14 / 26

愛の力#2

 そして、ハイドは助かった。意識障害も麻痺も残らなかった。 「きわどいところだったよ。どうしてきみはタイミングよくあの場所に駆けつけられたんだ?」  医者が驚くと、ウィルクスは「愛の力です」と答えた。アリスの愛の力だ。  ハイドの首に絡まっていた縄と、胸に留められていた紙は警察があずかることになった。意識を取り戻したハイドは病院のベッドに横になったまま話した。  警察から出たあとしばらく歩くと、身なりのいい服を着た少年が男たちに暴力を振るわれていたので、助けた。少年に感謝され、自宅に招きたいと言われたが、断る。なにかおかしいと思いあとを尾けると、少年はさっき暴力を振るっていた男たちと話しながらある家に消えていった。その家に忍び込もうとしたら、五人の男に周りを囲まれて拳銃を突きつけられ、あの場所に連れて来られた。 「ちょっと殴られた」とハイドは言った。 「でも、大丈夫。内臓は破裂してなかったし、吊るされたけど、きみが助けてくれたから」 「心配したんですよ」  ウィルクスはハイドの前に腰を下ろし、なじるように言った。 「そういうときは自分でなんとかしようとせず、警察に飛びこんでください。警察は一般市民を守るためにいるんです。あなたは探偵だが一般市民だ。自分を過信せず、これからは必ず助けを求めてください」  そこで気がつき、青ざめた。ハイドの上にかがみこむ。 「いや、あなたは自分を過信してるんじゃない。いつ死んでもかまわないと思っているんだ」  ハイドはにっこり笑った。 「泣きそうじゃないか、ウィルクス君」 「あなたの前では泣きませんよ」  傷を負っていない左手を差しだし、ハイドはウィルクスの手の甲にそっと触れた。 「あなたがいなくなると嫌だと、前に言いませんでしたっけ?」 「きみも殉職には気をつけたまえ」  ウィルクスはため息をつき、ハイドの手をぎゅっと握った。ハイドは笑った。 「応急処置をありがとう」  ウィルクスは眉を上げ、ふいとそっぽを向いた。 「もう一生分あなたとキスしましたよ」  目に涙がにじんだ。顔を背けたウィルクスのことを、ハイドは黙って見つめていた。 「……マクベイン事件について調べ直しているんだ」  ハイドが言った。 「そうらしいですね。なぜですか?」 「あの事件が鍵になってるんじゃないかと思う。強請り屋はぼくの命が欲しい。なぜかと考えると、報復がいちばんありえそうだ。ぼくは仕事上種々の恨みを買っている。それで、最近買った恨みを調べてみた。ぼくが警察に犯人を逮捕させた事件のうち、ここ一年でその犯人が死刑になった件が二つある。その他にも重大事件が何件か。その中でいちばん最近買った恨みがマクベイン事件だ。エヴァンズは捕まっていても落ち着いている、と聞いたよ。弁護士が優秀だからかもしれないが、それだけじゃない。彼の背後に誰かがいるんだ。でかい誰かが。その誰かを捜している」 「警察でもその件について調べてみます」  ウィルクスはむりに気持ちを奮い立たせて言った。 「エヴァンズの背後をもっと厳しく洗いますよ」  ハイドは刑事の手の甲を軽く叩いて、笑いかけた。 「少し疲れてきた。しばらく眠るよ。それから、もし命を狙われているとわかったら、警察に助けを求める。確約するよ。それで安心してくれるかな?」  聞き分けの悪い子どものような扱いをされていることにぶすっとしながら、ウィルクスはうなずいた。ハイドは本当に疲れているように見えた。彼が眠る前に訊きたいことがあった。 「どうしてあのとき、おれの前に現れてくれたんですか?」 「ぼくの前で泣くきみが見たかったから」  ウィルクスの眉が吊りあがったのを見て、ハイドはすぐに言った。 「嘘だよ。悪かった。きっときみががっかりすると思ったんだ」 「もう助けてあげませんからね」  ウィルクスはハイドを睨みつけた。年下の青年がいつもの顔に戻ったことに、ハイドはかすかな喜びを覚えた。真剣に怒っているウィルクスは、ハイドには可愛らしく見えた。それは一生懸命な男の子を見守っているようで、少し違っていた。しかし、自分の気持ちに気がつかない。ウィルクスの顔を見ていると、自分は死ななかったのだという思いがふと込みあげてきた。 「おやすみ、ウィルクス君」 「おやすみなさい」  目を閉じたハイドが眠りに落ちると、ウィルクスは本当にただ眠っているだけなんだと納得できるまで、そこにそうして座り、首にできた赤い痣と血色の悪い顔を交互に見つめていた。  アリスがウィルクスの後ろに立って、同じようにハイドの顔を見つめていた。  翌日、仕事に出たときは、霧はすっかり消えていた。曇っていて、寒かった。