささやきながらハイドの髪を撫で、人工呼吸を繰り返し、冷たい手をさすってみたが、変化はなかった。よろめきながら立ちあがる。階下に駆け下りて、隣りの家のベルを立てつづけに鳴らした。出てきた住人は話を聞くと、自宅に電話を引いてあったため、すぐに医者に連絡をとってくれた。
ウィルクスはもがくようにまた元の家に戻った。二階の部屋にたどりつくと、ハイドが同じ体勢で横たわっていた。彼の前にひざまずき、ふとその服を見る。上着のボタンのところにピンで紙が留めてあった。紙には「みせしめ」と書かれていた。
ウィルクスの視線はまたハイドの顔に戻った。胸は上下していたが、意識はいまだ戻らなかった。
かがみこんで、ハイドの唇に口づけた。もう一度そうしたあと、両手が震えてきた。
だが、ハイドは息をしていた。
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