震えながらヤードの門をくぐり、ウィルクスはオフィスの自分の席に座った。すでに隣で書類を書いていたトルーマンが、顔を上げる。 「ハイドさん、大変だったな。ウィルクスも平気か? ハイドさんのこと、助けたんだってな」 「その話、みんな知ってるのか?」 「ヤードの連中はみんな知ってるよ。新聞にも出てたしな」 「面白おかしく書かれてたよ。『警官の第六感も捜査には有効?』だって。……みんな、ひどいこと言ってるんじゃないか?」  あの探偵、いっそ死ねばよかったのにな、とか。自分で質問しておいて、答えを聞きたくなかった。トルーマンは「んー」とうなった。そして笑った。 「でも、なんともなくてよかった。おれもさ、ハイドさんに憧れてるんだ」  トルーマンは照れくさそうだった。 「ハイドさん、凄いよな。いつも冷静で、悪を見抜く目を持ってて。本物の紳士だし。おれもハイドさんみたいになりたいな。ウィルクスもそう思ってるんだろ?」  ああ、とウィルクスは答えた。笑顔が浮かんだ。  その日、仕事帰りにハイドの病室を訪ねた。ハイドはベッドの上に起きていて、その膝の上にアリスが乗っていた。ウィルクスは思わず固まる。彼女はベールを持ち上げていた。金色の睫毛に縁どられた大きな青い目に力があった。小さな鼻先、ふっくらした赤い唇。きゅっと結ばれている。乳白色の柔らかな肌には薄茶色のそばかすが浮かんでいた。ハイドが言うように可憐で、はっとするほど美しい。死人なのに、生気に満ちていた。まるで白い薔薇だ。  その小さな顔に、ウィルクスは勝てないと思う。 「アリス、二人きりにしてくれるか?」  ハイドが頼むと、アリスはつんと顎を反らして霧のように消えた。今さらながら、ウィルクスの胸に嫉妬の黒い炎が渦巻く。 「座って」ハイドが椅子を勧めながら言った。 「さっきまで、フレデリックが見舞いに来てた。きみに助けてもらったと話したら、礼を言ってたよ」 「アイザックさんは?」 「アイザックは来ない。ただ、電報をもらった。『強請リ屋カラノ連絡ナシ』、それだけだ」 「エヴァンズについて調べています。やつは吐かない。ただ、少し落ち着きを失くしています」 「いい傾向だ。その調子で責めてくれ」  うなずき、ウィルクスは言葉を探した。眩しすぎてハイドの顔が見えない。 「調子はどうですか?」  なんとか尋ねると、ハイドはうなずいた。 「だいぶよくなってきたよ。三日後には退院するつもりだ」 「命を狙われていて、不安でしょう?」 「平気だよ。こういうことは慣れている」 「おれとしては、あまり慣れてほしくないですが」 「お母さんみたいだね」 「……年下の男になにを言ってるんですか」 「可愛いな」  ウィルクスは馬鹿みたいに口を開けた。 「可愛い?」 「意外だな。きみはとてもかっこいい。いつも、きみみたいな美男はいない、きみほど凛々しくて男らしい人はいないと思ってきた」  ハイドは無邪気に目を瞬く。 「今でもそう思っているよ。だが、きみはなんというか、可愛い」 「……は?」  硬直が解けたあと、ウィルクスは真っ赤になった。耳も内側から染まった。「やめてください」と怒った顔になる。 「変なことを言うのは」 「あ、ごめん」  ハイドは勢いに圧されて目を瞬いた。ウィルクスは恨み言を言いそうになる。この人は、たしかに神経がない。おれがあなたを好きだってこと、知ってるはずじゃないんですか。  いや、本当は知らないのかもしれない。ウィルクスはふと思った。全部、おれの暴走なのかも。だってそうじゃなければ、この人がこんなことを言うなんておかしい。ふつうなら、気持ち悪がったりするものじゃないか? 「ぼくは、まともじゃないから」  心の中を読んだかのように、ハイドが言った。 「変なこと、言っちゃうんだよね」 「あなたがまともじゃないとは思いませんよ。……それを言うなら、おれのほうが、まとも、じゃない」 「きみはとてもまともに見えるけど。でも、そういうことは本人にしかわからないものだからね。じゃあぼくら、まともじゃない同士か。それもいいね」  なにがいいのかわからない。それでも、にこにこしているハイドの顔を見ていると、ウィルクスの体は軽くなった。 「じゃあ、また様子を見に来ます」  そう言って、病室から出た。扉の外にアリスが立っていて、ぎくっとする。彼女はちらりとウィルクスを見ると、すべるような足取りでハイドがいる病室の中へ消えていった。  ハイドに、シンシアが言った言葉を伝え忘れていたことに気がつく。占いの先生と講演会に来てと言っていた。そのことを伝えようとふたたび扉を開けると、アリスがハイドの膝の上に乗って、彼の頬を撫でているところだった。

ともだちにシェアしよう!